はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

奥州藤原氏

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 久しぶりに高橋富雄さんの『奥州藤原氏四代(吉川弘文館)』を読んでおりましたら、以下のくだりが目に留まりました。

―引用―
 『中右記』の大治三年七月二十九日の記すところによって、藤原清衡は大治三年(一一二八)七月十三日に七十三歳を以て死去したことがわかる。もっとも高野山所蔵の『中尊寺経』の中『金字法華経』の奥書には、「大治三年戌申八月六日、平氏、藤原清衡尊霊当三七日一日之日書写了」とあるから、その死亡は大治三年七月十六日ということになる。その上七十三歳というのにも問題はないではない。というのは、その時には七十一歳でなければならぬ天治三=大治元年(一一二六)のその供養願文には、「己に杖郷(じょうきょう)の齢を過ぐ」とあって、杖国の齢を過ぐとはないし、それに近いともないので、天治三年にはまだ六十代であったのではないかとも思われるからである(『礼記』(らいき)によると五十を杖家、六十を杖郷、七十を杖国、八十を杖朝というのである)。しかしここではすべて『中右記』に従っておく。〜以下省略〜

 この書籍は10年位前に入手して読んでいたものですが、その時にはこの部分について特段気にも留めておりませんでした。尊敬する高橋富雄さんがそれ以上の深追いをしていないこともあり、私も余談の一つ程度に受け流していたのでしょう。
 しかし、数年前、藤原相之助の論に触れて衝撃を受けてしまったこともあり、今の私からすれば大変に重大な情報が含まれていたと言わざるを得ません。
 藤原相之助は次のように語っておりました。

 「平泉の初祖藤原清衡の母は、衣河の安倍頼時の女で、藤原秀郷の後裔亘理権太夫に嫁し、一子を擧げたが権太夫討死の後、連れ子をして出羽の清原武則に再嫁した。その連れ子が清衡であるとは従来の定説のやうですが、之は清衡が藤原氏と稱した理由の故事附けで、その實清衡は母の連れ子ではなくて武則の實子らしいのです。この事は清衡の死亡の年齢を逆算しても知れ、又金色堂の棟札によつても證せられます」

 武則は武貞の間違いと思われますが、ともあれ清衡が、実は藤原経清の子ではなく、清原武貞(武則?)の子であったというのです。それは年齢を逆算しても知れ、金色堂の棟札によっても証せられるとのことでありました。
 しかしこの件については、以前記事にしたとおり、結局は要領を得られないままに保留にしておりました。
※拙記事:『金色堂棟木墨書銘が語るもの』参照

 ここで、私自身の頭の整理のためにあらためて振り返っておきます。
 藤原相之助はさも当たり前のように清衡清原氏説を語っていたわけですが、それほど明らかなことなのであれば、何故定説になっていないのか、藤原相之助の論稿は昭和八年のものだというのに、何故これまで目に触れた研究諸氏の論稿にはなんら触れられていなかったのか、甚だ疑問でありました。
 もちろん、既に論破されているものを私が見落としていただけなのかもしれませんが、その論があまり問題にされていないのは、おそらく一つには、藤原清衡の生没年に関して大治三年に73歳で没したとする同時代の公卿「藤原宗忠」の日記『中右記』の記すところが定説となっているからでしょう。
 たしかに、清衡の年齢の根拠を『中右記』に求めている以上、没年から年齢を逆算してみたところで藤原相之助が指摘するようなことにはならないのです。
 つまり、没年の大治三(1128)年から73年遡ったところで、清衡の生年は天喜四(1056)年であり、それはまだ前九年の役の真っ最中でありますから、安倍頼時の娘であり藤原経清の妻である清衡の母は、まだ清原氏の戦利品として強奪される謂れはなく、敵将たる清原武貞の子を産むはずなどないのです。
 しかし、もしかしたら平泉中尊寺の金色堂の棟札ならば、すなわち都人の眼に触れることのない構造内部の棟札ならば、『中右記』のそれとは異なる真の情報があるのかもしれない、そう思った私は居ても立っても居られなくなりました。そのままじっとしていたら棟札を見たいあまりに幽体離脱でもしかねないので、私は急ぎ平泉に向かったのでありました。
 さすがに金色堂の構造内部にある棟札の実物こそは見れませんが、せめてものその写真の拝観は叶いました。
 以前触れたとおり、その際に筆写した内容がこれです。

天治元季(年?) 歳次 甲(申?)辰 八月廿日 甲 子 建立堂一宇 長一丈七尺 廣一丈七尺 ■(ホゾ穴?) 大工物部清國 小工十五人 大行事山口頼近 鍛冶二人 ■(ホゾ穴?) 大壇散位藤原清衡 女壇 清原氏 安部(倍?)氏 平氏
イメージ 1


 はて・・・、少なくともここに生没年に関わる情報はなさそうです。
 だとすれば、これを確認できたところで浅学な私にはそれのどこが「藤原清衡が藤原経清の子である」という定説を覆し得るものであるのかがわかりませんでした。
 しいて言うならば、おそらくは、「大壇散位藤原清衡」、すなわち大壇越(だんおつ)たる奥州王清衡の名の下に記された「女壇」なる三氏、すなわち向かって右から「安倍氏」「清原氏」「平氏」と記された部分になんらかの重大な解答があるのでしょうが、勘繰るだけにとどまらざるを得ませんでした。

 あれから二年以上の年月が過ぎました。
 ここにきて、たまたま読み返した前掲書のくだりに、実は看過しがたい情報があったことに気づいたわけです。
 それはこういうことです。
 大治三(1128)年に73歳で没したとする『中右記』を信ずれば、天治三(1126)年=大治元年(1126)年は71歳であるはずですが、高橋富雄さんによれば、その年の供養願文には「己に杖郷(じょうきょう=60歳)の齢を過ぐ」とだけあって、杖国(=70歳)の齢を過ぐとも、それに近いとも記されていないというのです。
 ということは、つまりその天治三(1126)年=大治元(1126)年にはまだ60代であったのではないかとも思われるわけです。
 しかも、「60歳を過ぐ」という言葉のニュアンスからすれば、その60代も後半ではなく、前半であったのではなかろうか、と勘繰れます。
 仮にその供養願文の天治三(1126)年=大治元(1126)年時点に60代前半、すなわち64歳以下であったとすれば、清衡の生年は康平六(1063)年以降に下るということになります。
 さて、何を隠そう、前九年の役が終わったのは康平五(1062)年であり、清衡の父とされる藤原経清が処刑されたのもその年です。

 なるほど・・・、たしかに藤原相之助が言うように、清衡の父は藤原経清ではなく、清原武貞(武則?)であったのかもしれません・・・。

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