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安本美典さん監修・志村裕子さん訳『先代旧事本紀[現代語訳](批評社)』は、「高(たか)の国造」の由緒地として「佐波波地祇(さわわくにつかみ)神社―茨城県北茨城市―」を挙げておりました。 同社の祭神「天日方奇日方(あまのひかたくしひかた)命―以下クシヒカタ―」は、『先代旧事本紀―以下旧事紀―』の記述上、人皇初代「神武天皇」の皇后「鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ)」の兄であるわけで、神武の長男「神八井耳(かむやいみみ)命」の裔とされる高―多珂―國造家からみて直系の祖にはあたりません。 とはいえ、鹿島神とされるタケミカヅチ神系譜という視点で考えるならば、なるほど彼らの始祖であったともいえそうです。 『常陸國風土記』の記述を信じるならば、人皇十三代「成務天皇」の時代に「多珂―高―国造」に任命されたのは、出雲臣同族の「建御狭日(たけみさひ)」という人でありました。 同風土記によれば、「多珂―高―の國」は広大で域内の往来に不便であったがために、人皇三十六代「孝徳天皇」の時代、國造家らの嘆願によって多珂郡と石城郡に分けられたようです。 諸国の風土記は和銅六(713)年に人皇四十三代「元明天皇」の詔を承けて編纂されたものであるわけですが、その当時の石城郡が陸奥國の域内にあったことも同風土記には補記されております。 『続日本紀』の養老二(718)年五月二日条には陸奥國の石城・標葉(しめは)・行方(なめかた)・宇太(うだ)・亘理(わたり)・常陸國の菊多の六郡を分離して石城國を設置したとあり、風土記の補記が裏付けられます。 尚、続日本紀の同条には、白河・石背(いわしろ)・会津・安積(あさか)・信夫の五郡を分離して石背國を設置し、常陸國の多珂郡の郷二百十戸を分離して菊多郡と名付け石背國に所属させたともありますが、もしかしたら常陸から陸奥一円に及んでいたのであろう石城國造家の勢力圏が中央政権によって事実上解体縮小され、菊多郡以北―勿来(なこそ)以北―に封じ込められたということなのかもしれません。 ともあれ、多珂と石城が分けられた際の多珂國造は「石城直美夜部(いわきのあたいみやべ)」なる“石城”を名乗る人であったわけで、多珂國造家が「石城(いわき)一族」から分かれた家であったことを窺わせます。 さすれば分立した石城國造家もまた、クシヒカタに対して多珂國造家同様の尊崇の念を抱いていたことが推察されます。 『古事記』と旧事紀におけるクシヒカタは、いわゆる事代主―大物主―の子であり、さすれば『ホツマツタヱ』における六代オオモノヌシのクシミカタ―ワニヒコ―に該当し、同書の前半部を編纂した人物ともされております。 ホツマに対する真偽の議論はともかく、少なくとも三輪山祭祀のイデオロギーにおいて核に位置づけられる存在であったことを窺い知ります。 それもそのはず、出雲神族の正統な継承者と思しき斎木雲州さんが、同族の経営と思しき大元出版発行の著書の数々にて語るところでは、クシヒカタは三輪山を仰ぎみる奈良盆地の開拓者でありました。 クシヒカタはのちに「磯城県主(しきのあがたぬし)」を輩出した登美家の祖、すなわち、いわゆる闕史八代の主軸たる磯城王朝の母系系譜の祖ということになります。 斎木さんによれば、クシヒカタは奈良盆地が沼地で人の住めなかった開拓の当初、葛城地域の葛城川左岸に本拠を構え、付近に父の事代主神をまつる「鴨都波(かもつは)神社」を建立したといい、これが全国に分布する加茂社の源となったようです。 弥生時代の出雲では神をカモと発音したらしく、クシヒカタに始まった登美家は葛城のカモ家とも呼ばれていたようで、したがって“カモ”はいわゆるトーテム―祖霊神―とは関係のない言霊であったわけですが、後に「鴨」の字があてられるようになったがために、この一族の事績が八咫烏(やたがらす)なり金鵄なりと鳥類の霊験で示唆めかせられる傾向も生じたようです。 