はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

國分荘史考

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 仙台市内には、「弘安(1278〜1288)」の年号が刻まれて、「蒙古の碑」、ないし「モクリコクリの碑」などと呼ばれる板碑の類が散見されます。
 とりわけ、青葉山の東北大学植物園内に現存するそれについては、被供養者のことと思しき「陸奥州主」なる文字が銘文中にみえ、それを元寇と対峙した八代執権北条時宗の右腕として絶大なる人望を集めていた御家人、かつ陸奥守でもあった「安達泰盛」を指しているものとみる説があります。
 なるほど、泰盛が霜月騒動によって討たれた時期や、陸奥守でありながら逆臣として討たれたが故にその供養が文保元(1317)年頃まで禁忌であったとされていた事情は、蒙古の碑と呼ばれる一連の碑の被供養者が謎めいていることとも符合します。
 とりあえずその説自体は『仙台市史』によって認知しており、極めて興味深い説なので以前「安達泰盛の供養」と題して記事も書いているのですが、先日拙記事「牧嶋観音堂」他にコメントを寄せられたA氏の御教示によって、それが七海雅人さんの説であったことをはじめて知りました。
 ウェブで検索してみると、御教示の論文「鎌倉幕府御家人制の展開過程」の要旨が見つかりました。
 それは、七海さんが平成十一(1999)年十月二十一日付で博士号の授与に至った審査の要旨を記録した目録で、――補論二「『蒙古の碑』ノート」では、東北大学理学部附属植物園内に立つ、いわゆる「蒙古の碑」(「弘安第十歳二月時正第六番」銘板碑)の被供養者「陸奥州主」が安達泰盛 に比定できるという新設を提示する――とあることから、青葉山の蒙古の碑の安達泰盛供養碑説が七海さんによる新説であったことがわかります。
 学位の審査に申請されたと思しき論文内容の要旨そのものの日付は同年の六月二十日であり、すなわち、翌年平成十二(2000)年三月三十一日発行の『仙台市史 通史編2 古代中世』が、出来立てほやほやの七海新説を反映させていたことにも気付きました。
 400宇詰め原稿用紙に換算して1200枚を超える雄編という当該論文は、一応吉川弘文館にて書籍化されているようなのですが、なにしろ定価11,880円と高価なうえに新品では見当たらず、辛うじて中古本が27,000円と高騰しているのが現状のようです。
 いずれ機会をみて拝読して論の詳細を知りたいとも思っております。
 ともあれ、A氏の御教示で特に興味深かったのは、燕沢には「安達一族」が多く住まい、「蒙古碑」に関わった人なども安達氏であり、牧嶋観音堂脇に「蒙古之碑跡」と記した石を建てたのも昭和55年当時町会長を務めた「安達進七」氏であった、という旨の話です。
 それには全く気付いておりませんでした。
 とりあえず私は牧嶋観音堂に足を運び、昭和五十五年建立の現地の「蒙古之碑跡」の記念碑を再確認しましたが、なるほど、たしかに記念碑の裏面には「安達進七」さんの名が見えました。そればかりなら単に町会長であったから、ということも考えられるでしょうが、名の刻まれた計12名のうち、6名が安達姓であったことは特筆に値します。

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 さらに、境内に入ってすぐ右手に設置されていた芳名一覧をみても、観音堂建立に際して寄進した数百名にも及ぶリストには安達姓がひときわ多く見られました。

