はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

亀の風土記:山形県

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久しぶりの酒田

 とある慰安旅行で、久しぶりに庄内地方―山形県―に行ってまいりました。
 数年前まで、年に数回は訪れていた庄内地方ですが、最近はめっきりご無沙汰でした。
 しかし、なにしろ慰安旅行なので、特に探索や調べ物を出来るわけでもなく、団体行動で決められたコースをただ“のほほん”と巡るしかありませんでした。
 そもそも庄内は会津や平泉と並んで私のお気に入りのエリアであり、今さら観光というのもどこかよそよそしいような、気恥ずかしいような、得体の知れない感情まで芽生えかけるところではありますが、ところがどっこい、ベタな話、酒田市の「本間家旧本邸」向かいの「別館―お店(おたな)―」で思わぬ収穫を得られたのです。最近流行りの言葉で表現するならば、「降りて来た」というヤツでしょうか。
 念のため補足しておきますと、「本間家」とは、江戸時代に最上川河口の酒田を拠点に活躍した全国屈指の大豪商です。
 「別館―お店―」とは、本間家創業の震源地とでもいうべき店舗のことですが、現在、お土産屋さんの体を併せ持ちながら、建物そのものも旧態を残す貴重な観光資源として、また、本間家縁の諸々の物品も展示されていて、ちょっとした歴史館風な雰囲気を漂わせております。
 その貴重な展示品の数々について、土産コーナーの店員を兼ねた館内ガイドの女性スタッフが案内してくださったのですが、私の目に止ったのは、「本間家に縁がある〜」と彼女が説明してくれたところの写真パネル群の中の一点でした。
 そこには、尼僧の像の写真と「徳尼」の文字が見えました。

 (徳尼・・・)

 あきらかに最近脳内で活躍していた言霊なのですが、それが何であったのか、一瞬思い出せませんでした。

 (そうだ!白水阿弥陀堂だ!)

 思い出しました。
 奥州藤原氏初代清衡の娘ともニ代基衡の娘とも伝わる尼の名です。嫁ぎ先の磐城(いわき)―福島県いわき市―で、平泉の金色堂を摸した「白水阿弥陀堂」を建立した女性の法名です。
 それとはたして同一人物か否かはわかりませんが、目の前には「徳尼像」と、それを本尊(?)とする堂建築の写真がありました。その像は酒田市内の「泉流寺」にあるとのこと・・・。筆記用具を持ち合わせていなかったので自分の記憶だけが頼りですが、写真パネル脇には、たしか元禄○年(17××年)に本間家が再建した云々・・・といった旨の説明が書いてありました。
 江戸時代の本間家がどう関わっていたのか、それ以前に、この徳尼が奥州藤原の女性であるのか、私は先程のガイドさんに尋ねました。

 「この尼さんは、どの時代の人なのですか?」

 「え・・・、あ、・・・少々お待ちください・・・」

 ガイドさんは要領を得なかったらしく、近くにいた上品なスーツ姿の男性を呼びとめ、取り次いでくださりました。てっきり観光客かと思っておりましたが、上司の方なのでしょうか。彼は、やおら私の方に向き直り、軽くお辞儀をすると説明を始めました。

 「川―最上川―の向うにあったものを江戸時代に本間家がこちらに移したと伝わっております」

 「あ、いえ、像の話ではなく・・・この徳尼という人自体はいつの時代の方なのでしょうか・・・」

 「あぁ、平泉の奥州藤原氏の時代です。藤原秀衡公の妹さんともお妾さんとも云われております・・・」

 「(来た!)やはりそうでしたか!」

 思わず声の弾む私は饒舌にならざるを得ませんでした。

 「いえ、福島県のいわき市の白水阿弥陀堂にも奥州藤原氏縁(ゆかり)の“徳尼”伝説がありまして、その白水は泉の文字を白と水に分けたものらしいのですが、今、こちらの写真を見ておりましたら、縁(ゆかり)のお寺がいみじくも“泉”流寺だったので、もしかしたら同じ根っこの伝説なのだろうかと気になったんです」

 そう言うと、心なしか彼の表情が少し怪訝に変わったように見えました。

 「そちらの話はわかりませんが、奥州藤原氏が滅亡した際、36人の家臣が徳尼を護衛しながら酒田に逃げてきて、その人達が酒田の湊を開いたと言われております。毎年こちらの代表者が平泉中尊寺に出向いておりまして、またこちらの行事の際にも平泉中尊寺から代表の方が参加されております」

 あたかも、その辺の伝説と一緒にするな、と言わんばかりに、平泉との公式な交流関係が今尚続いていることを彼は教えてくれました。後から思ったのですが、もしかしたらこの紳士は本間家の方であったのかもしれません・・・。
 いずれ、興味深い情報をご教授いただきました。

*現在の酒田湊を築いた人達が亡国の奥州藤原氏の家臣団であったかもしれないこと
*謎の本間一族の始祖がその中の一人であったかもしれないこと
*彼らが「徳尼」を護衛して当地に逃げ延びてきていたらしいこと
*徳尼は酒田で没したと伝わっていること
*徳尼の供養に関連して現在も尚酒田と平泉との間に相互交流が続いていること

 そういえば、藤原相之助は論考の中で次のように語っておりました。

 「この徳尼は平泉滅亡の後、出羽の田川郡司のところへ行て、そこで終わつたらしいのですが、この阿弥陀堂―白水阿弥陀堂―は秀衡全盛の頃徳尼が平泉の金色堂を模して作つたのだとは諸記録の一致するところです」

 出羽の田川郡とは、現在の酒田の南側一帯のエリアのことです。
 いわき・酒田双方の伝説を照らし合わせてみても、特段の矛盾はなさそうです。
 双方の伝説を咀嚼してみるならば、磐城氏姓の夫に先立たれて後家となっていた徳尼は、なんらかの事情によって平泉に帰っていたのでしょう。
 その事情は容易に推察出来ます。実家の平泉が鎌倉と対決することになったからに違いありません。
 結果、実家平泉は敗れて滅亡するわけですが、その際、残存の家臣三十六騎が徳尼に生き恥をさらさせまいと平泉から連れ出し、出羽の田川郡に逃れたようです。
 そして彼らは、新天地たる最上川河口を開拓したようです。それが湊町酒田の始まりでありました。
 酒田の地名は、「砂潟」に由来していると聞きます。
 砂潟と呼ばれた潟湖ないし湿地帯の畔に築かれた湊町は、流路の定まらない最上川の氾濫によってたびたび水没したらしく、幾度か移転しております。
 最終的には、おそらくは室町時代頃、最上川左岸の「宮野浦」から右岸の現在地に遷され、落ち着いたのです。
イメージ 1
山居倉庫
イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

 なにやら、「泉流寺」に行ってみたくなりました。
 また、現在の最上川の反対岸「宮野浦」にあったという古き酒田の痕跡もひと目確認したくなりました。
イメージ 5

 結局、不自由な慰安旅行の後、私はあらためて酒田を訪れてしまうのでした。

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