はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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 「遠の朝廷(みかど)」たる「多賀城」や『延喜式神名帳』所載の宮城郡の式内社「多賀神社」の「多賀」は、おそらく名取郡―宮城県―の同「多加神社―現:多賀神社―」の「多加」や、行方(なめかた)郡―福島県浜通り―の同名神大「多珂神社」の「多珂」、さらにもしかしたら柴田郡―宮城県―の同名神大「大高山神社―大鷹宮―」の「高」なり「鷹」などの韻に好字の「多賀」をあてはめたものと思われるわけですが、大高山神社は置くにして、行方郡のそれは『延喜式神名帳』所載の全国の「タカ神」6社を見渡しても、唯一の“名神大”になっております。
 このことから、それがタカ神の筆頭格であった可能性も考えられるわけですが、少なくとも陸奥國の事情としては、行方郡における多珂神祭祀氏族が名取郡や宮城郡といった仙台平野にも土着していたことが窺われます。

 また、『奥羽観迹聞老志』や『封内風土記』、『封内名蹟志』などの江戸期の地誌は、仙臺藩祖「伊達政宗」以前に仙臺府城域―陸奥國分荘―を領した人物として、「島津陸奥守」、「結城七郎朝光」、「國分能登守」の名を挙げているわけですが、各地誌の表現からみて最も古いと思われる島津陸奥守は、天神社の由緒に関連する別伝において、天延年間(975年頃)に「平持村―あるいは平将春―」によって「宇田郡―現:福島県相馬市―」に勧請された同社を、文永元(1264)年(※)に宮城郡の國分荘に勧請した人物としても伝わっております。

 タカ神祭祀と天神信仰、この二つの事例が示唆するように、中世以前の仙台平野には、行方郡や宇田郡といった福島県浜通りとも小さからぬ民俗的交流が窺われるということです。
 この行方郡・宇田―宇多―郡の両エリアは、陸奥國に併合されて以降、新田川流域が行方郡―現:福島県南相馬市―、宇多川流域が宇多(宇田)郡―現:福島県相馬市―の二郡に分けられたものの、古くは『先代旧事本紀』の『国造本紀』に記録されたところの「浮田國造」に含まれていたと考えられており、ほぼ同一の文化圏であったと言って良いでしょう。
 このエリアで私が最も注目しているのは、「桜井古墳群」です。

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 この古墳群の一号墳は、東北地方には珍しい前方後方墳でありますが、築造時期は四世紀後半―古墳時代前期―と推定され、福島県浜通り地方における最大の古墳でもあることから、浜通り最大の勢力がこの地区を本拠にしていたと考えられます。

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 七号墳の棺の中からは、珠文鏡(しゅもんきょう)が出土しておりますが、東北地方の古墳から銅鏡が出土することも珍しいことです。

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 前方後円墳ではなく前方後方墳として築造されたことにどういった意味があったのかはわかりませんが、時期的には私が推定する五世紀以降のオホ氏の北上に先行するものであり、むしろ仙台平野の遠見塚古墳や雷神山古墳の被葬者たる首長層との関わりが気になるところです。
 現地の説明板には「北関東地方や東海・北陸地方と交流を行いながら、この地域を支配した首長と考えられます」とありますが、東海・北陸といえば、四道将軍の武淳川別命とその父大彦命のルートでもあります。言うまでもなく、武淳川別命や大彦命は、古代氏族阿倍氏の祖とされており、さしあたり長髄彦の兄安日彦の裔を自称する陸奥安倍氏もその系譜を併記しております。
 そもそも、福島県南相馬市原町区上渋佐地内に点在するこの古墳群が、何故「桜井古墳」と称されているのでしょう。往昔の地名が「桜井」であったのでしょうか。真相は未確認ですが、興味深いものがあります。
 何故なら、大和盆地の阿倍氏の本拠の地名がいみじくも「桜井」であるからです。

※ 上記「文永元(1264)年」について補足
 島津陸奥守の後であるはずの結城七郎朝光の入府時期が奥州藤原氏滅亡前後の文治年間(1185〜1190)であった所伝からすれば、信じ難いものがあります。したがって私はこれを額面通りに受け止めず、「文永元(1264)年」が陰陽道上で変乱が多いとされる「甲子革令(かっしかくれい)」にあたっていたこと、加えて、特に「文永」の年号自体に土民の憚られる感情が込められて後付されたものとみております。
 文永年間、わが国はいみじくも甲子革令が現実化してしまったかのような史上未曾有の侵略に見舞われております。
 「元寇(げんこう)―文永・弘安の役―」です。
 元寇は、直接蹂躙された対馬・壱岐はもちろんですが、先に降伏して尖兵として利用された高麗にとっても悲劇でありました。
 その悲劇に、特に当地―陸奥國分荘―の土民が憚られる感情をもって共鳴し、それ故に「文永」の言霊が差し挟まれたのではなかろうかと私は考えているのです。
 何故なら、当地の土民は馬を通じて高麗文化と密接であったと思われるからです。
「陸奥國分寺」頒布の「木ノ下駒」添付の由来によれば、古来、陸奥國分寺の境内においては恒例の馬のせり市が立てられ、その市で多賀の国府は駿馬を選び買い上げ、時の帝へ献納する慣習があったといいます。
 國分寺を取り巻く周辺の宮城野の荒野には良質な駿馬が放牧されていて、『馬櫪神御由来記』には「陸奥は日本六十餘州の内馬生産第一にして、中にも宮城郡荒野の牧に出生の駒は其性第一」云々とあります。
 また、『封内風土記』の「土産」の項には栗原―現:宮城県栗原市―産の駿馬が極めて良質であることが特記されております。
 思うに、栗原で選び抜かれた駿馬が、國分寺周辺に放牧されて、そこで朝廷献上用に交配生産されていたのではないでしょうか。
 そのシステムには当然馬ばかりではなく、馬に精通した優秀な博労(ばくろう)―伯楽・馬喰―の存在も不可欠で、菊地勝之助さんの『仙臺事物起源考』には「国分寺附近には多数の馬喰も住居していたことは、口碑に伝わる「木の下馬喰」の称によっても知ることが出来る」とあります。おそらくは早くに信濃から移住していた高麗系の博労(ばくろう)が多数住居していたことでしょう。
 すなわち、当地の土民は高麗文化と密接であったはずで、元による日本侵略の尖兵とされて戦死した高麗人の痛みを他人事には思えない地域性があったものと想像します。このあたり、私論上における「モクリコクリの碑―伝:蒙古高句麗の碑―」の建立に関する事情にも通じます。

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