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昭和五十一年十月二十九日、酒田市内において、上映中の映画館から出火した炎は、瞬間風速35メートルという台風並みの強風にあおられ、市民、消防隊、自衛隊による総力挙げての消火活動をあざ笑うかのように翌朝未明まで燃え狂いました。 これによって、酒田の中心市街地の大半が焼きつくされました。 世に言う「酒田大火」です。 当時の実況中継のようなニュースを、私もおぼろげながら記憶しております。 そのニュースから約10年後に私は初めて酒田を訪れたわけですが、とても石巻―宮城県―と同等の人口12万人規模―当時―の都市とは思えないほど整然としていたことに驚いたことを覚えております。 特に、西から東に燃え広がった大火の教訓から、延焼を食い止めんがために設けられた幾筋かの南北の大通りが私にそう思わせたようです。 また、一時は歩行者天国化されたというアーケード商店街も洗練されておりました。 ただ、これについては、どうにも郊外のロードサイド店舗などに客足を奪われてしまったようで、結局自動車の通行を受け入れる形に戻っていきました。当時案内していただいた某大学教授によれば、歩行者天国が成立するには人口にしておおよそ50万人以上の都市であることが必要らしいので、酒田は背伸びし過ぎてしまったということでしょう。 今回あらためて立ち寄ってみると、商店街には完全に車道が貫いておりました。 同教授によれば、この東西筋の商店街は炎の通り道になってしまったため、大火の後、各建物はニ階以上をオーバーハングされて再建されたとのことでした。なるほど、確かにそのようになっておりました。 日本海からの季節風は、最上川をつたって東の内陸部へ吹き抜けるわけですが、酒田はその最上川の河口に発展した湊町であるので、そもそも西から東に吹き抜ける海風の通り道でもあるのです。 『【ジュニア版】酒田の歴史(酒田市教育委員会)』は三十六人衆による酒田のまちづくりについて次のような疑問を投げかけております。 ――引用―― 〜北西の季節風が発達すると大火がおきる酒田で、柳小路や大通りのような南北に幅広い大きな通りをつくって、大火に備える町づくりをどうしてしなかったのかという疑問ものこる。 たしかに、最上川の氾濫・洪水という自然災害から難を逃れるべく、興亡を賭けて大移動を決断したわりには、結果論ながら、片手落ちの感が拭えません。 しかし、彼らが火災に対して鈍感であったはずはありません。 何故なら、酒田は、戦国時代から宝暦年間―18世紀:江戸時代―にかけても、度々北西風にあおられた大火に悩まされているからです。 そして、実際に対症療法のような防火対策も実行されていたようです。 ジュニア版読本によれば、1601年に最上軍が酒田町に火をかけた様子が『庄内昔聞書』なる俗書に伝えられているとのことで、その後の町づくりは亀ヶ崎城主の「志村伊豆守光安(あきやす)」が長人(おとな)―三十六人衆―を動かして焼け跡を整理し、割りなおしたのだそうです。 その際、南北に数多くの小路を割りつけて、一応は防火に備えたようです。 しかし、結果的にはその後も大火に悩まされていたということでありますから、根本的な町割りについては変えていないのでしょう。 だとすれば、防火対策以上に重要視すべき何かがあったのではないか、とも考えられます。 そのあたり、ジュニア版読本はこう結論づけます。 ――引用:前掲書―― これは、酒田湊が最上川や新井田川にそってできたからであろうし、もう一つは太陽崇拝によるものではないかとも考えられる。 「太陽崇拝」――。 いよいよおもしろいキーワードが出てまいりました。 地勢的な事情で町割りが川に沿ったのだとしても、それだけなら東西軸を要所で分断して、海風による延焼に強い南北筋主体の町割りでよかったはずです。 しかし、実際にはそうなっていなかったのです。だからこそ酒田大火は再発したのです。 したがって、私はその太陽崇拝論を支持します。 太陽崇拝の可能性については、特に現代の有識者による仮説という類のものではありません。具体的な内容が酒田町組長人松田家の家伝にしっかり伝えられているようです。 ――引用:前掲書―― 酒田町のはじまりはわからない。伝えるところによれば、長人(おとな:三十六人衆)は西浜の砂原を開拓して町並みをつくり、日枝(ひえ)神社祭礼の日(旧暦四月中の申の日)に太陽が日本海に沈むまっすぐの線(正中線)を選んで、一ノ丁より七ノ丁まで町割りして本(元)町と名づけた。これを酒田の背骨である都市軸とし、三十六人の長人がここに屋敷をかまえ、酒田町組の根幹とした。(酒田町組長人松田家伝)。おそらく最上川河口にそって町並をつくり、川岸に船着場や倉庫を置いたものであろう。 思いのほか明確な意思が町割りに採用されていたようです。 何故酒田は季節風の通り易い東西筋主体の町割りになったのか――。これはもう松田家伝の伝えるところが“答え”でしょう。 先に、日枝神社の神が彼らにとってかなり重要であったと書いておきましたが、このことからしてあきらかです。どうやら酒田の町割りは、太陽崇拝に基づいて、日枝神社を起点に決められていたようです。 先に触れたとおり、向酒田から当酒田への湊町移転の相談は、宮野浦の日枝神社にてなされたということでしたが、やはりこれは単なる集会の場ということではないでしょう。もしかしたら、湊町酒田にとっての最も重大な決断に際して、日枝神社の神託を仰いでいたのでしょう。 それが何故日枝神社であるのかは、現段階の私にはわかりません。 日枝神社―日吉神・山王権現―は、かなり古くから近江―滋賀県―の比叡山に坐していた地主神で、後に当地を本拠とした伝教大師最澄およびその後継者たる慈覚大師円仁の天台宗とも密接な神祀りですから、平泉中尊寺が天台宗東北大本山であることと関係があるのかもしれませんし、あるいは、川の氾濫に悩んでいたのですから、そこに水神の性格を投影していたのかもしれません。 いずれ彼らは、日枝神社の祭礼日の夕日を、市街地の隅々にまで差し込ませたかったのだと思います。その聖なる夕日を、全ての町人が遥拝出来るように町割りされたのではないのでしょうか。そして、もしかしたらそのことを日枝の神様に約束していたのではないのでしょうか。 したがって、何度大火に襲われても、東西軸を遮断する再開発だけは絶対に避けられてきたのではなかろうか、と私は考えます。 ここで、平泉研究の権威とでもいうべき入間田宣夫さんの興味深い論説を挟んでおきます。 入間田さんは、豊見山和行さんとの共著『北の平泉、南の琉球(中央公論新社)』の中で、次のようなことを語っております。 ――引用―― 秀衡の都市計画においては、東西に延びる二本の軸線が強烈に意識されていた。その一本は、中尊寺金色堂から秀衡の平泉館に連なる先祖崇拝の軸線であった。もう一本は、金鶏山頂から無量光院本尊の頭上を経て、秀衡の加羅御所に連なる浄土信仰の軸線であった。 〜中略〜 平泉は、宗教の東西軸線によって造成された不思議な都市であった。平安京など、中国モデルにもとづいた既存の都市が、南北のメインストリート(朱雀大路)を基軸にしていることに比べると大きな違いである。平泉は、日本独自のモデルによってかたちづくられた最初の都市であった。 これによって私が何を言いたいのかというと、「東西軸が強烈に意識された都市計画」という点において、酒田と平泉は共通しているのではないか、すなわち、酒田三十六人衆は平泉の思想を継承していたと言えるのではないか、ということです。
仙台の國分荘玉手崎に伝わる一連の小萩伝説―≒奥州藤原氏伝説―が、天神、すなわち太陽信仰と密接であろうことは既に語りました。 また、鎌倉時代から室町時代にかけて、酒田の問丸が、小浜、敦賀、三国―いずれも若狭:福井県―や、直江津・蒲原津―いずれも越後:新潟県―といった、いわゆる越の主だった湊町の問丸とともに商業活動を展開しただろう旨を、いみじくもジュニア版読本が推測しております。 越エリアは白山信仰の濃厚なエリアでもありますが、白山信仰と奥州藤原氏が浅からぬ関係にあったことは、単なる日本海沿岸という地勢の織りなす偶然でしょうか…。 やはり私は、酒田三十六人衆が自称する「奥州藤原氏の遺臣」という伝説を脈絡のない創作とは思えないのです。 |
亀の風土記:山形県
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