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18、西宮志波彦神社説と冠川 鹽竈神社、あるいは多賀城には、四方を守護する東西南北の方位神が存在していたとされておりますが、「東宮―東宮神社―」と「南宮―南宮神社―」については、いみじくも社名そのまま故に、それであることが明らかであるとみて良いのかもしれません。 また、「北宮」については、春日神社―利府町春日字寒風沢―が寛文十一(1671)年仙臺藩主四代伊達綱村の時代に“北宮明神”の地―現在地―に遷座された旨が『封内風土記』にみえ、また、具体的にその先住の北宮明神を付属とした旨も伝えられているので、少なくともその存在自体は認めても良いでしょう。 問題は「西宮」です。現存する地名や神社名などからは西宮がどこにあったのかがわかりません。 したがって私は、春日神社の鎮座地が元々北宮の鎮座地であったらしきことを知るまでは、東宮や南宮についても、実は各々無関係な社であったものを、その訓から後付けで方位神に位置づけられたものだったのではないか、などとも考えておりました。 少なくとも南宮神社を鹽竈神社の南と捉えるには苦しいものがあり、多賀城政庁からみるならば、もはや真西と言わざるを得ない現実もありました。 しかし、東宮・南宮の他に、北宮も存在したとあらば、これはやはり東西南北全てに方位神が存在していたとみるべきか、さすれば西宮もどこかの社の陰に息をひそめているのかもしれぬ、などと思い直してみたりもするのです。 さしあたり、その候補としてしばしば見かけていたのは、志波彦神社がそれであるというものです。 志波彦神社は、今でこそ鹽竈神社と同じ境内に鎮座しておりますが、明治七(1874)年以前は現在の八坂神社―仙台市宮城野区岩切―の地に鎮座しておりました。その地であれば、なるほど鹽竈神社なり多賀城なりの西であると言えるでしょう。 いみじくも、この八坂神社の社殿脇にはその名残たる「冠川(かむりがわ)神社―志波彦神社―」の祠があり、「岩切歴史探訪会」によって建てられた説明板には志波彦神社が西宮と呼ばれていた旨も記されておりました。 この説について、私はてっきり明治以降の学者による仮説にすぎないものであろうと思っていたのですが、『鹽松勝譜』の志波彦神社の項に「一ニ西宮明神ト稱ス。鹽廟方位四祠ノ一。」とあり、既にその時代―文政五(1822)年頃―には志波彦神社が西宮明神であるという認識が存在していたようです。 この志波彦神社の項はなかなか興味深いので、以下に全文引用しておきます。 ―引用― 志波彦神社 附牛頭天祠 途絶ノ橋ノ側ニ在リ。其地ハ即冠川ノ陽ナリ。因テ又冠川神社ト號ス。一ニ西宮明神ト稱ス。鹽廟方位四祠ノ一。延喜式神名帳二載スル所。宮城郡大社四座ノ一。祠廢シタリ。今牛頭天皇祠ヲ置ク。観迹聞老志ニ曰ク。冠川神社ノ址ハ。岩切河ノ北ニ在リ。土人之レヲ志波道上ト謂フ。蓋志波ハ鹽ノ方言。道上ハ同社ノ訛。道上同社國音近キヲ以テ。之レヲ誤レリ。是レ鹽神同社ノ義ナリト。又曰ク。縁起説ニ曰フ。祠官及里俗相傳フ。鹽神先天冠川ノ上リニ降リ給フ。因テ祠ヲ立テ神降明神ト曰フ。後鹽廟ノ枝祠トナス。且神降ヲ更テ冠ト為ス。冠ハ首ナリ。元初ノ義ヲ取ル。且神降國訓冠ト同シ。(加牟理ト訓ム。)故ニ之レヲ改ム。封内名跡志ニ曰ク。志波彦神社ハ。岩切村ニ在リ。道士光覺院有リ。其宅中古來稱テ志波道場ト曰フ。傍ニ小池アリ。即志波ノ彦祓川ナリ。又此地ニ牛頭天王ノ祠アリ。舊留守氏高森ニ居ルノ時。後山上ニ在リ。寛永中此ニ移ス。又曰ク。風土記残篇ニ曰フ。志波彦神社。圭田六十八束。三字田。所祭饒速日命ナリ。天智天皇三年。始テ圭田ヲ奉シ。神祀ヲ行フ。但志波ヲ以テ志律(ママ:津か?)トナス。是レ草字ヲ以テ之レヲ誤ルカ。天王ノ舊地ハ今ノ祠ノ西北二里餘。天王山ト云フ。東光寺ノ後山上ニ祠趾アリ。 拙くも意訳しておきます。 ―意訳― 志波彦神社 附牛頭天王祠―八坂神祠― 途絶の橋(※県道泉塩竃線の改修工事にかかり現存せず)の側にあった。