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 なるほど、もはやこの謎めく供養の主軸は安達一族であったとみて差し支えないでしょう。
 また、仮に安達泰盛の供養碑とあらば、無学祖元の関与も十分あり得たかもしれませんが、弘安五(1282)年の銘のこの碑が、その三年後の弘安八(1285)年の霜月騒動で滅ぶ泰盛一族の供養碑ということはあり得ません。
 しかし、この芳名一覧からみれば、安達一族が関係する碑であったことは間違いなさそうです。いみじくも、弘安五(1282)年は泰盛が陸奥守に就任した年でもあります。
 それにしても江戸時代の天明三(1783)年鹽竈神社の祠官であった藤塚知明による碑文解読や、昭和十六(1941)年蒙古聯合自治主席徳王の参拝などのエピソードで蒙古の碑として代表的なこの「燕沢の碑」がこうであるならば、青葉山に限らず、いわゆる「蒙古の碑」と呼ばれる同時期建立の旧宮城府中の碑のほとんどが安達泰盛に関係するものであった可能性すら高まります。
 仮にそれが肯定さるべきものならば、では、何故これらの碑は「蒙古の碑」などと呼ばれるようになったのでしょうか。
 藤原相之助は、『郷土研究としての小萩ものがたり』の中で藤塚知明の考証以降にそう呼ばれるようになった旨を述べておりますが、はたして、これほど突拍子もない学説がそう簡単に主流の説として後世まで浸透し得るものなのでしょうか。
 一時的な政策的意図に基づくものならば、こうまで浸透することはないでしょう。私は、やはり浸透し得る下地があったからこその現状であると考えます。
 おぼろげながら、弘安年間建立の一連の碑がそもそも「モクリコクリの碑」と呼ばれていた下地があったところに藤塚知明の説が上書きされたかのような話をどこかで見聞きした覚えがあるのですが、もしかしたら石巻の田道将軍碑の偽作説と混同しているかもしれませんし、なにしろ出典を思い出せないので保留しておきます。
 ともあれ、現代に至って蒙古の碑なる解釈への違和感を覚える人が多いのは、おそらく、侵略者たる元―蒙古―の兵が元寇とは直接的に関係のない宮城郡で供養されていたわけがない、という前提が少なからず頭にあるからでしょう。実際そう考えるのが自然だとは思います。
 もしかしたら、藤塚知明なり当時の知識人は安達泰盛に関わる供養碑であることを暗黙に認識していて、その明文化を憚ったのでしょうか。
 いえ、時は江戸時代であるわけで、鎌倉時代に憚られた泰盛供養の禁忌に気を遣う必要など微塵もあるはずがなく、仮に憚ったのだとしても、わざわざ誰しもが違和感を抱きかねない疑わしい内容に捻じ曲げる必要などなかったはずです。
 そこで注目すべきは、A氏の注目した書生「河成允」なる人物なのかもしれません。A氏は藤塚知明の説の出処がこの人物であることに着目しておりました。
 この人物を明らかにすることは未だ叶いませんが、「河」が高麗の姓であるかもしれないということはわかりました。
 太田亮の『姓氏家系大辞典(角川書店)』によれば、薩摩日置郡下伊集院村の大字「苗代川(のしろこ)」には、太閤秀吉の朝鮮征伐の際に一郷まるごと帰降して薩摩のこの地に土地を与えられた高麗の老若男女がいたようで、その中には河姓も見られたようです。
 河成允がその裔孫であったかどうかはわかりませんが、侵略戦争に巻き込まれて祖国を離れざるを得なかった同朋への想いが、時代を越えて元寇の尖兵とされた祖国兵戦没者へのそれと重なり合ったのだとしても不思議ではありません。
 仮にその憶測どおりであったにしても、博学で知られる藤塚知明が河の草稿を無批判に受け入れたのは、そこになんらの違和感もなかったからではないのでしょうか。
 思うに、やはり、まだ馬産王国の名残が濃厚であっただろうその時代の陸奥にあっては、騎馬民族たる蒙古なり高麗なりが現在よりもはるかに身近であって、その供養の碑があったとしても自然に受け入れられたのではないでしょうか。
 また、いみじくも七海さんが『鎌倉幕府と東北(吉川弘文館)』の中で、次のようなことに着目しております。

