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少しおさらいをしておきます。 同じ東鹽氏の傳を引用しているはずの舟山萬年の『鹽松勝譜』と遠藤信道の『鹽竈神社考』でありましたが、共通の時事に触れた唯一のくだり、すなわち明応年間(1492〜1500)の留守氏による鹽竈神社の社殿造営の顛末に関して、両者はまるで正反対の結末を記しておりました。 舟山は鹽竈社のみが造営されたとし、その傍らには他へ遷された貴船・只洲の小祠が配祀され、多賀社は鹽竈社に合祀されて廃滅した旨を記しておりました。 つまり、目に見える構成としては、新しい一拝殿一本殿の鹽竈大神の社殿の脇に、貴船と只洲の祠が並ぶかたち、すなわち、貞享三(1686)年頃に描かれた「塩竈大明神絵図」のかたちに近いものであったということになるのでしょうか。 それに対して遠藤は、先に多賀社の仮宮が造営された後、牡鹿島の地に祀られていた留守家の守護神たる木舟・只洲の新宮を一森山に造営し、木舟宮―貴船宮―に鹽竈神も合祀された旨を記しておりました。 したがって目に見える構成としては、鹽竈神を合祀した新しい木舟と只洲、そして多賀の仮宮が境内に並んでいたということになるのでしょうか。 仮に木舟宮の規模が只洲の宮や多賀の仮宮よりも一回り大きく、多賀二宮が一棟であったのならば、もしかしたら、見た目だけは舟山の説くところと同じなのかもしれません。 しかし、舟山の説くところと遠藤の説くところとでは、特に鹽竈神と貴船の主客が逆転しているわけで、祭祀のかたちとしてははっきり異なります。 何故こうも異なる話になってしまうのでしょうか。 思うに、おそらくは鹽竈神に対する考え方の違いがそのまま東鹽氏の傳への解釈の齟齬につながっているのでしょう。 東鹽氏の傳は、遠藤にとっては絶対的な経典の如きですが、舟山にとっては『封内風土記』などと同列に参考資料のひとつにすぎない印象があります。 なにしろ舟山は、東鹽氏の傳なり『封内風土記』の記述をひきながらも、基本的には佐久間洞巌の説をとっているものと思われます。 具体的には、「鹽竈神廟」の項に「而ルニ世遠ク時邈トシテ傳フル所ノ神號。其説紛々一定シ難シ。且神祠ハ本山下神釜ノ處ニアリシカ」と、「神竈祠」の項にも「蓋シ古昔ハ神廟此地ニアリ神釜ヲ以テ神ノ體トナスト」と所見めいたことを記しており、鹽竈神を御釜神のこととみていたフシがあるのです。 そして、もしかしたら舟山は貴船社を鹽竈神の同体異称とみていたのかもしれません。 何故なら、江戸時代には貴船=別宮=御釜神という概念が比較的根強く浸透していたフシがあるからです。 御釜神は、竈守の家である鈴木氏の奉祀するものでありますが、後の別宮一禰宜男鹿島太夫はその同族とみられます。 『鹽竈神社史』所収の「貞享四年御宮會所席:志賀家社列書上並留書」には、その男鹿島氏が「貴船一禰宜」に位置づけられており、別宮の創設にともない消滅した貴船宮と混同され得る要素を十分に孕んでおります。 それはすなわち一森山に只洲宮を持ち込んだとされる鎌田氏の家伝とも共通します。鎌田氏は、貴船を塩竈浦に降りた龍神で塩竈の地主神としておりました―拙記事:「鎌田氏の衝撃的な秘伝」参照―。 であれば、遠藤がそれを踏襲し得るわけがないのです。 何故なら遠藤は、鎌田氏の妬みによって國別鹽竈大神の神裔たる東鹽家が貶められたと嘆いているからです。 遠藤は、別宮が建立されることとなった四代藩主伊達綱村プロデュースの元禄の造営―完成は五代吉村襲封後の宝永元(1704)年―のくだりで次のように語っております。 ―引用:『鹽竈神社考』― 〜木舟只洲の兩宮をば外へ遷し奉り。別宮には國別鹽土大神を鎮め奉り。左右兩宮には。建甕槌・経津主二大神を鎮奉りしとぞ。【此時別宮に鎮め奉りし。大神は必國別鹽土翁神・妹國別日東吾妻神を合わせて。二柱の大神にますへきを。其傳詳ならぬはいと朽惜しきことにそありける。もし妹神を合わせて二柱にませしを。たゝ鹽土大神一柱をのみ。祭りし來し事になりたらんものならましかは。云巻も齋々しく。最も畏き事にこそ。只洲宮は今當郡國分古内村にありて。社傳には元禄九年迂坐とあり。此は此年當社より遷し奉りしものにや。或は寛永年間假に外へ迂し置奉りて。此年今の地に新宮造奉りて迂し奉りし者にや。詳ならねとも。當社より遷し奉りしことは疑ひなし。木舟宮の事は殊に詳ならず。當郡市川村に此宮の小祠ありて當社より遷し奉りし由云者あれとも覺束なし。】 ここで、私が注目しているのは、次の二点です。 1、別宮の創設にともない、只洲とともに一森山の外へ追いやられたはずの木舟のその後が詳らかではないこと ※注 2、別宮には、國別鹽土翁神と、その妹の國別日東吾妻神の二柱が祀られるべき、と遠藤が口惜しがっていること まず1についてですが、おそらくはこれ故に木舟が別宮に合わせ祀られたという憶測を招き、両者が混同される要因となったのでしょう。 