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下世話ながら、前回の『仙臺叢書 第八巻』記載の引用文を私なりに現代風に意訳してみました。 ――意訳―― 案ずるに、いつの時代から仙台市若林区木ノ下の地に(白山神社が)祀られたのかは詳らかではない。 一説には、この地では往古志波彦大神を祀っていたという。この社は当宮城郡の延喜式名神大社である。志波彦神社の鎮座地が――大正七年時点では鹽竈神社に遷し祀られているがそうではなく――岩切(仙台市宮城野区)の冠川河畔北のそれを指しているとは言え、その地は狭く大社を設けるにはとても足らない。また、地元では白山神社は志波彦神社であるという説もある。 これを古文書で検証するならば、源重之が奥州の長官として多賀城に赴任しているとき、「其集中に三月。祭によりて雪を冒して。小鶴(こづる)を過る」という歌を詠んでいるのだが、三月、祭りのために雪中わざわざ赴く、という意味だろうか。 ましてや三月の祭礼(白山神社の例祭日は3月3日、志波彦神社は3月29日)といい、多賀城から――岩切より遠くにある――小鶴(仙台市宮城野区)を通過することといい、これは木ノ下(陸奥国分寺白山≒志波彦)の祭礼に赴いたものと考えられる。識者はよろしく考証されたし。 といったところでしょうか。 ここにある「小鶴」という地名は、「東街道(あずまかいどう)」のルート上にあります。「東街道」は、当時の陸路交通の大動脈です。宮城郡においては、京から見て国分寺のある木ノ下から多賀城に向っております。「小鶴」は、国分寺から多賀城に向えば、志波彦神社があったとされた岩切より手前にあります。つまり逆に多賀城からみれば岩切より奥にあるということになります。 この記述が言いたいことは、おそらく多賀城から志波彦の祭礼に向うことを歌ったものに「小鶴を過ぎて」というくだりがあることから、それはつまり「志波彦が岩切ではなく木ノ下にあった」ことの傍証だ、ということなのでしょう。 余談ですが、まさにこの道こそが「松尾芭蕉(まつおばしょう)」のいう「奥の細道」です。 岩切を流れる七北田川(冠川)に架かる今市橋。 いずれにせよ「往古、木ノ下の白山神社の地には志波彦神社が祀られていた」という話が地元で伝えられていたことには間違いありません。また、以前の記事でも述べたように、一説にはこの白山神社が陸奥国分寺の創建時には存在していたとも伝わっております。仮にそうだとして、その時期に白山神社として存在していたのか、志波彦神社として存在していたのかが気になるところです。
もしかしたら、この地の志波勢力の神殿として存在していたものが、陸奥国分寺建立にともないその地を譲ったのではないでしょうか。当初は陸奥国分寺の守護神として境内に残っていたのかもしれませんが、やがていつの時代かに白山神社として塗り変えられたのではないのでしょうか。 |
陸奥国分寺と志波勢力
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