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17、留潮天神 多賀城を壊滅させたことが『三代実録』にみえる貞観地震は、おそらく平成二十三(2011)年の東日本大震災と同じ震源域、かつ、同じメカニズムで発生した同じ規模の地震であっただろうと考えられているわけですが、少なくとも当時の仙台平野の海岸線は現在より内陸側にあったことが、浜堤列間の堆積物の層が織りなす海岸線の年輪によって示されており、加えて防波堤や河川堤防などが現在ほど整備されていなかったことも相まって、おそらく津波の遡上については東日本大震災のそれより更に数キロ上流にまで及んだものと私はみております。 これは、『奥羽観迹聞老志』などの江戸時代の地誌や神社の由緒、民間伝承、小鶴における昭和初期の避難訓練など、多方面の情報を鑑みた上での私なりの見解です。 『鹽松勝譜』に記された「留潮天神祠」の条もまた、それを補強し得る情報であると言えそうです。 ―引用― 留潮天神祠 向泉院ノ西百餘歩ノ高丘上ニ在リ。祠邊ニ雑樹密ニ茂リ。樹皆數圍ナリ。其古キ祠ナルコト知ル可キナリ。土人相傳ヘテ。鹽廟ノ枝祠ト稱シキ。曰ク鹽神鹽ヲ煮ルノ日。海潮屢湧キ多ク民地ヲ割キタリ。鹽神之ヲ病ヒ。乃此神ニ命シテ之ヲ防カシメ給フ。故ニ留潮ヲ以テ號ト爲ス。今鹽浦ニ有ル所ノ防波石ハ。則此神ノ置ク所ナリ。土人或ハ誤テ。菅公ノ祠ト謂フ者有リ。蓋古者廷臣ノ外州ニ血食セルハ。皆天神ヲ以テ稱シキ。而ルニ土官國神ト號シテ。以テ之レヲ別ツ。而シテ菅天神ノ名獨海内ニ顯ル故ニ誤レリ。 「向泉院ノ西ニ百餘歩ノ高丘上ニ在リ」とのことなので、この「留潮天神祠」は多賀城市留ヶ谷一丁目に坐す留ヶ谷の鎮守たる天満宮を指しているものと思われます。 『多賀城市史』によれば、この天満宮は古く野田―塩竃市野田―の桜井一族の氏神として本家の屋敷内に祀られていたもので、当家の家督「太郎」なる人物に因み、「太郎天神」とも呼ばれていたようです。 桜井姓は、多賀城から利府一帯に多く、『宮城県姓氏家系大辞典(角川書店)』は、南北朝期の奥州菅領府の使節として三河国碧海郡出身の「桜井左衛門尉秀経」の名が『白河文書』に見えることから、これが奥州管領吉良貞家に従ってきたものか、とした上で、戦国末期に留守政景から出兵を命じられたことが『大島政隆採訪留守文書』にみえる「さくらい主水」もその流れとみて、彼らをこの一帯の桜井姓の起源に関係するものと推測しております。 この桜井一族と関係するものか、同辞典には鹽竈神社の三社兼帯水干大夫、および御拝敷役を務めた桜井家についても記されております。 同家伝存の文書には、彼らは大神主「留守家景」のもとで神事を行うために神官として鹽竈神社に入った「佐久良為有高」を祖とする在庁家の一つであるとのことで、七代有義から十二代有意までは「梅の宮神社」の祠官も務めていたようです。 前述の『鹽松勝譜』は、「鹽廟ノ枝祠ト稱シキ」と留潮天神が鹽竈神社の枝祠であるとする風聞の存在を記しておりますが、諸文献が記す摂末社、すなわち、『法蓮寺記』の十四社、『鹽竈神社神籍』の二十四社、『摂末社明細表』の二十二社、『鹽社略史』の二十五社、そればかりか『鹽松勝譜』の記す十五社のいずれにも同社は含まれておりません。 したがって、その風聞は鹽竈神社や梅宮神社の祭祀に関わっていた桜井家の立ち位置に由来するものであったのかもしれません。 ともあれ、本稿でもっとも注目すべきは、「海潮屢湧キ多ク民地ヲ割キタリ。鹽神之ヲ病ヒ。乃此神ニ命シテ之ヲ防カシメ給フ。故ニ留潮ヲ以テ號ト爲ス。」というくだりです。 海潮が屢(しばしば)湧きあがって多くの民地を割いていた、とのことですが、ここで重要なのは、大雨ではなく海潮による氾濫とされているところです。 それを鎮めたが故に“留潮”なのです。 「今鹽浦ニ有ル所ノ防波石ハ。則此神ノ置ク所ナリ」と、さも鹽浦―塩竈湾―の逸話のように読めるものの、そもそも松島の島々に守られた塩竃湾がそうそう荒れること自体が考えにくく、よしんば海が荒れるたびにしばしば冠水するようなところであれば、その都度にいちいち困窮するような生産活動なり社会生活がその地に定着していたとも思えません。 しかもその自然災害に功のあった神が、ひと山越えて塩竃湾を見晴らすこともできない留ヶ谷の丘に祀られているのは不自然であり、桜井家の敷地内から当地に遷されたにしても、従前地の桜井屋敷はあくまで“野田”であるわけですから留ヶ谷の隣町にすぎず、同じ「野田の玉川」の流域であることには変わりありません。これも鹽竈神社に関わる桜井家の屋敷神であるが故の逸話であるのかもしれません。 なにしろ、野田の玉川は塩竈湾に注ぐ川ではなく、仙台湾に注ぐ砂押川―冠川―の支流なのです。 思うに、これは十中八九玉川を遡った“津波”の伝説でしょう。 野田の玉川は、すなわち、多賀城を壊滅させた貞観大津波の海嘯の遡った水系に属します。 おそらくその海嘯は砂押川から分かれて玉川をも遡り、野田にまで到達し、その到達点に祀られたのが留潮天神であったのでしょう。 そして、野田地区よりやや下流の玉川流域は、その海嘯をとどまらせた谷であったが故に、「留ヶ谷」の地名で呼ばれることになったのではないでしょうか。 後にその留潮天神の鎮座地が在庁官人桜井家の屋敷となり、その後になんらかの事情で現在地に遷されたのでしょう。 現在地は浮島神社と似た雰囲気の低湿地に島のように浮かぶ丘陵地で、当然大津波の難を逃れた場所であったことでしょうし、それ故か古代から中世の複合遺跡が残る多賀城廃寺跡を中心とした広範な「高崎遺跡」と称された遺跡のうちでもあります。 とりわけ「留ヶ谷遺跡」と呼ばれる当地の館跡は、中世に構築されたものが近世に修築されて使用されていた可能性が高いと考えられております―『多賀城市史』―。
安永三(1774)年の『風土記御用書出』の「留ヶ谷村」の項にみえる「桜井館―多賀城市役所西側に痕跡あり―」が、仮に野田の桜井家の遷ったものだとするならば、一旦この留ヶ谷遺跡の地を経たのかもしれず、その名残がこの留ヶ谷鎮守の天満宮―留潮天神―なのかもしれません。 ところで、『鹽松勝譜』はこの留潮天神の項でも先の天満崎同様、菅原道真を祀る天満宮とするのは誤りとする旨を釘刺しております。 東照大権現の勧請という江戸幕府への諸藩のおもねりは、その副作用として往古の天神を北野天神にすり替えるという忖度を各地で生み出したようですが、もしかしたら著者の舟山萬年はその流れに対してさりげなく抗っていたのかもしれません。 |
鹽松勝譜をよむ
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