いずれここに、クシヒカタの裔孫と思しき石城國造家がカモ社への信仰とも無縁ではなかろうことが透かしみえてきました。 なにしろ貴船社は近世以前には上賀茂社の摂社とされておりました。現在のような独立した社になったのは明治以降のことのようです。 ただ、厳密には11世紀の水害で被災した際のどさくさに上賀茂社の摂社とされたようですから、現在のかたちはむしろ旧に復されたものといえます。 仙臺藩主四代伊達綱村による鹽竈改革の真相を探る上では、時代的にひとまず上賀茂社の摂社とされていた貴船社のかたちを念頭に置くべきでしょうが、本稿の目的は、鹽竈神社に存在した貴船宮なり、太白山山頂に祀られている貴船神社が石城國造一族によるものであったのではないか、という仮説を試みるものでありますから、十一世紀以前の本来の貴船神社のかたちにこそこだわっておく必要がありそうです。 “貴布禰(きふね)総本宮”とされている京都鞍馬の「貴船(きふね)神社」は、貴船大神―高龗(たかおかみ)神―が太古丑の年の丑の月の丑の日に貴船山の中腹鏡岩に天降ったことに始まったと伝わっております。 有名な“丑の刻詣り”は本来この由緒に基づく心願成就の方法であり、藁人形に五寸釘を打ち込む呪詛は後世に曲解されたもののようです。 ともあれ、少なくとも人皇四十代「天武天皇」白鳳六(666)年には既に社殿造営のあったことが社伝にみえ、また、由緒の別伝によれば、人皇十八代「反正(はんぜい)天皇」の御代に人皇初代神武天皇の皇母玉依姫命が顕れ、「吾が船の止まる処に祠を造るべし」と宜り給い、黄船に乗って淀川から鴨川をさかのぼり、その源流たる貴船川上流の現在の奥宮の地に至ったがためにそこに祠を建て水神を奉斎したのが同社の始まりであったとも伝えられているようです。 もちろん、この“黄船”こそが“貴船”なる社名の由来とされております。 反正天皇の御代という括りに対する勘繰りはひとまず置くとして、貴船という字面でふと頭をよぎるのは、貴人の納棺を意味する「御船入り」なる表現です。 カシオの電子辞書EX-word所収の『ブリタニカ国際大百科事典』の「舟葬」の項には次のような解説があります。 ―引用― 舟葬[しゅうそう](boat burial) 死体を小舟に乗せ川や海に流し,あるいは舟形の棺に入れて埋葬するなどの習俗。前者は水葬の一種であり,代表的な例はポリネシアにみられるが,ミクロネシアやメラネシアの一部にも分布している。台上葬においても棺を舟形にする例がインドネシアにみられ,これらはいずれも海上他界ないし海底他界の観念と結びついている。日本では棺を一般にフネ,入棺をオフネイリといい,舟葬の名残りともみられるが,これは舟で島嶼,あるいは陸行できない海岸の葬地に運んだ習俗に由来するものであろう。奄美大島宇検湾の伊里 (えざと) 離れという無人島には,かつて夜間ひそかに死者を舟で運び葬ったといわれているが,こうした例は南島に広範に分布している。 黄船が鴨川をさかのぼったという由緒について大胆に憶測するならば、玉依姫なり、そう例えられ得る人物なりの、遺骸、あるいはそれに相当し得る御魂代のような重要な何かがこの地に遷されたことを示唆するものではないのでしょうか。
なにしろ伊勢の内宮に奉斎されている天照大神の御魂代「八咫鏡」は、舟のかたちをした木の箱に奉安されているといいます。 國學院大學の名誉教授であった西田長男さんなどは、『日本宗教思想史の研究』所収の「薬師の浄土」なる論稿で、「伊勢の大神宮の御正体を奉安する箱を御舟代といふのは、恐らくこの太陽神を海の彼方の常世国から迎え又は送り奉った風習のあったことを意味するものであろう」と語っているわけですが、思うに、貴船の語源たる黄船とは、棺を示唆する“木船”のことであったのではないでしょうか。 |
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