|
「武烈天皇(ぶれつてんのう)」について語りたいと思います。 本来「天皇(てんのう)」というよりも時代的には「大王(おおきみ)」という尊称で表現したほうがふさわしいのかもしれませんが、天皇と呼んでおきます。 この天皇はなにかと話題性があり、古代史ファンが最も興味の惹かれる一人といっていいのではないでしょうか。 厳密にいうと次代の「継体(けいたい)天皇」即位の謎が魅力的なため、自ずとこの天皇にも注目が集まるといったところでしょうか。 なにしろ、この天皇をもって「仁徳(にんとく)天皇」に連なる血統が絶えたといい、あるいはそのときにひとつの王朝が終焉したのではとまで叫ばれているのです。 武烈天皇には子がなかったといいます。 それでも、いくらでも他に候補が存在しただろうと考えられるなかで、仁徳天皇の父親である「応神(おうじん)天皇」の5世孫という、相対的にはだいぶ血が薄い継体天皇が次代の天皇となりました。そのことが物議を醸しだしているのです。 この武烈天皇について、『日本書紀』の記述はあまりに過激でございます。 少なくとも、万世一系を謳う天皇家のご先祖様が、ここまでサディスチックかつ極悪非道な人物として書かれていいものだろうか、と思うほどの残忍無比な人物像が描かれております。 多くの有識者達は、『日本書紀』の編者の意図が、継体天皇即位の正当性への促しと、継体天皇の血の薄さから視点を外させるところにあったのだろうと捉えているようです。 それにしても、日本書紀の編者に、もしそのような意図があったのだとすれば、抱き合わせで万世一系についての疑念まで目覚めさせてしまうのはなんとも皮肉な話でございます。 さて、宮城県には武烈天皇の伝承が色濃い地域があります。 諸々の資料・史料から、武烈天皇、または小長谷若雀(こはせわかささぎ)や小泊瀬稚鷦鷯(おはつせわかささぎ)など、武烈天皇をあらわす呼称が確認できたものをあげてみます。 和我神社 栗原市築館 主祭神 武烈天皇 新山神社 栗原市志波姫 主祭神 武烈天皇 山神社 栗原市尾松 主祭神 小長谷若雀(こはせわかささぎ)尊 山神社 栗原市姫松 主祭神 小泊瀬稚鷦鷯(おはつせわかささぎ)尊 石留神社 仙台市泉区七北田字石止 主祭神 武烈天皇 ゆるぎの松 栗原市瀬峰 武烈天皇のお舟つなぎの伝説あり 王壇 栗原市瀬峰 武烈天皇の陵墓説あり この中で、武烈天皇の御陵とも伝わる栗原市姫松「山神社」の由緒は、この地の武烈天皇伝承のあらましを最もよく語っているので、当地の教育委員会(旧一迫町教育委員会)と財団法人宮城県文化財保護協会が設置した境内案内版の説明を転記致します。 ――引用―― 第二十五代武烈天皇が故あって奥州に配せられ、寵臣久我大連と鹿野掃部之祐両人を従えてこの地に下り崩御されたと伝えられのちにこれを祀って「山神社」と号した。 一説には武烈天皇が当地に追放され、久我大連が天皇を慕ってこれを祀ったとも伝えられている。 天皇の配所もしくは神として祀った地が天皇山(王山林)、久我等のいた地が王沢だと伝えられている。宝物として陣釜、神鏡が久我家に、阿、呍、の御面ニ面と天皇が着たと伝えられている錦の着物の一部分が虫食いの状態ではあるが現在も神社に保存されている。 現在の社殿は、天保十三〜十五年(一八四二〜一八四四年)に再建されたもので、昭和三十四年現在地より北西約三百メートルの低地にあったものを遷宮したものである。旧鎮座地に天皇に関する碑が残っている。 神社の位置は低地にあったものを昭和三十四年に遷したとありますが、大正七年発行の『栗原郡誌』によれば、この山神社は元々山頂にあったものが、郡誌編纂当時は澤沿いの底地に移されていたようです。 これについても諸説あるといいます。
当時の社殿は鳥居をくぐり、石段を下りる低所にあったということで、郡誌は「蓋し稀なり」としております。 御陵伝承地だといっても、なにか薄気味の悪さを感じなくもありません。 |
栗原の武烈天皇伝承を追う
[ リスト ]