―引用―
〜泰盛の陸奥守は単なる名国司ではなく、秋田城介の官職と同様、実際に陸奥国の行政に関わる志向性をもっていた可能性も指摘したい。その任官が弘安の役を経た時点で行なわれた点は、幕府の軍事体制の一層の強化という課題と関連づけてとらえられる余地があるからである。例えばそれは、時宗の没後、将軍惟康へ示された政策綱領の一つ、奥羽両国を除いて東国の「御牧(みまき)」(幕府直轄の牧)を停止する、という条項(鎌倉幕府追加法五一九)にうかがうことができる。

 なにやら泰盛は、元寇後の軍事体制の見直しのなかで馬産王国たる奥羽両国の特化をはかっていたことが窺われます。
 以前私は、伊達政宗が真田幸村の遺児を保護した背景には領内の信濃・高句麗系馬産民の手綱を握る目的があったのではなかったか、という旨の試論を記事化しました―拙記事「伊達家による真田幸村遺児保護についての試論」参照―。泰盛にしても同じであったはずと思うのです。
 したがって、その時期に信濃ないし高句麗由来の彼らを慰撫するなんらかの手立てが打たれていたものと考えるわけですが、もしかしたらそれこそが「モクリコクリ―蒙古高句麗―」信仰であったのかもしれない、などとも思うのです。

「國分荘史考」書庫の記事一覧

閉じる コメント(9)

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鎌倉時代の出来事を近代に生かした「蒙古の碑」 徳王来朝の経緯をどのように見ておられますか? 碑の視察・参詣を”予定行動”説をとる私は、”政府との交渉難航による仙台行き”説の多いことに違和感をもっています。今野さんの見解はいかに?

2018/6/22(金) 午前 7:10 [ aki**rek*si ]

aki**rek*siさん、ありがとうございます。

その部分について考えたことがなかったので、特に持論もありませんね。

”政府との交渉難航による仙台行き”説があったことすら知りませんでした。

2018/6/22(金) 午後 0:06 今野政明

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> 今野政明さん
昭和十三年10月が徳王の初来日。関東軍に居た板垣征四郎が日本に帰国、後に陸軍大臣になる。関東軍と交わした”蒙古独立への日本政府の協力”約束の履行を迫るべく3年後の同16年2月、二度目の来日を果した。外務省記録などによれば、同年2月20日、「仙台への休息旅行」が予定されているがキャンセルしており、都内にて日本軍施設(病院)を視察している。そして25日午後11時過ぎに仙台に向けて列車の人となっている。仙台駅に着いた一行を出迎えたのは師団長・知事・市長らであったことを翌日27日付け河北新報が伝えている。更に仙台訪問あと、翌日に盛岡に向っており「日本政府の徳王懐柔」であった事が読み取れる。
一方、”交渉難航で仙台行き”は、徳王がイライラしクサッテいたので連れて来た との記述が諸誌でみられるのを根拠としているものと思える。イヤ!これは前年からの”予定行動”である・・・・というのが私論です。次回、その背景を書きます。

2018/6/23(土) 午前 10:07 [ aki**rek*si ]

aki**rek*siさん、ありがとうございます。

なるほど、そもそも徳王の来仙にはそのようなドラマがあったのですね。
勉強になります。

2018/6/23(土) 午後 4:09 今野政明

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図書館で企画した「郷土を語る」で、「蒙古の碑・発見から移設まで」のお題を頂き、一頻話してきましたので「私論の背景」を書くのが遅れました。 昭和16年は、後に
「大東和戦争」と称されたアメリカ参戦の年です(12月8日、真珠湾攻撃)。そんな戦時中に、地元誌や既刊の書にて「徳王主席は、わざわざ蒙古の碑を視察にきた」などと書いているのは、そうであって欲しいと願う地元民の「我田引水」である。 新聞や郷土研究誌などを詳読すれば「蒙古:日本政府:日本軍」それに加担した「斉藤報恩会」による一連の動きが見て取れる。槙島観音からの移設についても、報恩会の小倉博が手配しているし、蒙古との繋がりが大きい瑞巌寺との交渉も
小倉が果している。「私の見立て」は、この一連の経過を仕掛け、取り仕切った人物が居て、その人は後に市博の長になっているし、日本人が多数亡くなった内蒙古
にも足を運び慰霊していた人。決定的な要因は「善応寺出身」という事実に帰す。
ここまで書けば、今野さんなら”人物特定”が可能でしょう。敢て私から名前を明らかにせず、この先にも続くであろう「検証」につなげるつもりです。以上

