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少し整理します。 1、大カニ伝説があった魔の寺の名は「柳沢寺」であった 2、魔の寺柳沢寺の周辺には奥州藤原三代秀衡の名を冠した「秀衡の関」があったとされる 3、同名の「柳澤寺」がある旧「上谷刈(かみやがり)邑−仙台市泉区−」の一村鎮守は「八木沢神社」であった 4、八木沢神社の周辺には「秀衡の牧場」があったと伝えられている これによってこの両寺の周辺は、伝説上奥州藤原三代秀衡の直轄地という部分において共通しているといえます。 5、八木沢神社は「若有(わかあり)家」の屋敷神で、御神体は「兜(かぶと)」と伝わっている 6、若有家は奥州藤原氏の家臣であった 7、若有家の菩提寺は前述上谷刈の柳澤寺であった 8、同寺には、真田幸村伝説があった 9、真田幸村の本拠である信州上田周辺にも八木沢地名があり、瀧澤の苗字が多く、兜神社がある 10、中原姓瀧澤氏が発祥した「信濃國小縣郡瀧澤邑」とはその周辺一帯のことと思われる 若有氏は、「藤原利仁」三代の末流「隆磨」の裔とされ、その隆麿はなんらかの事情で康平三(1060)年に奥州に下ってきたとされておりますが、その実は中原姓の何某かであったのではないか、と私は想像しております。 その想像が妥当なものであれば、出羽の由利氏といい、中原姓の多くが奥州藤原氏の傘下に属していたことも考えられます。 平泉政権を「出羽清原氏の相続争いを勝ち抜いた一派が立ち上げた自治政権」、という視点でみるならば、案外自然な話なのかもしれません。 何故なら、仮に「瀧澤−龍澤・柳沢・八木沢−」の言霊をまとう一族の本質が「眞人姓」を賜った天武天皇の裔たる「中原眞人」に求められるならば、出羽清原氏の祖「清原眞人」とも同族系譜ということになるからです。 特に「木曽義仲」を後援していた「中原兼遠(かねとお)」などは、敗死した義仲の戦犯化に連動して著しく旗色を悪くした挙句、出羽清原氏の継承者でもある藤原秀衡の保護下に入った可能性もあるのではないでしょうか。 想像をたくましくするならば、それはひょっとすると「大河兼任」その人であったのではないでしょうか。 いずれ、瀧澤ブランドの一族が、なんらかの理由で「兜(かぶと)」を神格化していたことがわかります。 その兜が、「冠川(かむりがわ)伝説」の「冠」と何か関係があるのではないか、と私が勘繰ったのは、八木沢神社のある上谷刈邑こそが伝説の舞台となる「冠川―現:七北田(ななきた)川―」の流域であるからです。 冠川の名は、「志波彦(しわひこ)神」が神降った「神降(かみふり)川」に由来するとも、志波彦神が白馬に乗って川を渡る際に冠を落としたことに由来するともされておりますが、その落とした原因については「馬が川底の石につまずいた」、あるいは「風に吹かれた」、というものなどがあります。 特に「石につまずいた」という神話については、怒った志波彦神が周囲の神々に川底の石をすべて拾わせ、それを河岸に積ませたといい、その積まれた場所が「石留(いしどめ)神社−仙台市泉区市名坂字石止−」になった、と、石留神社の由緒にまでつながっていきます。 そしてこの石留神社には「御霊神社」という又の名があり、「武烈天皇の御陵なりし」という伝説もあります。 これらの神話なり伝説がため、私は早くから志波彦神と武烈天皇伝承の因果に着目していたわけですが、さしあたり、「大伴氏」がなんらかの鍵を握っているものと考えておりました。 それは、かつて「志波大明神」とも呼ばれていた「行(ゆき)神社−宮城県黒川郡富谷町志戸田字塩釜−」が「靫大伴連(ゆげいおおともむらじ)」の祖廟と伝わっていたこと――。 栗原の武烈天皇伝承において、「久我大連」が武烈天皇と伴に下ってきたとされておりますが、武烈天皇当時の大連は歴代大伴氏最高の大物「大伴金村」であったこと――、などが理由です。 そして、ここで関わる大伴氏については、厳密には平安時代に次々と大伴への改姓−本人たちは復姓という−を訴えて許された「丸子氏」とみるべき、と考えておきました。 ちなみに丸子氏とは、陸奥大国造「道嶋宿禰嶋足(みちしまのすくねのしまたり)」を筆頭に、道嶋宿禰や牡鹿連などを輩出した氏族です。 これらの試論は今も尚有効であると考えておりますが、「兜(かぶと)」を意識し始めてからは、冠川の「冠(かんむり・かむり)」はもしかしたら「蟹守(かんもり・かもり)」に由来するのではないか、という発想も並行して頭をもたげ始めております。 そう考え始めるに至った経緯は次のとおりです。 まず、「掃部―蟹守―長者」のことと思われる「九門長者」の屋敷が「伊豆佐賣神社」の鎮座地であったことなどから、「掃部」と「伊豆―伊治―」の言霊になんらかの因果関係があるのではないか、と着眼していたわけですが、仙臺藩士「上遠野“掃部”(かどのかもん)」と同族らしき人物に、栗原の「上遠野“伊豆”廣秀」がいたことが、この発想に拍車をかけました。 なにしろ、上遠野氏の発祥地である福島県いわき市の上遠野地区は、「石城国造」の裔ともいわれる「石城家」に嫁いだ奥州藤原氏の女「徳姫―徳尼―」が建立したという「白水阿弥陀堂」に近く、九門長者と関係があるだろう与兵衛沼窯跡周辺に白水阿弥陀堂がらみの伝説があることを鑑みるならば、上遠野掃部の「掃部」が偶然付された名でもなさそうだと思わせられるのです。 一方、上遠野伊豆廣秀が采配する「川口邑」があった「栗原郡姫松荘」には「武烈天皇伝承」が濃厚であるわけですが、武烈天皇に従って栗原に下ってきた人物として、実在する「狩野家―櫻田山神社宮司家―」の祖「狩野―鹿野―“掃部”之祐」の名が伝わっていたことが思い出されます。
なにやら、掃部と武烈天皇伝承の間にもなんらかのつながりを予感させられるわけですが、武烈天皇伝承は栗原のみならず、飛び地的に仙台市泉区の石留神社にもあります。 石留神社は先に触れたとおり志波彦神の冠川伝説と密接な神社でもありました。 その石留神社と同じ冠川―七北田川―流域のやや上流域に件の八木沢神社があるわけですが、この社の御神体は「兜(かぶと)」でありました。 そこで私は、志波彦神が落とした冠と八木沢神社の兜との間に「頭に被る物」としての類似性を見出していたわけですが、さらに、上遠野氏の発祥地、すなわち福島県いわき市にあって石城国造の祖神の墓と伝わる古墳の名が「甲(かぶと)塚」であることや、仙台にある同音異字の「兜(かぶと)塚」に大河兼任の首塚伝承があることなどを総合的に考察しているうちに、冠(かんむり・かむり)の韻が、蟹守(かんもり・かもり)の韻と似ていることにも気づいたのです。 いずれ、「冠」や「兜―甲―」が「蟹守」の韻に由来するか否かは別として、この一連のキーワードが各々なんらかの形で関わりあっているのではないか、という着眼自体は的を射ているものと考えております。 |
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