|
ある晴れた昼下がり、田子(たご)地区−仙台市宮城野区―の七北田川(ななきたがわ)の河川敷でカメさんよろしく甲羅干しをしました。 思えばこのあたりは、鹽竈神社の不思議を探らんとする私が、それまでの妄想や図書館での調査からついに外へと踏み出した最初期のフィールドワーク現場でもありました。まだデジカメなど持っておらず、ブログという言葉すら知らず、全くもって純粋な知的好奇心のみでの行動でありました。 当時の私は、冠川(かむりがわ)神話にたいそう惹かれておりました。 「七北田川(ななきたがわ)」は旧(ふる)く「冠川(かむりがわ)」と呼ばれていたわけですが、それは、現在鹽竈神社の隣に鎮座している志波彦神社の神が、この川に冠を落としたことに因むと伝わっております。とるにならない素朴な神話のようですが、これが思いのほか不吉な話である可能性に私は気づきました。冠はそれを被る人物の地位を象徴するもののはずですが、それを川に落としてしまったという情報は、信心深い古代人の心象にどのように映っていたものか・・・少なくとも、現代まで語り継がれている事実を鑑みるならば、それは相当ショッキングな“事件”であったに違いない、と私は考えたのです。 今、記事を書いている時点での私は、信濃系の馬産文化との濃厚な関係が推察される「瀧澤(たきざわ・りゅうたく)」の言霊と、そこから派生したと思しき「柳沢(りゅうたく・やぎさわ)」や「八木沢(やぎさわ)」などの言霊への検討の過程で、もしかしたら「蟹守=掃守(かもり・かんもり・かもん)」なり「神降(かみふり)」の韻が、「冠(かんむり・かむり)」に変化して、後世に冠にこじつけた神話が後付けられた可能性もあるかもしれない―拙記事「兜と冠と蟹守」参照―とも思い始めているのですが、当時は、蝦夷の王家と思しき志波彦の失脚神話という方向でのみ発想を突き進めておりました。もしかしたら冠は斬り捨てられた生首への間接的な表現ではなかったか、すなわち、神と崇め奉られる以前の敗者の酋長としての志波彦の斬首現場が、この川のどこかであったのではないか、と考えていたのです。 ひとまず私は、乗っていた馬が川底の石につまずいて冠を落とした志波彦神が、怒って川底の石を全て拾わせ積ませた場所と伝えられている石留神社―仙台市泉区石止−、あるいは、渡ろうとしたときに風で冠が飛ばされた、と伝えられている今市橋(いまいちばし)付近−仙台市宮城野区岩切―のいずれかがその現場と疑いました。 なにしろ今市橋付近の八坂神社は、明治七(1874)年以前の志波彦神社の旧鎮座地でもあり、現在も境内には冠川神社という名で志波彦神が祀られており、私は石留神社が死の現場で八坂神社が墓ではなかったか、と一応の仮説を立てました。 甲羅干し現場の田子地区はそれらの下流にあたるわけですが、その対岸の多賀城市新田地区には流れてきた冠を狐がくわえて上ってきたという伝説もあります。 伝説地には祠が建てられており、冠川稲荷社と名付けられております。 江戸時代に流路が変えられる前の冠川は、その周辺の南安楽寺あたりから左折し、東流していたとされております。そしてそれは多賀城市八幡あたりからはおおよそ現在の砂押川の流路となって、最終的には湊浜(みなとはま)―宮城郡七ヶ浜町:仙台港付近―から仙台湾に注いでおりました。 南安楽寺周辺より上流へは川舟が遡ることが出来ず、そのあたりで湊浜からの商人船なども荷揚げせざるを得なかったものと考えられております。したがって、このあたりに陸揚げ港と市場―冠屋(かぶりや)市場―が開かれていたものと考えられます―参考:『仙台市史』―。 それらを鑑みるならば、おそらくは中世の多賀國府もこのあたりにあったのでしょう。 