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撞賢木厳之御魂天疎向津媛(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)を天照大神の荒魂とみる通説が、幕末の国学士鈴木重胤の『日本書紀伝』に因むものとするのが大和岩雄さんの論でありました。 『日本書紀伝』に目を通していないのでそれに因むのかどうかはわかりませんが、岩波書店版『日本書紀』の校注陣―坂本太郎さん・家永三郎さん、井上光貞さん・大野晋さん―には次のような言い分もあるようです。 ―引用:『日本書紀(岩波書店)』― 〜皇后が務古水門で祀った神神は、㈠天照大神、㈡稚日女尊、㈢事代主神、㈣住吉三神であるが、これは、皇后の新羅征討に先立ち橿日宮で名をあらわした、㈠五十鈴宮にまします神、㈡淡郡にまします神、㈢厳之事代主神、㈣住吉三神に対応する。〜以下省略〜 「務古の水門(むこのみなと―摂津国武庫郡:兵庫県尼崎市―)」で祀られた神々は、「天照大神」、「稚日女尊」、「事代主尊」、「表筒男・中筒男・底筒男の三神―住吉三神―」、でありました。その際、天照大神は「我が荒魂をば〜」と語り、反対に住吉三神は「吾が和魂をば〜」と語っております。 一方、仲哀天皇紀において、「群臣に詔して、熊襲を討つことを議らしめたまふ」ときに、橿日宮にて神功皇后に神託した神々は、その時点ではなんという神であるかを名乗っておりません。 それが、のちの神功皇后摂政前紀において問われて初めて、「神風の伊勢国の百伝ふ渡逢県の拆鈴五十鈴宮に所居す神、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命―以下:天疎向津媛―」、「尾田の吾田節の淡郡に所居る神―以下:淡郡の神―」、「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代主神―以下:厳之事代主神―」、「日向国の橘小門の水底に所居て、水葉も稚に出で居る神、表筒男・中筒男・底筒男の神―以下:住吉三神―」の六柱(?)の神名が明かされました。それで全てなのか、その他に神がいるのかどうかについては明かされておりません。もちろん、務古の水門で祀られた神々がそれらと同じ神々とも語られておりません。 しかし岩波版の校注陣は、橿日宮で名をあらわした神々を務古の水門で祀られた神々にそのまま対応させました。 ㈠ 天疎向津媛 → 天照大神―御心を広田国に居らしむべし ㈡ 淡郡の神 → 稚日女尊―活田(いくた)長峡(ながさ)国に居らむとす ㈢ 厳之事代主神 → 事代主尊―御心の長田国に祠れ ㈣ 住吉三神 → 住吉三神―大津の淳名倉(ぬなくら)の長峡(ながさ)に居さしむべし なるほどそのまま素直に受けとめておいてもよさそうではあるのですが、はたしてどうなのでしょう。㈢と㈣の神名はほぼそのままなので、さしあたり問題ないものの、なにしろ㈠と㈡を対応させるにはそれなりの理由を必要とします。仮に㈠は鈴木重胤の荒魂説を用いたとしても、㈡の「淡郡の神」は何故「稚日女尊」になるのでしょう。
「淡郡の神」について、私などは「淡(粟)島神」などとも呼ばれる「少彦名命」あたりを頭に浮かべておりましたが、岩波版の校注陣は「粟島坐伊射波神社―伊雑宮か―」のことと捉えているようです。なるほど、妥当かもしれません。 この淡郡の神について、卜部兼方の『釈日本紀』は、尾田吾田を地名として、延喜式神名帳の阿波国阿波郡の「建布都(たけふつ)神社」をあげているのですが、吉田東吾の『大日本地名辞書』は、志摩国答志(たふし)郡、「伊雑(いざは)宮」の項にこの箇所を引きます。 さしあたり岩波版の校注陣は、鎌倉時代の『釈日本紀』の説を捨て明治期の『大日本地名辞書』の説を採っておりました。校注陣は、『皇大神宮儀式帳』や『延喜式大神宮式』などに同国同郡、粟島坐伊射波神社とあり、大神宮の遥宮とみえ、『倭姫命世紀』において倭姫命が伊雑の乎田にこの宮をはじめて造った、とあることを補強として、淡郡の神は「おそらくこれをさす」としているのです。 とすれば、この校注陣は伊雑宮の祭神を生田神社と同じ稚日女尊とみなしていることにもなるわけですが、はたしてそうなのでしょうか。「橿日宮」で名をあらわした神々と「務古の水門」で祀られた神々とを同じ神々とみなせばそういうことになります。 いずれ、それらの神々が同じ顔触れである旨は記紀のどこにも書かれていないこと、又、ここで出てくる淡郡の神が鎌倉時代の卜部氏に「建布都神」とされていたことは軽んじるわけにいかないように思えております。 |
亀の備忘録
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