はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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 先日、日の出の時間を見計らって閖上(ゆりあげ)―宮城県名取市―を訪ねてみました。
 震災後まもない頃に訪ねて以来の久しぶりの閖上でありましたが、だいぶ雰囲気が変わっておりました。なまじかつての地理感が残っているだけに、はて、こんな坂道などあっただろうか、などと戸惑う場面もありましたが、閖上地区の復興計画は居住区そのものの大半を嵩上げして、いつかまた襲い来るであろう大津波に備えるものであるようです。
 ともあれ、あえて日の出の時間に閖上を訪れてみましたのは、この地の沖合にのぼる朝日が、名取西部の高舘丘陵をどのように照らし出すものか、という素朴な好奇心に駆られてのことでありました。

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 結果からいえばこの日は雲が多く、私の期待通りには照らしてくれなかったわけですが、閖上の地を離れ、復興真っ盛りの浜街道を北上している最中に、多少なり雲間から日差しが射し始めたので、これ幸いと沿道の海岸公園馬術場―仙台市若林区井戸―に立ち寄り、そこから高舘丘陵を眺めてみることにしました。この馬術場も震災後、閖上の居住区同様平野部に盛土嵩上げされて再開しておりますので、四方を広く見渡すことができるのです。
 公園の駐車場に車をとめて、やおら東を望めば大津波を耐えしのいだわずかな防風林が茜さす空に影絵のように映し出されておりました。どうしても哀惜の念を呼び起こされざるを得ませんが、西を振り返れば何事もなかったかのような仙台平野のパノラマが視界の許す限りに展開しております。

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仙台市街と泉ヶ岳

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今泉清掃工場の煙突の奥に見える住宅街のある一帯が高舘丘陵。その奥にうっすら見えるのは蔵王連峰

 とりあえず、高舘丘陵が朝日に照らされるイメージは確認できたと言って良いでしょう。
 そもそも閖上の日の出が気になりはじめたわけは、先日の拙記事の中で栗駒山の別称なる「大日(おおひる)岳」のヒルや「ゆるぎの松―宮城県栗原市―」のユル、そして「由利(ゆり)郡―秋田県由利本荘市―」のユリについて触れながらあれこれ考えているうちに、ふと、もしや閖上(ゆりあげ)のユリもそれらと同根であったのではなかろうか、と頭をよぎったからでありました。
 すなわち、ヒルやイル、ユルなどと同じく、閖上のユリも「日」を意味していたのではなかろうか、と考えたわけです。
 言うなれば、伊勢二見ヶ浦「二見興玉(おきたま)神社」の「興(おき)」と同じ意味が、閖上の地名にもあてはまり得るのではないかと推察してみたのです
 古代日本人の太陽信仰・日神祭祀―アマテル信仰―は、「天(あま)」に輝くタテ方向の視点のものではなく、「海(あま)」から刺すヨコ方向の太陽を賛美するものだったと説くのは『神と人の古代学(大和書房)』の大和岩雄さんです。
 大和さんによれば、オキタマの「オキ」は「沖」でヨコ意識であり、特に「興」と表記するように起き上がる意味をもつ、すなわち、西に沈んだ太陽が海中で眠り、あるいは死に、翌朝には再生して東から朝日となって昇るのであって、それは王権によってつくられた中国由来の天上からタテに照らす概念ではなく、ヨコからただ刺す概念であって、それこそが古代の人びとがあがめていた「興魂(おきたま)」の神だというのです。
 さすれば二見興玉神社の主祭神たるサルタヒコが朝日の神であることをも示唆しているわけでもありますが、ともあれ閖上を日の出の地として眺め得る場所に高舘丘陵があり、同地の「熊野那智神社」の始原は、閖上浜の漁師が引き上げた御神体が光を放ち、その光がとどまった場所に宮社が建てられたものであると伝えられております。
 当初その地に建てられたのは「羽黒権現」の祠であったらしいのですが、保安四(1123)年に名取老女なる人物が紀州那智宮の分霊を合祀したことを機に、「熊野那智神社」と改称されたようです。
 羽黒権現は東北地方を代表する山岳修験「出羽三山信仰―出羽三所大権現―」の一角をなす神でありますが、旧名取郡域においてのそれは閖上の海とも密接であったようで、名取川を挟んで高舘丘陵の対岸、名取郡山田村旗立山山頂に祀られていた旧西多賀村村社「羽黒神社」では、かつて毎年閖上濱までの神輿の渡御があったようです―『名取郡誌』―。
 この羽黒権現は、和銅三(710)年に焼失していたものを、陸奥守鎮守府将軍の源頼義が安倍頼時を討った翌年の天喜五(1057)年にあらためて同地に勧請したものとされておりますので、少なくとも高舘山のそれより早くから祀られていた神祠とみて良さそうです―昭和四十一(1966)年羽黒台団地の開発造成にあたり本殿を現在の仙台市太白区羽黒台に移祀し今日に至る―。後の対鎌倉戦の様相からも推察できるように、一方で奥州藤原氏の神兵組織の顔を併せ持ちながら一大勢力と化した名取熊野の前身として、出羽の羽黒修験勢力が根付いていたことを窺わせます。
 ところで、高舘丘陵に造成された新興住宅団地のひとつに、伊藤忠都市開発による「イトーピア名取」がありますが、こちらの住居表示は全域「ゆりが丘」となっております。
 おそらくは造成前の底地にユリの小字名があって、それを採用したものと勝手に推察しておりますが、そうでないならば閖上を眺望できることに因んだものか、はたまた、単に百合の花が咲き乱れる野山であったものか、真相は未確認です。
 もしかしたら、高舘丘陵や閖上周辺には出羽國の由利郡同様、中原眞人一族と思しき由利氏が土着していたのかもしれず、彼らの先祖は高句麗系渡来人と密接な信濃系の馬賊の頭目的存在であったものと考えておりますが、高舘丘陵東部の麓に「乗馬」や「舞台」、「真坂」といった地名がみられることにもその想像を掻き立てられます。
 いずれその想像が妥当か否かに関わらず、同地の羽黒権現、あらため熊野那智神社に関わる創始伝説を鑑みるに、閖上なる地名は御神体が「ゆりあがった」ことに因むとする通説よりも、むしろそれが放った光そのものに由来したものと私は考えます。おそらく本来の御神体は朝日そのもの、すなわち名取川河口の水門(みなと)の沖合に昇り、高舘丘陵を橙色に染め上げる黎明の日(ゆり)のことであったのしょう。

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