その地はすなわち冠川(かむりがわ)―七北田川(ななきたがわ)―の北岸であったが故に「冠川神社」とも号された。 一説に、鹽竈神社の四方の方位神のうちの西宮明神とも称されていたという。 当社は宮城郡における『延喜式神名帳』掲載のいわゆる式内四座の一つで、しかも最高格の名神大であったが、既に廃されており、当地には現在牛頭天王の祠が鎮座する。 『奥羽観迹聞老志』によれば、冠川神社の址は岩切河(冠川:七北田川のことか?)の北にあり、地元の人はこれを「志波道上」と呼んでいた。「志波」は「鹽」の方言で、「道上」は「同社」が訛ったもの、韻の類似故に誤ったのであるが、これは「鹽竈神社と同じ」という意味である、という。 また、縁起の一説にある神職や地元の言い伝えでは、鹽竈神はまず冠川上流に降りたまわれたので、神降明神と呼ばれたのだという。後に鹽竈神社の枝祠として祀られることになり、「神降」あらため「冠」となるが、冠は首の意味であり、「原初」のニュアンスが込められたものか、「冠―加牟理(かむり)と訓む―」が「神降り」と同韻であるが故にそう改められたのだろう。 『封内名跡志』の記述はこうである。志波彦神社は岩切村にある。その地には光覺院なる道士がおり、その住まいが中世以来「志波道場」と称されてきたのである。傍に小池があるが、これはすなわち志波彦社の祓川である。また、この地には牛頭天王の祠があるが、古く、留守氏が高森城を拠点としていた頃、背後の山上にあったものを、寛永中(1624〜1643)にここに移したものである。 また、『風土記残篇』にはこうある。志波彦神社は、圭田六十八束、三字田。祭神は饒速日命である。天智天皇三年、圭田を奉り神祀を行い始める。但志波をもって志律(ママ:津か?)となす。 志津の「津」は草書体の「波」の文字を誤まって伝えたものか。 牛頭天王の元の地は、現在の祠の西北二里余り―∴1500メートルくらい―の天王山という。東光寺の背後の山上に祠の趾がある。 ∴いわゆる天王山まで8キロ以上の距離はないので、いわゆる小道基準で語られているものとみる。 なるほど、たしかに志波彦神社は西宮に位置づけられていたことがあったのかもしれません。 東宮明神境内の「柴根明神」が東宮浜の柴家の氏神、すなわち志波彦神であるとされていることを鑑みても無理のない話と言えそうです。 柴家は、本来志波姓を称すべきところを氏神の神号と同じくすることを憚って柴姓を名乗っているといいます―『七ヶ浜町誌』―。 さすれば私が気になるのは、志波彦神とされる柴根明神が、『宮城縣神社名鑑』や『七ヶ浜町誌』において「“紫”根明神」、すなわち、「柴(しば)」ではなく、「紫(むらさき)」で表記されていることです。東宮明神と縁ある「紫石(むらさきいし)」の存在を鑑みるならば、これを単なる誤植とは切り捨て難く、いえむしろ柴根明神こそが誤植ではないかとすら思えてきます。ただ、志波彦神との縁を鑑みるならば、「柴(しば)」も切り捨てがたいものがあります。 いずれ、ここで私が留意しておきたいのは、なにやら紫明神―松島明神―と限りなく近い属性が志波彦神にも透かし見えているということです。 なにしろ、少なくとも南宮の祀るところは紫明神であり、北宮についても周辺の旧地名などからその気配が窺われます。 大胆ではありますが、東西南北の方位神に位置づけられた神々は本来すべからく紫明神―松島明神―であったのではないか、とすら思えてくるのです。 蛇足ながら、上記引用文に、「冠ハ首ナリ」とあります。ニュアンスは違えど、かつて私は、冠川神話において白馬に乗った志波彦神が川に落したという冠は志波彦神の首の示唆ではないか、と仮説を立てておいただけに、正直なところ鳥肌が立つのを覚えました。
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鹽松勝譜をよむ
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