はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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 名取郡―現在の宮城県名取市・岩沼市、仙台市南部―には、『延喜式神名帳』所載のいわゆる式内社が二座あり、そのうちの一座が「多加(たか)神社」となっております。
 この「多加神社」の論社は二つあります。
 一社は先に触れた「西多賀」の地名由来となった仙台市太白区富沢の「多賀神社」で、もう一社は名取市高柳町字下西の「多賀神社」です。
 両者ともヤマトタケルに関係する由緒が伝えられておりますが、『常陸國風土記』をみてもわかるとおり、ヤマトタケル伝説は常陸オホ氏の経歴にも少なからずシンクロします。
 タカあるいはタガと称される神社で『延喜式神名帳』に記載されている社は6社あり、そのうち半数の3社が陸奥國にあります。内訳は、今触れた名取郡の「多加神社」、その北隣り宮城郡の「多賀神社」、そして行方(なめかた)郡―現:福島県南相馬市および相馬郡飯舘村―の「多珂神社」です。
 特に行方郡のそれは、式内6社の中でも唯一の「名神大」であり、多賀神社の総本社とされる近江國の「多賀大社」が「小社」であったことを鑑みるならば多賀―多珂・多加―神の筆頭であったのかもしれません。少なくとも、延喜式制定時点での朝廷側の視点においては、多賀神奉斎氏族の中で最も奉っておきたい系統がこの地にいたのでしょう。
 多賀神系の神社については、以前、猛禽類の鷹と関連付けて稿を展開しておきましたが、行方郡の論社の、少なくとも南相馬市原町区のそれは「鷹の像」が御神体であるとも言われております。
 また、名取郡の論社においても、少なくとも仙台市太白区のそれには「大鷹宮」という別称が存在します。
 同じ「大鷹宮」と呼ばれる柴田郡の式内社「大高山神社」などは、多賀神とはやや毛色が異なるものの、最高格の「名神大」に位置づけられております。
 ただしこの社はいつの頃からか白鳥信仰の社に変質しており、名神大という格付けがはたして鷹神としての評価なのか白鳥神としての評価なのかはわかりません。
 記紀には、死後のヤマトタケルが白鳥と化す描写が記されており、それを受けて各地の伝説では白鳥にヤマトタケルの代名詞的な意味が付加されていることも多くなっております。
 『白鳥伝説(小学館)』の谷川健一さんの研究では、白鳥は「物部氏」の示唆であることが多いようですが、少なからず鹿島・香取の神を奉斎して北上したオホ氏・物部氏の姿が投影されているとみて良いのかもしれません
 このあたり、天岩戸神話に因んで猛禽類の神と密接な「忌部氏」や、場合によっては祟る鷹の伝説が付きまとう「秦氏―厳密には辛島氏―」を絡めながら精査していく必要もありそうですが、ともあれ、ここでは、行方郡の多珂神社にも名取郡の多加神社―多賀神社―にもヤマトタケル伝説が付きまとうということだけ注目しておきたいと思います。
 名取市内の多賀神社の鎮座地周辺は「皇壇原(こうだんはら)」と呼ばれておりますが、それはヤマトタケルが当地に祠を建てて病気平癒したという同社の起源譚に由来します。
 思うに、「皇壇原」の本来の訓は「おうだんはら」ではなかったのでしょうか。ふと先に触れた仙台市内の「王ノ壇―古墳―」を連想させられます。
 いみじくも―明治時代のこととは言え―仙台市内の「多賀神社」にはその「王ノ壇」の上に祀られていた「春日神社」が合祀されております。
 これらがオホ氏に関連するものかどうかはわかりませんが、「タカ(多加・多珂・多賀・高・鷹)」の地名や神社が、鹿島苗裔神とよく似たエリア、すなわち常陸國から陸奥國の沿岸部に分布していることもまた事実です。
 それらは常陸の多珂(たか)郡―多珂國―から移り住んだ開拓民の痕跡と考えられるわけですが、そもそも多珂國にはどのような人文が展開していたのでしょうか。
 『常陸國風土記』の「多珂(たか)の郡」の条には次のような記述があります。

―引用:秋本吉徳さん全訳注『常陸国風土記(講談社)』より―
 古老は伝えて言っている。―斯我(しが)の高穴穂の宮に天の下をお治めになられた天皇(成務天皇)の時代に、建御狭日(たけみさひ)命を多珂(たか)の国造(くにのみやっこ)に任命された。
〜中略〜
(建御狭日命という人は、これすなわち出雲臣と同族である。また、今現在多珂・石城といっている所がここにいう多珂の国である。土地の人々が語り伝えてきた言いならわしでは、「薦枕多珂(こもまくらたか)の国」という。)
〜中略〜
〜その後、難波(なにわ)の長柄(ながら)の豊前(とよさき)の大宮に天の下をお治めになられた天皇(孝徳天皇)の時代の癸丑(みずのとうし)の年になって、多珂(たか)の国造(くにのみやっこ)石城直美夜部(いわきのあたいみやべ)と石城の評(こおり)の造部(みやっこべ)の志許赤(しこあか)たちが、惣領であった高向(たかむこ)の大夫(まえつきみ)に懇請して、(彼らの)統治する地域が(広大で)遠く隔っており、往き来するのさえ不便であるという理由で、(その所管の地を)分けて、多珂と石城の二郡を設置したのである。(その石城の郡は、今は陸奥の国の域内にある。)

 「出雲臣と同族」という記述に惹かれますが、それはともかく、これを信ずるならば、石城エリアは初め多珂國の内に含まれていて、孝徳天皇の時代、すなわち七世紀に、往来の便の悪さから二国ないし二郡に分けられたということになるようです。
 なにより、この記述からすると「多珂國造」は「石城國造」と同族であったものと思われますが、「石城直美夜部」とその名に “石城”を冠していることからすると、多珂國造家の本拠は石城地区にあったものとみられます。
 もしかしたら「多珂」は石城國造一族の屋号のようなものであったのかもしれません。
 彼らは猛禽類の「鷹」をトーテムとする一族であったのかもしれませんし、あるいは、なんらかの他の意味を有する「タカ」に、「多珂」なり「多賀」と同様、同音の「鷹」も縁起物として崇敬されたのかもしれません。
 いずれにせよ、彼らにとって「タカ」は重要な言霊であったのだと思うのです。
 オホ氏と同祖系譜であろう石城國造家が、仮に想定どおり丈部氏と同族であったとするならば、もしかしたら、陸奥阿倍氏の家紋にみられる鷹の羽もこのあたりに由来するのでしょうか。
 いずれ、多珂國造に分かれた石城國造一族が、行方郡なり名取郡、そして宮城郡に進出したが故に、彼らのブランドでもある「タカ」の言霊が持ち込まれたのではなかろうか、と想像するのです。
 あるいは逆に、むしろ陸奥國側こそが「タカ」ブランドの起源の地であって、それが石城國造を通じて常陸側にもたらされたものなのかもしれません。

イメージ 1
     名取市高柳の多賀神社

 常陸から陸奥の「タカ」については、「多賀城」の「多賀」や「日高見(ひたかみ)國」の「高」は言うに及ばず、もしかしたら「尾張氏」の起源地とされる「葛城高尾張」の「高」や、ひょっとしたら伊勢神宮の「高宮」の「高」、「高皇産霊(たかみむすび)」の「高」にまで繋がるものなのかもしれませんが、話が広がりすぎるのでやめておきます。

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