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『聖徳太子の実像と幻像(大和書房)』には、『東アジアの古代文化(大和書房)』102号〜106号の誌上で展開された論争、すなわち、大山誠一さんの聖徳太子架空説に対する研究諸氏の論文が、加筆訂正の上で再構成されて掲載されております。 その中で田中嗣人さんは、大山さんが712年頃にはまだ聖徳太子像がまったくできあがっていなかった、としていることに対して、693年(仁王会)、694年、年次不詳の、「飛鳥(浄御原)宮御宇天皇」から寄進された仏具・法具・経典が「法隆寺資財帳」に著禄されていることから、この時期既に「斑鳩寺再建の進捗は確かなことである」とし、それは原「聖徳太子」像なしにも可能だったのであろうか、という旨の疑問を投げかけております。 田中さんは次のような例をあげて畳みかけます。 ―引用― 単なる「蘇我系の一王族」の氏寺の被災なら、「衆人寺地を定むるを得ず」の状態(『上宮聖徳太子伝補闕記』)はもっと続いた筈であろう。「大安寺資財帳」を参考にすると、「大安・薬師・元興・弘福の四寺」(『続紀』七〇三年)に準ずる扱い(同上七一五年)は、竣工(七一二年?)ではなく着工に遡る可能性がある。用明天皇の誓願を受けて推古天皇と「聖」の「皇太子」「摂政」とが創建した。この縁起が天皇に認められたからこそ、再建は緒に就くことが出来たのではあるまいか。仁王会のごとき国家の護国法会が挙行され、持統(または天武)の寄進が行われたのはその証であろう。 なるほど、たしかに法隆寺は“単なる”「蘇我系の一王族」の氏寺ではなかったということなのでしょう。 とはいえ、だからといってその寄進が必ずしもそのまま厩戸皇子を神格化した原「聖徳太子」像の存在を傍証し得るものとも言えないのではないでしょうか。 いみじくも“仁王会のごとき”は、ことさらに災厄の鎮静なり国家安泰を祈念することに主旨があるわけで、少なくともなんらかの社会不安に悩まされていたことが推察されます。 古代にあってそういった社会不安の根源には、とりわけ神罰なり怨霊なりへの畏怖が疑われます。仮に蘇我系の一皇子の氏寺であったにせよ、斑鳩寺―のちの法隆寺―創建の本質に、四天王寺同様の厩戸皇子―蘇我氏―による物部守屋への鎮魂の意図や、後の「飛鳥(浄御原)宮御宇天皇」による蘇我一族への鎮魂、すなわち、当該政権主導の正史において悪玉に仕立てあげられざるを得なかった蘇我一族への公に憚られる鎮魂なり供養の意図が内在していたとするならば、太子信仰の成立を待たずとも同様の寄進は行われていたのではないでしょうか。 もちろん、それも原「聖徳太子」像に含まれ得るものと言われてしまえばそれまでですが・・・。 やや構図の似ているものとして、家永三郎さんと古田武彦さんの書簡論争をおさめた『法隆寺論争(新泉社)』にはこんな議論もみられます。 九州王朝説を提唱する古田さんが、法隆寺金堂釈迦像は九州から運ばれてきたもの、としているのに対し、それは斑鳩で造られたものとする家永さんが、聖徳太子や法隆寺とまったく関係のない仏像が誰にも怪しまれずに再建金堂に持ち込まれて中尊に据えられたことは常識的に考えられない、としております。 それに対し古田さんは、その考え方では神社仏閣の宝物等に偽物はなく全て本物ということになってしまう、と反論しておりますが、家永さんは、金堂中尊と他の宝物とでは性質が全く異なる、と返しております。 この議論は、先の原「聖徳太子」像をどこに置くかによって結論が変わってくる性格のもののように思います。 古田さんの著書にはほとんど目を通していないので間違っていたら申し訳ありませんが、氏はそもそも原「聖徳太子」像を自論上近畿王朝に滅ぼされた九州王朝の中に見出し、法隆寺をそれと関わる寺と考えているように思われます。 しかしながら、『法隆寺論争(新泉社)』の前編たる『聖徳太子論争(新泉社)』において、家永さんは「古田古代史学の全体にわたる批判は私の能力を超えるので今は述べられないが、法隆寺の銘文は私の専門領域に属し〜」とオブラートに包むように“九州王朝の可否などには及ぶ必要なし”という学界的な立場をとられております。 さすれば当然ながら、論争内容も考証的局面に限定されるわけで、九州王朝を前提とした古田さんとは永遠に議論が噛みあうこともなさそうです。 古田さんも意地になったのか、その考え方では神社仏閣の宝物等が全て本物だということになってしまう、という旨のひとくされをぶつけてしまったわけですが、老練な家永さんから、中尊を他の宝物と同列に論ずべきでない、という旨の見事なツバメ返しを喰らってしまったわけです。 たしかにこれでは九州から持ち込まれたとする仏像は聖徳太子や法隆寺と全く関係のないものと自ら認めてしまったようなもので、おそらく古田さんは自分の意図するところと論点のずれた方向のまま走らざるを得なくなってしまったようにも思えます。 