2018/7/2(月) 午前 11:58 [ aki**rek*si ]

aki**rek*siさん、ありがとうございます。

開戦の年であることは認識しておりましたし、その来日が当時の世情となんらかの因果があろうこともおぼろげに想像しておりましたが、こちら側(宮城県側)の我田引水に基づく流れという発想はまったく持ち合わせておりませんでした。

そういった背景の可能性も今後頭の片隅に置いておこうと思います。

2018/7/2(月) 午後 3:57 今野政明

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初めの告知で私は「蒙古の碑は本当に戦没蒙古兵を弔う石碑なのか?」としておりました。戦時中の扱いもそこに繋がることではありますが、”そもそも論”に立ち返って考えてみたい。この石が上記の如く謂われ、各種地誌や市史などにも記されるようになったのは江戸期:天明三年以降・・・とされることは既述した。発見されて揮毫を彫りつけた とされたのは「大乗妙典」の文字であり、天明三年まで60年、地元民を供養した「大乗妙典の搭」であったわけです。それなのに藤塚知明の
「碑文解読」「木版出版」により、突然「蒙古戦没兵の供養碑」とされてしまった。 この二面性を背負わせたことがこの石碑を、その説明をあやふやにした。
蒙古と善応寺は表向き何の関係も見られない。単に「槙島観音は荒廃していたので
碑を運んだ先が、善応寺だった・・・」というだけの扱い・説明であったのだ。しかし、槙島観音へ移す以前は善応寺山門脇に建てられたものだったわけだから、徳王の視察に際し再び善応寺に移設したことは特に違和感は無いところである。但し、この移設の陰にいたであろう人物とその背景には見るべき事実が隠されていた。

2018/7/3(火) 午前 10:54 [ aki**rek*si ]

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以前のも触れたかもしれないが、「大乗妙典」を揮毫したのは善応寺二世:天嶺である
彼は瑞巌寺105世でもあり、本山「妙心寺」を三度住持した名僧とされている。県内に散在する妙心寺系禅寺の扁額は天嶺の手に依るものが多い とも謂われる。「天嶺260年忌祭」も、瑞巌寺ではなく「善応寺」で挙行されている。今でもこの石を善応寺で安置するのであれば、現在建てている面ではなく「大乗妙典」を彫った面をおもてにして建てることこそ然るべき姿であろう。未だに読めない文字を堂々と見せ、「蒙古の碑」などと標柱まで建ててる理由は善応寺には無い!
もっとも、その様にして憚らないことには理由があるのであろう。それは他人(私)が探って露にすることが適当ではないのだろうから、天嶺揮毫と寺での安置向きの乖離を指摘して、この件の仕舞いとしたい。 安達氏の由来に就いては別項で研究を進めたい。

2018/7/3(火) 午前 11:19 [ aki**rek*si ]

aki**rek*siさん、ありがとうございます。

多くの有益なご教示には感謝しておりますが、私はやはり、この碑が「蒙古・高句麗」の碑であった可能性は捨てきれない、と思います。

いみじくも燕沢碑の銘文が刻まれた弘仁五年は、安達泰盛が陸奥守に就任した年であり、おそらくは拙記事本文の末尾に記した事情に基づいた泰盛の政策による建立であったものと考えます。

結果的にそれが泰盛の遺業となり、さらにその属性が憚られるようになったものと推測します。

2018/7/4(水) 午後 2:11 今野政明


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