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13、鹽竈神の馬を葬る天満崎 塩竃市舟入二丁目あたりは、古く「天満崎」と呼ばれておりました。現在も町内会などはその名称を使用しているようで、集会所はもちろん、公園や県営住宅の名称にもその名残がみられます。 この天満崎、寛政四(1792)年長(9)月日付けの序文がみられる『奥鹽地名集』には、「はしまか崎」という地名で記されております。 『奥鹽地名集』は、『鹽松勝譜』―文政五(1822)年―からみて30年ほど遡る地誌ですが、そこには、「藤木崎の手前、天満(てんま)という山の出崎をいい、この山上に大きな松がある。昔、天満宮が御鎮座した所で、その牛生(ぎゅう)へ移し奉ったと伝える」とあります。 ―斉藤善之さん監修『新釈奥鹽地名集(NPOみなとしほがま)』より― この条に対する同『新釈奥鹽地名集』の解説をみてみます。 ―引用― はしまか崎 波嶋崎とも表記される。舟入二丁目あたりにあった。牛生(ぎゅう)へ遷座した天満宮(てんまんぐう)があったことから天満山と呼ばれた山に続く出崎であった。その山上には大きな松があったという。「塩釜町方留書」(『塩竈市史・資料編』八二頁)によれば「この天満と申す所は往古(おうこ)、天神(てんじん)の御立ちなされ候由申し伝え候。瓦等数多(かわらなどあまた)有り。両村(天満・笠神)入合(いりあい)萱野(かやの)に致(いた)し置き候故(ゆえ)、年々山を焼き候處(ところ)、天神の社内の通(とおり)へは火付け申さざる由申し伝え候」とあり、そのあたりは当時萱野(かやの)になっており、野焼きが行われたこと、天満宮の跡地には瓦が多数見られることなどが記されている。 なにやら、この“崎”には天神が立ち寄られたのだといい、それに因む「天満宮」があったようです。多数見られたという瓦などは、その天満宮の社殿に使用されていたものなのでしょうか。 いずれこの天神については、実際に菅原道真が立ち寄られたとも考えにくいので、天つ神、極論するなら東照大権現の創出に迎合して北野天神にすり替えられたフシのある、いわゆる「天照御魂神」のことを指しているものとも考えられます。 「天満」という言霊は、怨霊化した菅原道真に贈られた神号の「天満(そらみつ)大自在天」に由来するとも言われているようですが、「そらみつ」はそもそも「やまと」にかかる枕詞でもあります。 そしてそれは、いみじくも天照御魂神たる「饒速日(にぎはやひ)命」に因るものであることが『日本書紀』に明記されております。 『日本書紀』には、「及至饒速日命、乗天磐船、而翔行太虚也、睨是郷而降之、故因目之、曰虚空見日本國矣」とあり、つまり、天磐船(あめのいわふね)に乗って太虚(おおぞら)を翔行く饒速日命が、やまとの郷を眺めてそこに天降り、「虚食見(そらみつ)日本國」と名付けたのだというのです。 天満山と思しき崖の上に赴くと、眼下には大掛かりな太陽光発電システムが現れました。 もちろん太陽神たる天照御魂神とは全く関係ありませんが、眼下一帯に青く広がるその威容には、崎の下まで海が入りこんでいた往古の情景が彷彿とさせられます。 ともあれ、天満崎なり天満山なりの地名も、おそらくは江戸時代の東照大権現の創出に同期して定着したものであるのでしょうが、実はその命名のきっかけ自体は、政策的に変質せられた天神信仰とは方向の異なる因子として相当に古くからこの地に存在していたようです。 すなわち、「天満社」とされてきたそれは、実は本来「天馬社」であったのだと力説する逸話が『鹽松勝譜』にあるのです。 ―引用:『仙臺叢書別集第四巻(仙臺叢書刊行會)』所載、佐澤廣胖『解譯鹽松勝譜』― 天満崎 葱濱ノ東南ニアリ。此ノ間ダ(ママ)崎中最モ高上ニ松アリ。土人相傳ヘテ曰ク。昔シ松下ニ天神社アリ。因リテ名トナス。社今廢ス。或人ノ曰ク。天満舊ト天馬社ニ作ル。太古鹽神御スル處ノ馬死シテ此二瘞ム。後世祠シテ是レヲ祀ル天馬社ト稱ス。天馬國音天満ト同シ故誤ル。天満ハ菅公祠タリ。崎下洞穴アリ。是レヨリ彼レニ通ス。土人是レヲ天満祠ト曰フ。 『鹽松勝譜』は、鹽竈大神の御するところの馬が死してここに瘞(うず)められていたが故に、後世祠が建てられ「天馬社」として祀られていたとする何者かの話をここに紹介しております。 そして、その韻の同じが故に「天満社」と誤って伝わったものだとしているのです。 この文脈から感じる情景としては、この馬は鹽竈神社の御神馬というよりは、鹽竈大神のモデルとなった人物が実際に馭していた愛馬といったところでしょう。 崎下に洞穴があって、「是レヨリ彼レニ通ス」とのことですが、それは天馬の眠る聖域に通じる穴ということなのでしょうか。 洞穴は県営住宅の裏あたりの崖にあったのか、それともソーラーシステム区域の際(きわ)の崖にあったのか、天照御魂神由来の天神信仰の方向から思考するならば、朝日を差し入れさせる擬似子宮としての洞穴とみることも念頭に置くべきでしょうが、おしなべて北斜面がちな当地の地形からすると、その可能性はないとみて良さそうです。
仮に『鹽松勝譜』の説くところが妥当であるならば、思うに、この地にあったという天満社は、菅原道真信仰としての創始時期こそは他所の多くのそれと同様、東照大権現の創設に同期しているだろうものの、古来その根幹にあった精神的主柱は天照御魂神ではなく、やはり鹽竈大神の愛馬への供養であったことでしょう。 |
鹽松勝譜をよむ
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