いずれ、聖徳太子の実在の正否や太子信仰発祥の時期はともかく、その聖地として何故斑鳩(いかるが)―奈良県斑鳩町―の地が選ばれたのかが私は気になっております。 もちろん単にそこに聖徳太子の斑鳩宮があったからなのでしょうが、では何故太子はわざわざ磐余(いわれ)の上宮―奈良県桜井市―から盆地を挟んだ対岸となる斑鳩を選んで自らの宮を遷したのでしょうか。 例えば、四天王寺が物部守屋邸宅跡―大阪城あたり―に建立されたことについては、この寺の意義が守屋討伐の誓願の成就に基づくものであるわけですから、それを象徴し得るその地が選ばれたことには必然性を見出せます。 しかし、斑鳩にはいったいどのような必然性があったのでしょうか。 それを窺う糸口こそが、饒速日尊の天降りの地を指す「哮峯(いかるがみね)」の言霊にあるのかもしれない、などと私は想像しているのです。 それはひとまず置くとして、蘇我氏の仏教受容推進の裏に渡来人対策の面があった旨を論ずる田村圓澄さんは、自著の『聖徳太子(中央公論社)』の中で、斑鳩宮の造営にも聖徳太子による対外政策の目論見があったことを説いております。 すなわち、新羅への外交方針をめぐって親百済の蘇我馬子と聖徳太子が思惑を異にする中で、その衆議の重ねられていた推古九(601)年二月に斑鳩宮の造営が始められたとする『日本書紀』の記述に着目した田村さんは、朝鮮半島、ひいては大陸との接触をはかる目論見で太子がこの地を押さえたものとみたようです。 田村さんは、聖徳太子には蘇我馬子がおさえていた逢坂越えによる飛鳥難波ルートとは別に、竜田越えによる難波ルートを確保する必要性があったといい、それが斑鳩に拠点を置いた理由とみております。 『日本書紀』の雄略八(464)年条に、新羅王の要請により任那(みまな)日本府駐在の邦人が新羅侵攻の高句麗軍を撃退したという記事があり、その任にあたった面々の筆頭にはいみじくも“膳臣斑鳩(かしわでのおみいかるが)”なる名がみえるわけですが、田村さんは「大和の斑鳩は膳氏の本貫の地であった」とし、「聖徳太子の妃の一人の菩岐岐美郎女(ほききみのいつらめ:膳大郎女)は、膳氏の出身である。磐余の上宮から斑鳩に宮を移すについて、膳氏の配慮があったであろう」と、聖徳太子と斑鳩の地縁については新羅との旧交があった膳氏を介して生じたものであろう旨を推察しております。 あらためて地図を広げてみると、斑鳩は奈良盆地を流れる主要河川のすべてが大和川一筋に収束される場所で、水運に限れば大阪側の河内へ連絡し得る唯一の出入口でもあります。 いうなれば、奈良盆地を支配するためには絶対に抑えておかなければならない肝の地であったことは疑う余地もありません。 なにしろ膳氏は阿倍氏の同祖氏族、すなわち大彦命の裔であり、大彦命のその実が大和の先住王者たる長髄彦のことであったならば、その裔孫がこの地を支配していたことは至極当然のことと言えるでしょう。 なにしろ、記紀や旧事紀において、長髄彦の妹三炊屋媛(みかしきやひめ)―登美夜毘賣(とみやびめ)―は饒速日尊の妻でありました。 斑鳩エリア周辺の大和川の両岸には、古来龍田の風神と廣瀬の水神が祀られてきたわけですが、地元の語り部を自称する田中八郎さんは次のように語っております。 ―引用:『大和誕生と神々 三輪山のむかしばなし(彩流社)』― 広瀬と竜田の合同の祭祀が何故必要であり、しかも民間地で行なう最高最大の祭祀をしなければならなかったか。その理由の第一は、外国軍による襲撃の防衛対策でありまっしゃろ。朝鮮半島白村江で、日本軍が唐・新羅軍に大敗してから十二年たってましたけど、外交がないので唐軍襲来の恐怖は続きっぱなっしでしたがな。襲来コースは生駒山大和川地帯を突破して大和侵入というのんが決まりの道だったけど、その生駒山地帯の勢力は竜田神であり、大和川水系の勢力は広瀬神になりまんねん。この両勢力が分断せず協力して防備にあたることが大事になりますわ。 この後に続く文脈であきらかになるのですが、ここでいう生駒山地帯勢力の竜田神は饒速日のことであり、大和川勢力の広瀬神は長髄彦のことのようです。
さすれば斑鳩とは大和経営を目論む饒速日勢力と長髄彦勢力の同盟が成立したゆかりの地であったものと考えられるわけであり、誤解を恐れずにいうならば、なればこそこの地に饒速日天降りの聖地「哮峯(いかるがみね)」と同訓の「いかるが」が地名として付されたものとは考えられないでしょうか。 あるいは、この地一帯こそが『先代旧事本紀』に記されたところの「哮峯」であったりはしないでしょうか。いみじくも、この地も河内の國の河上ではあります。 ともあれ、田村さんの説くとおり、膳氏と縁戚関係を結び竜田越えの難波ルートを掌握することこそが厩戸皇子による斑鳩宮造営の目的であったと思われますが、もしかしたらここで親新羅政策を模索していた厩戸皇子像は、膳氏そのものの投影ではなかろうか、という気もしてきております。 |
亀の備忘録
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