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宮城県大崎市に、「青塚古墳(あおつかこふん)」という古墳があります。 直系60メートルほどの円墳にみえるのですが、昭和五十五(1980)年の調査によって、周壕の形から前方後円墳であった可能性の高いことがわかっております。前方部らしき部分は人為的な削平を受けてその痕跡が確認できないようですが、おそらくは主軸の全長が約90メートルの東北屈指の前方後円墳であったものと考えられます。出土品から、築造時期は東北最大の雷神山古墳―宮城県名取市―とほぼ同じとみられ、四世紀代に遡り得るものとも考えられております。 いみじくも本日付けの河北新報朝刊の一面に「大崎耕土」の「世界農業遺産申請」の記事があり、ぜひ認定されて欲しいものですが、この青塚古墳を抱える大崎平野は、「荒雄川(あらおがわ)―江合川(えあいがわ)―」と鳴瀬川の流域に広がる沖積平野で、宮城県内としては仙台平野と並ぶ古墳地帯であります。このエリアは日本最北の古墳地帯とも言われておりますが、昭和二十四(1949)年に岩手県奥州市胆沢区の「蝮蛇塚(へびづか)」が前方後円墳であると確認されているので、古墳単体としての最北はそちらになります。「角塚古墳(つのづかこふん)」と呼ばれているものがそれです。 しかし、如何せん岩手県内ではそれ以外の前方後円墳が確認されておらず、角塚古墳については特殊な個体と捉えておく方が妥当なようで、やはり古墳“文化”ないし古墳“地帯”の北限としては、依然として青塚古墳のある宮城県北部の大崎平野と考えておくのが妥当なようです。 さて、青塚古墳は、江戸時代には既に「青塚」と呼ばれ何某かの墓と認識されていたことが、『奥羽観迹聞老志』や『封内風土記』などの記述によってわかります。 『封内風土記』には「上代葬王昭君地也。昭君死于胡地。憐之遂葬諸漢界。號青塚。」とあり、なにやら「王昭君」の墓という伝説であったようです。 王昭君は中国四大美人として「楊貴妃」らと並び称されてきた人物ですが、『広辞苑』の記述はこうです。 ―引用― 【王昭君(おうしょうくん)】 前漢の元帝の宮女。名をしょう、字を昭君という(一説に名を昭君、字をしょうとも)。元帝の命で前33年に匈奴(きょうど)の呼韓邪単于(こかんやぜんう)に嫁し、夫の死後その子の妻となったという。中国王朝の政策の犠牲となった女性の代表として文学・絵画の題材となった。元曲「漢宮秋」はその代表。 もちろん、青塚古墳がそのような前漢時代の悲劇のヒロインの墓であるなどとは信じがたいわけですが、何故そのように伝えられてきたのかを考えておく必要はあるでしょう。 とはいえ、その原因は『封内名跡志』なり『封内風土記』によって既に解決されているようにも思えます。『封内風土記』は当該項で次のように記します。 ―引用― 熊野神社。在古塚上。同上。寺一。青塚山養生寺。〜中略〜 塚一。名跡志曰。邑中有古塚。東西三十間。南北五十間。相傳。上代葬王昭君地也。昭君死于胡地。憐之遂葬諸漢界。號青塚。杜少陵詠懐古跡。第三首曰。一去紫臺連遡漠。獨留青冢向黄昏。青冢王昭君墓也。此地亦附會其義。而強稱其名乎。其邑落有青塚城址。且今塚上立熊野権現社。 要点を拙くも意訳しておきます。なにしろ浅学で漢文を解読する学習など何十年も前の高校時代の授業以外では経験しておりませんので、細部において解釈が誤っている可能性もありましょうが、ご容赦ください。 ―意訳― 〜前略〜 塚が一つあるが、それについて名蹟志は次のようにいう。 邑には東西55メートル、南北91メートルの古塚がある。上代に王昭君を葬った地と相伝られている。昭君は胡地―匈奴(きょうど)?―で没しており、これを憐み漢の境界に葬ったわけだが、それを青塚という。例えば杜少陵―杜甫―が詠んだ「懐古跡」の第三首にこんな詩がある。 「ひとたび紫台を去りて朔漠連なり(漢の宮殿を去って匈奴に嫁いで以来、果てしなく広がる北の砂漠に暮らした)、独(ひと)り青塚を留めて黄昏に向(あ)り(今はたそがれの弱々しい光の中にわずかに青塚を留めるばかり)―詩訳はウィキペディアから拝借―」 すなわち、当地の青塚が王昭君の墓というのは、王昭君の墓が青冢(せいちょう)という名であるが故の牽強付会であろう。 〜以下省略〜 そもそも何故この塚は「青塚」などと呼ばれるようになったのでしょうか。 理由を考えてみました。 1、本来は「王塚」あるいは「大塚」であったものが訛って「あおつか」となったのではないか 2、付近に小野小町の墓と伝わる場所もあり、なんらかの悲劇の美女伝説の下地があったのではないか 小町伝説については、このあたりに小野一族がいたとみるのが穏当でしょうが、ひとつ注目しているのは、当地の式内社「新田郡子松神社」です。 この「子松」を、小町から訛ったものとみるべきか、逆に子松の韻から小町伝説が生まれたとみるべきか、仮に後者だとしたら、子松とはどういう意味なのか・・・。 実は、私は後者をとり、子松神社は本来「高麗神社(こまつじんじゃ)」であったのではないかとみているのです。 現在新田字鹿島に鎮座している延喜式式内社「新田郡子松神社」の論社の「子松神社」の祭神は「武甕槌(たけみかづち)大神」でありますが、これは康永二(1343)年に大崎氏の家臣新井田氏が夜烏邑(よがらすむら)―当地の旧地名―に居城を構えて狐松神霊を邑上に遷座して「鹿島大明神」と称したことに由来しているものと思われ、必ずしも本来的なものが継承されているものかどうかは定かでありません。 なにしろこのあたりは栗原エリアに隣接しており、古くから高句麗人も多かったのではないかと思うのです。 |
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