はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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冬の鹽竈櫻の御前にて

 鹽竈様へ年末の御挨拶に行ってまいりました。
 ほんのり前夜の雪の残る早朝の境内は、氷点にも満たない厳しい寒さではありましたが、その凛とした冷気がむしろ心地よく、重苦しい曇天が徐々に晴れゆく東の空からは、いよいよ朝日が差し込んできました。

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 ふと、私は鹽竈櫻の前で立ち止まっておりました。
 花はもちろん葉すら着飾ることもない殺風景な冬の鹽竈櫻ではありますが、その容姿の是非にかかわらず、得難い気づきと絆を与えてくださった偉大な御神木に、私はただただ手を合わせたいのです。

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 あけくれにさぞな愛て見む鹽竈の桜の本に海人のかくれや

 これは平安時代に堀河天皇が詠まれた歌です。
 天皇があたかも日課のように鹽竈なり鹽竈櫻のことを想い愛でておられたことがよくわかる歌ではありますが、「海人のかくれや」とはなんぞや・・・。
 かつて鹽竈神社の不思議に着目するも、特段意識することもなく通り過ぎていた歌でありましたが、約七年前に「海人のかくれや」を意識したその刹那より、私はこの鹽竈の地に海人の属性を窺える陸奥安倍家の祖先が眠っておられると確信するようになりました。
 そして何やらそのことを、堀河天皇はごくあたりまえに認識されていたようでもあります。
 堀河天皇の即位は応徳三(1086)年、すなわち、後三年の役が終わる前の年です。
 堀河天皇の在位はその年から嘉祥二(1107)年の崩御までの間ということになりますが、崩御の翌年となる天仁元(1108)年から、後三年の役の最終勝者となった奥州藤原初代清衡は平泉中尊寺の造営に着手しております。あたかも戦乱に翻弄された半生を嘆くかのように浄土のかたちを自らの京(みやこ)平泉に持ち込んだ清衡ではありますが、堀河天皇もまた、長きにわたって奥羽に繰り広げられた戦乱を嘆かれていたのでしょう。そして、滅ぼされた奥州の王家への鎮魂の想いをこの歌に込められたのでしょう。
 なにしろ鹽竈神社右宮一禰宜新太夫家小野氏が鹽竈神社に関わったのも、おそらくその頃からでありました。
 あくまで私の仮説ですが、それ以前の鹽竈神社は、江戸期に設けられた別宮は言うに及ばず、左宮・右宮にすら分かれておらず、のちの左宮一禰宜安太夫家阿倍氏こそが主たる社家であり、禰宜であったのだと思います。
 しかし思うに安太夫家は賊として滅ぼされた安倍家の同族であり、前九年の役以降の鹽竈祭祀が風前の灯火(ともしび)であったのだろうことは想像に難くありません。
 おそらくは、朝廷から異例の待遇を受けてきた鹽竈祭祀の停滞を憂いたであろう多賀國府によって小野氏は招かれ、新太夫家として鹽竈祭祀の実質を継承させられたのではないでしょうか。
 なにしろ小野氏は、阿倍氏ともなんらかの関係があるのであろう中ツ臣氏族―神と天皇の間を取り持つ氏族―和珥(わに)氏の裔でもあります。
 ただ、伝統的な神事の本質上安太夫家を鹽竈から外すわけにいかないため、左宮・右宮の両宮に分けて安太夫家・新太夫家を各々の一禰宜にしたのではなかろうか、というのが現時点での私の考えです。※拙記事「鹽竈神社と鼻節(はなぶし)神社:後編」参照
 これらのことは、すべて鹽竈櫻をきっかけに発想したことでありました。
 もちろん、全く見当違いな論かもしれませんが、もしこれらが真実であったならば、鹽竈櫻はなにゆえ何の霊力もない昭和枯れすすきのような私にこのような気づきを与えてくれたのか・・・、もし私に何か為すべき役割というものがあるとするならばわかりやすく導いて欲しい・・・などと、唯物思考から今一つ抜けきれていないはずの私が柄にもなく思った此度の参拝でありました。

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