いえ、憶測などと切り捨ててはいけないかもしれません。 なにしろ、共に一森山を追われた只洲が、只洲一禰宜只洲太夫たる鎌田氏ともども古内村に移ったことが明確であるのに対し、木舟のそれは今一つ詳らかならぬままに貴船一禰宜の男鹿島太夫鈴木氏は別宮一禰宜に転じて社家として残っているのです。 別当法蓮寺の住持の著述であろう「鹽社由来追考」には、「元禄年中、只洲宮ハ下鴨ニ、貴船宮ハ上賀茂ニ勧請シテ、古内村ニ遷座シ給フ」とある一方、「御釜ノ神ハ貴船ノ由ニテ、貴船ノ一禰宜男鹿島太夫(鈴木因幡守當時従五位下也)竝同宮の神子、先祖ヨリ代々、毎年七月六日御釜替ノ神事勤之。貴船ノ神子ヲ先達神子ト名ツケ〜」ともあります。 さも只洲宮とともに古内村に遷されたかにも見えますが、当の旧古内村の賀茂神社の境内案内には、上賀茂社の祭神は別雷命とのみあり、いわゆる貴船の水神とされる「高龗(たかおかみ)神」はもちろん、『鹽松勝譜』の「貴船神祠」項に記されたところの「天神立神命」なり「天船主命」といった件の貴船の要素は見受けられません。 思うに、もしかしたら鹽竈の木舟宮は社家内部の水面下で暗黙に鹽竈大神そのものと見られていて、それ故に明文化を憚られながら秘密裏に別宮として生まれ変わったのではないでしょうか。 遠藤の文中、木舟の遷座先と俗伝された市川村の小祠とは多賀城政庁の西に隣接するそれのことでしょうが、少なくとも10年前には、現地の説明板に次のようにありました。 ―引用:現地説明板(多賀城市教育委員会)― 今からおよそ三百八十年前、慶長十二年(一六〇七)年藩祖伊達政宗公により奥州一の宮塩釜神社の社殿造築が成され、この時、塩釜神社が御釜神社の所から現在の境内に遷宮されたのに伴い、貴船、糺二神がここに配祠されたのである。 その後、江戸時代の元禄年間に四代伊達綱村公による塩釜神社改修がなされた。このため糾神社は仙台城北の古内邑(泉市八乙女)に、貴船神社は市川村の現在地に遷宮されたのである。 なにやら、『鹽松勝譜』なり佐久間洞巌らの御釜神社鹽竈神起源説を前提に書かれているわけですが、先日、確認のために現地を訪れてみたところ、既にこの説明板は撤去されておりました。 代わりに、新たな説明板が設置されておりましたが、そこには件の内容がみられませんでした。なんらかの事情で多賀城市教育委員会が思い直したのでしょうが、その理由を知りたいところです。 さて、引き続き、2について語ります。 遠藤が、國別鹽土翁神とその妹の國別日東吾妻神の二柱が祀られるべき旨を力説するところのこの國別大神二神ですが、思うに「國別(くにわけ)」とは、「國分(こくぶん)」の示唆ではないのでしょうか。 東鹽氏なる社家は、『留守分限帳』の記す「宮さと(宮うと?)の人数」、すなわち天文年間頃の鹽竈神社の社人名簿にはみられませんし、それ以降の伊達家の記録においても見受けられません。 遠藤の説くところを信ずるならば、東鹽氏は留守氏や鎌田氏との折り合いが悪く、貶められて零落していったようなので、それ故に天文の頃には既に社人の列からは省かれていた可能性もありますが、山下三次がその存在を疑う所以でもあります。 何某かの社人が、名を変えて憚られる内容を後世に残したことも考えられますが、國別大神の神裔という属性からすると、もしかしたら鹽竈神社に対してなんらかの思惑を抱いていた陸奥國分氏プロデュースの裏コンテンツだったのではなかろうか、などとも想像するのです。 ただ、舟山の『鹽松勝譜』にはその存在はみられず、したがって、「國別大神」が本当に東鹽氏の傳に登場していたのかどうかもわかりませんが、その正否に関わらず、私が注目したのは、「妹・國別日東吾妻神」と頭にいちいち特記されている「妹」という属性です。 何故「妹」なのでしょう。 もしかしたらこれは、長髄彦―登美毘古―の妹「鳥見屋媛(とみやびめ)―登美夜毘賣―」の示唆であり、すなわち、少なくとも遠藤信道が経典のごとく信奉した「東鹽家秘録」なるものを記した者は、鹽竈大神たる國別鹽土翁神が長髄彦であることを遠回しに表現していたのではないのでしょうか。 ※注:仙台市泉区小角の貴船神社が鹽竈神社から遷ったそれであるという説も、『泉市誌』や近隣同区実沢の熊野神社HP記載の由緒にみられるが、真偽は不明。同社の棟札には安永六(1777)年とあり、同区加茂に遷された只洲―賀茂神社―の棟札が80年前の元禄九(1696)年と同十(1697)年であることを鑑みるならば、私は後世の何者かが貴船社の遷座先が不詳なことを嘆き祀ったものとみる。神殿の紋章が留守家のそれである―泉市誌―ことからすれば、由緒も含めたプロデューサーは留守氏であろうか。
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