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明治のいつ頃か、「花淵家」は「福室―仙台市宮城野区―」から「東宮浜―宮城郡七ヶ浜町―」に遷りました。何故父祖伝来の「花淵浜―同七ヶ浜町―」ではなく、「東宮浜」に遷ったのかはわかりません。 当地には「鹽竈神社」の東方鎮護として、「鹽土老翁(しおつちのおじ)神」に従い功があったという「東塩根老翁」と「東塩根老女」の二柱が、「東宮明神―東宮神社―」という名で祀られております。 はじめは「猿田彦大神」を祀っていたと里人に伝わっていたそうですが―『七ヶ浜町誌』―、もしかしたら、東宮神社境内に祀られている「紫根明神」がそうなのでしょうか。 紫根明神は、東宮浜の旧家で最も古い「柴家」の氏神「志波彦神」であるわけですが、志波彦神も一説に猿田彦神と言われております。 しかし、志波彦神を猿田彦神とするのはあくまでひとつの学説であるので、勇み足は慎まなくてはなりません。公的には、志波彦神社の祭神はあくまで「志波彦神」としか掲げられておりません。 それであれば、むしろ花淵浜の「鼻節神社」こそが「猿田彦神」を祭神に掲げているわけですが、花淵家が東宮浜に遷ったことと何か関係があるのでしょうか。 いずれ、紫根明神を氏神とする「柴家」は、鹽竈神社の社家を勤めた家柄であったともいいます。先に触れたとおり、本来は「志波」姓を名乗るべきところ、神号と姓を同じくすることをはばかり、「柴」姓にしたと代々言い継がれてきたようです。 「紫根明神」の「紫(むらさき)」も、本来「柴(しば)」であったのでしょうか。 仮に「柴(しば)根明神」であったとしたならば、「根」は「ルーツ」、すなわち「祖先」の意でしょうから、“柴家の祖先の明神”となり、辻褄が合います。 紫根明神と関係があるのかどうかはわかりませんが、東宮神社の北側の海中に「紫石」があり、『七ヶ浜町観光ガイドブック(七ヶ浜町産業課水産商工係)』には、次のような言い伝えが紹介されております。 ―引用― 東宮明神の北側、切り立った崖の裾(すそ)が海に沈んだあたりに、紫石という石があります。東宮浜の人達は、「紫石には魂が宿ってで、生ぎでんだ、毎年少しずつおがってんだ」といって大事にしていました。あるとき、この話を聞いた若者達が、盗み出そうとひそかに舟を出し、やっと引き揚げ舟に積んで逃げ出そうとしたら、舟がにわかに動かなくなってしまいました。押しても突いてもまるで根が生えたようにびくともせず、手の施(ほどこ)しようがなく困ってしまいました。石が少しずつ大きくなって重くなり、そのうえ血がにじみ出そうに赤くなっていたのでびっくりして、「すぐ元さ戻すから堪忍してけさえん」と何べんもお詫びをして、ようやく元に戻して振り向きもせずに逃げ帰ったといいます。 おそらく同じ言い伝えでしょうが、『七ヶ浜町誌』には、「いつの頃か、誰かが船を雇い、この石を持ち去ろうとして船に積んだが、船は少しも進まなかった。それは、この石の精か或は明神の神力のためかと内心おそろしく思い、遂に海に捨ててしまった」とあります。
これからすると、紫石に宿る魂はなんらかの明神の可能性もあり、この場所で明神といえば、東宮明神か紫根明神、いえ、ここは紫根明神と捉えておくのが自然でしょう。 「海に捨ててしまった」とあることから、始めは東宮神社の境内にあった、あるいはそう考えられていたのではないでしょうか。 もしかしたら、地震などの自然災害によって境内から崩落したものかもしれませんし、東宮明神を勧請する際に他所に遷座させようとしたものの、心理的にも物理的にも動かせなかったことが、こういった言い伝えになっているのかもしれません。 何より、そもそも鹽竈神社からみた朝日の方向にこの紫石があったればこそ、この岬が神域になった可能性もあると思います。 よく猿田彦神に関連して、おそらくは興魂(おきたま)―≒日の出―に通じるのであろう「赤石(あかいし)―明石―」の伝説を見受けられますが、この紫石も「血がにじみ出そうに赤く」なったと言い伝えにありました。 さすれば、里人に「はじめ猿田彦大神を祀っていた」と伝わる東宮明神の本質は、紫根明神にこそあるのかもしれません。 |
花淵家のこと
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