したがって当地の冠川稲荷社は、産土神たる志波彦神が國府や市場の鎮護として祀られた名残なのであろう、と私は考えております。 ※両方とも仙台市史所載の図ですが、流路の推定にはやや齟齬があるようです。 久しぶりに冠川稲荷社を訪れてみたくなった私は、対岸への橋を渡らんと堤防の遊歩道、すなわち〽ある晴れた昼下がり市場へ続く道〜を歩き始めました。 「田子大橋」とは名ばかりの“狭い橋”を渡っていると、橋の下には数匹の鮭が身をよじるように泳いでいるのが見えました。産卵していたのでしょうか。 おだやかな風景に見惚れてしまい、立ち止まって欄干にもたれて川にそよぐ秋風の揺らぎに身を任せました。やおらスマホのカメラ機能にて風景を撮影していると、ウォーキング中のややお歳を召した男性に声をかけられました。 「いい景色ですよねぇ〜。この橋に来るといつもカメラを持ってくればよかったって思うんですよ・・・。でもいつも忘れてきてしまうんですよねぇ・・・。そこに鮭がいるんですが、見えますか?ここで産卵して、あと死んでしまうんですよねぇ・・・」 ありがとうございます。何か優しい気持ちになれました。つい、映画『おくりびと』のワンシーンを思い出しましたが、私が本木雅弘さんにでも見えたのでしょうか・・・いえ、言葉が過ぎました・・・すみません・・・。 さて、橋を渡り切ると、すぐに冠川稲荷社が見えます。 はて? なにか、だいぶ雰囲気が変わっておりました。 以前訪れたときには、住宅街の真ん中にあってちょっとした林に囲まれていて、いかにもそこに神社がありますよ、という雰囲気を醸し出していたはずですが、なにやら妙にさっぱりしておりました。 樹木が全て伐採されて、祠が四方から丸見えの状態になっていたのです。 さきほど視聴したNHK大河ドラマ『真田丸』で、外堀のほとんどを埋められた大坂城が丸裸にされておりましたが、まさにそのような印象を受けました。 たしか以前に画像を撮っていたはず、と思い、帰宅後探してみたところ、結局は使っていなかったものの、2008年12月の拙ブログ開設時、当座の記事に必要と考えていた画像を一気に撮影しまくった際の画像フォルダに保存されておりました。 そして、やはり私の記憶に間違いはなく、この祠は樹木に囲まれておりました。 明治期、神社合祀に強く反対をしていた南方熊楠(みなかたくまぐす)の真意は、むしろ森林伐採への反対にこそあったようでもありました。熊楠の理念からすると、社殿が残っていても周囲の森が失われたら意味がない、ということになるかもしれません。中沢新一さんの『熊楠の星の時間(講談社)』には、芳賀直哉さんの『南方熊楠と神社合祀―いのちの森を守る闘い(静岡学術出版)』を参照しながら、こんなことが書かれてありました。 ―引用― 〈第八点〉合祀は、天然風景や天然記念物を滅亡させてしまう。 熊楠がいちばん言いたかったのはこれでしょう。熊楠はこう書いています。「天然風景は、曼荼羅である。天然自然のうちに抱かれ、真理を感得することもまたできよう」。「天然記念物を手厚く保護する外国と、我が国の合祀の蛮行には驚き呆れる以外にない」。 日本の古くからの森林は、神社に残されてきました。それを伐採消滅させてしまうことによって、何が奪われるのでしょうか。曼荼羅にも喩えられる植物相を中心にして形成されてきた、世界の全体性が破壊されてしまうのです。 冠川稲荷社のあたりは、特に東日本大震災の大津波に呑まれたわけでもないはずなので、おそらく他になにかよんどころのない事情があってこのような状態になってしまったのでしょう。残念ではありますが・・・。
|
冠川紀行
[ リスト ]


