はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

亀の風土記:宮城県

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 大野七三さんは、『皇祖神饒速日大神の復権(批評社)』の中で、梅宮大社の祭神「酒解神」とは「饒速日尊であることに間違いない」としております。
 どういうことかというと、まず、大野さんは「大山祇神」という神名を、ある種の普遍性を有する“尊称”とみており、その前提の上で、三輪山の大物主神も“古代大和の大山祇神”である、と捉えておりました。
 梅宮大社の酒解神の別名たる大山祇神は、まさにそれであるとしているのです。
 そしてそこに、三輪山の大物主神は饒速日尊である、という大野さんの持論が結び付き、酒解神=大山祇神=大物主神=饒速日という具合に論を辿りつかせております。
 しかし、そもそも大物主神が饒速日であるという論拠について、実は私は今一つ要領を得ておらず、それが妥当か否かの判断も現段階ではつきません。古代三輪山の太陽信仰の観点から思うところは多々あるのですが、煩雑になるので割愛させていただきます。
 いずれ、少なくとも三輪山と酒の因果関係については、真っ先に私の頭に浮かんだ秦氏の大酒明神や豊受大神に優るとも劣らない、いえ、むしろそれ以上と言えるほどに密接なものであることは事実です。
 そう言えば、昨年末に購入した『サライ』の新年特大号―2014年1月号―に、大神神社の禰宜平岡昌彦さんらへの取材を元にした御神酒の特集記事が掲載されておりました。
 「日本の酒造りは、三輪山の祭祀から始まった」という副題は実に象徴的です。
 また、同じ大神神社の元宮司の中山和敬さんは、『大神神社(学生社)』の中で次のように語っておりました。

――酒が「味酒(うまざけ)三輪」と、三輪の枕詞につかわれているほど、酒と三輪は深い関係をもっている――

 なるほど、『播磨国風土記』の「神酒(みわ)の村――伊和(いわ)の村――」のように、古くから「酒」や「神酒」と表記して「みわ」と読ませる例はあったようです。
 『古事記』の「意富多多泥古(おほたたねこ)」の自己紹介などから、おそらく大物主には甕(みか)の神の性格のあることが推察され、神酒(みわ)の語源となったであろう三輪山のミワも、酒そのものよりもむしろそれを入れる器―甕(みか)―にこそ語源があるものと考えられますが、酒解神が大物主であるか否かに関わらず、酒の神と聞いて真っ先にこれだけのビッグネームを頭に浮かべなかった自分については反省しなければなりません。
 いずれ、これら三輪山の神酒に関わる伝説の震源は、『日本書紀』の祟神天皇紀にある大物主の醸酒の神話にあると言ってよく、そこに登場する「活日(いくひ)」なる高橋邑の人も、「活日社」としてしっかり三輪山に祀られており、“杜氏の祖神”として崇敬されているようです。
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 さて、つい三輪山の話にそれてしまいましたが、梅宮大社がどのような事情で祀られ始めたのかについては、祭神の謎めきとはうらはらに、意外に具体的な顛末が伝えられております。
 梅宮の神は、人皇43代元明天皇から「橘宿禰」の氏姓を賜り名門橘氏の祖となった「県犬養三千代」によって、“橘氏一門の氏神”として山城国相楽郡に祀られたとされております。
 三千代は、同40代「天武天皇」の御世に命婦(みょうぶ)として宮中に仕え、42代「文武天皇」の乳母を務めたとも言われ、30代「敏達天皇」の曾孫「美努王」に嫁して、橘氏屈指の権勢を誇ることとなる「葛城王―橘諸兄―」や、「佐為王―橘佐為―」、藤原北家の母系の祖となる「牟漏女王―藤原房前夫人―」らを生んだ女性です。
 その後三千代は夫の美努王が太宰帥として京を離れたため、「藤原不比等」の妻となり、「光明子―光明皇后:45代聖武天皇后―」を生んでおります。
 梅宮の神は、その光明皇后と牟漏女王―藤原房前夫人―といった錚々たる橘出自のいわばファーストレディらによって山城国から奈良の都に遷されたようですが、最終的に52代嵯峨天皇の皇后「橘嘉智子―壇林皇后―」によって現在地―京都市右京区―に遷し祀られたようです。
 これが具体的にいつのことであったかにもよりますが、橘嘉智子の信心が絡んでくると、ふと、「承和の変」との因果にも思いが及びます。
 嘉智子は何を思ってこの神を現在地に遷したのでしょうか。
 嘉智子の孫である55代「文徳天皇」は、嵯峨上皇の崩御を見計らったように本来の皇太子であった「恒貞親王」を失脚させて即位したものでした。
 おそらく最大の黒幕は「藤原良房」だと思いますが、詔を発したのはあくまで54代「仁明天皇」であり、なにしろ恒貞親王の廃太子は亡き父嵯峨上皇の意向に叛くものである以上、最低でも母嘉智子の黙認がなければ成り立たない政変であったと推察するに難くなく、つまり嘉智子の胸中にも少なからず苦みの残る事件であったことは間違いないでしょう。  
 この政変には藤原良房による身内も含めた他氏排斥の思惑が絡んでいたと思われ、同族上位の「藤原愛発(あらち)」を筆頭に、傍系とはいえ、「伴健岑(とものこわみね)」や「橘逸勢(たちばなのはやなり)」といった名門氏族の政府高官らも失脚しております。
 特に逸勢などは、傍系とはいえ、嘉智子と同じ橘氏の人物であり、嘉智子の存在によって一時の巻き返しを実現していた“橘”という“名門氏族の一人”としての嘉智子の立場にあっては、先祖に対して少なからず罪悪感のような感情を残したのではないでしょうか。
 遡れば、先の光明皇后や牟漏女王といった橘系の藤原の女性たちは、何故山城に鎮座していた橘一門の氏神を自分の住む奈良の都に遷したのでしょうか。
 遷座の時期は明確でありませんが、少なくとも彼女らの時代の橘氏は諸兄を筆頭に全盛期にありました。
 しかし、諸兄が没すると、その子奈良麻呂は藤原氏との政争に敗れ、謀反の罪を着せられ獄中に死にました。そして橘氏はしばらく冬の時代に入ったわけです。
 思うに、橘一門の氏神が山城から奈良の都に遷されたのはその時期ではなかったか・・・。
 ようやく芽が出て来たのは、奈良麻呂の孫である嘉智子が嵯峨天皇の皇后になってからでありましたが、なにやら、光明子や牟漏女王の事情は、嘉智子の事情と構図が似ているように思うのです。
 いずれも、橘系の女性が政権中枢にあり、橘一族自体の権勢が強まっていた時期に、彼女らに近しい藤原氏の政府高官が橘氏の鼻っ柱を折ってしまうのです。
 あくまで想像ですが、光明皇后や牟漏女王、そして壇林皇后―嘉智子―といった橘一門を代表する女性陣は、彼女らが嫁いだ家によって自分自身の実家筋が失墜させられる皮肉な罪悪感にいたたまれなくなったが為、一門の氏神に、身近な場所にご遷座いただいた、というのが実情だったのではないでしょうか。
 さて、そのような思惑も含みおき、塩竈における梅宮神社の創祀はどう理解すべきでしょうか。
 ひとつ、どうにも気になることがあります。
 梅宮大社のご神紋は、いかにも橘一門の氏神らしく、「橘」であるのですが、先に触れたとおり、塩竈の梅宮神社に懸けられた幕の紋は、我が今野家と同じ「丸に梅鉢」でありました。
 単純に、社名に因んだ梅なのでしょうか・・・。

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