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湊町酒田―山形県―における「徳尼伝説」の震源地たる「泉流寺(せんりゅうじ)」は、現在、酒田市内のいわゆる寺町にありました。 どうも見覚えのある風景だと思いましたら、幾度か、西隣の「酒田市総合文化センター」に訪れたことがありました。そこには「酒田市立図書館」があります。 数年前、不思議アイランド「飛島(とびしま)」行きのフェリー「ニューとびしま」の欠航で、渡航が叶わず、やむを得ず籠ったのもこの図書館でした。 さて、寺の山門をくぐると、左手にあらたまって塀で囲われたお堂があり、特段の確認をせずとも、すぐにこれが徳尼を祀っているものだとわかりました。 お堂の、向かって左奥には「三十六人衆之碑」があり、今も尚三十六人の遺臣らが徳尼に侍り、護衛している雰囲気が伝わります。 泉流寺の山門脇の説明板の内容は以下のとおりです。 ―引用― 酒田市指定有形民俗文化財 徳尼公廟 文治五年(一一八九)平泉滅亡の時 藤原家の遺臣三十六騎が 秀衡の妹(あるいは秀衡の後室・泉の方)と称する女性のお供をして平泉を逃れ やがてこの地に落ちのび 泉流庵を結び徳尼公となり 藤原一門の菩提を弔いながら静かに余生を送り 建保五年(一二一七) 四月十五日八十七歳で没した 泉流庵とは平泉から流れてきたことを表し 後に泉流寺と改称された 尼公没後 遺臣三十六人は地侍となり 廻船業を営み酒田湊繁栄の礎を築き 後三十六人衆と称された 開祖徳尼公の木像は 宝暦元年(一七五一)に焼失した後明和元年(一七六四)本間家三代四郎三郎光丘が京都でつくらせた 尼公像をまつる廟も 寛政ニ年(一七九〇)本間光丘の寄進によって建立された 境内には三十六人衆記念碑があり 毎年四月十五日には徳尼公の法要が行われる 酒田発祥と繁栄の伝承を伝える遺産として 貴重なものである 平成十六年三月十二日指定 酒田市教育委員会 この内容を『【ジュニア版】酒田の歴史』の記述と見比べておもしろいと思ったのは、大筋同じ物語でありながら、片方にはない情報が互いに盛り込まれていることです。 現地説明板にあってジュニア版読本にない情報の最たるものは、なんと言っても泉流庵の名の由来でしょう。現地説明板は、これを「平泉から流れてきたことを表し〜」としております。いわば福島県いわき市の「白水阿弥陀堂」の「白水」と同じです。 また、三十六人衆が「廻船問屋を営み酒田湊繁栄の礎を築き〜」という情報もジュニア版読本の徳尼伝説のくだりにはありません。※別項にはあります。 反対に、ジュニア版読本にあって現地説明板にない情報で印象的なものは、例の紳士が語っていたところの現代における平泉中尊寺との交流の件や、「東永院殿水庵泉龍徳公尼和尚」といった位牌の銘、「念持仏の薬師如来を信仰し〜」、「三十六人衆のだん家は一軒もない〜」といった、すなわち、やや、宗教宗派の性格に関わる部分でしょうか。 なにしろ双方とも酒田市教育委員会によるものでありますから、各々の主旨に合わせて割愛する部分が異なったと捉えるべきでしょう。 しいて双方で相容れない情報を論(あげつら)うならば、泉流庵―泉流寺―の「流」の文字の意味するところでしょうか。 現地説明板は、平泉から流れてきたことから「泉“流”」である旨を記しておりますが、ジュニア版による位牌の銘は「泉“龍”」でありました。 もちろん、単に当て字かもしれませんが、私はむしろこの“龍”こそが本来であったのではなかろうか、という気もしております。 ところで、ジュニア版読本の記事文末には、伝説に対する執筆者の所見らしきくだりがありますので、これをとりあげてみます。 ――引用:『【ジュニア版】酒田の歴史(酒田市教育委員会)』より―― 人は自分の出身が高貴であってほしいと願っている。封建社会においては有力武将や大名なども名家の系図を借用して自分の家の系図の上にそれをつける者もあったといわれている。また、それを職業にしていた者も居たとのことである。徳尼公伝説、三十六人衆発祥伝説なども、自分たちの家を「北方の王者」に結びつけたいとする高貴なものへのあこがれ、仲間の団結に対する精神的なよりどころとするためであろう。また、大名支配に対する自由、経済活動の自由などの願いをこめているものと思う。 なにやら、奥州藤原氏とのつながりは創作である、という前提のようです。
しかし、はたしてそうなのでしょうか。 なにしろ、三十六人衆は廻船問屋を営んで都市の繁栄を築いたくらいですから、武士である以前に、いわば選りすぐりの商社マン達であり、農業武士に比べてかなりのリアリスト―現実主義者―集団であったと推察します。 したがって、仮に系譜を創作するならば、それが商いに利するようでなければなんら意味がなかったはずだと思うのです。 なにしろ奥州藤原氏は「東夷の遠酋」やら「俘囚の上頭」を“自称”しておりましたし、源氏政権下にあってははっきり“賊軍”です。 彼らが高貴な「北方の王者」などと評価されるようになったのはいつの頃からなのでしょう。私は、かなり最近になってからではないか、と思うのですが、実際はどうなのでしょう。厳密には調べてないのでなんとも言えません。 仮に奥州藤原系譜を仮冒する風潮が、実は鎌倉〜室町時代においても既に一般的なものであったのだとしても、それとは別次元の部分から私は三十六人衆に奥州藤原氏の影をみるのです。 それは、湊町酒田の都市計画です。 |
亀の風土記:山形県
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