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独眼竜伊達政宗は、新しい天下人となった徳川家康に、新拠点の居城の普請を申請しました。結果として政宗は青葉山と呼ばれる現在の場所に普請をしたわけですが、このときの逸話として、実は政宗は四箇所の候補を挙げていたと言われております。 千代(青葉山)、野手口(仙台市太白区にある現在の大年寺(だいねんじ)山)、日和山(宮城県石巻市)、そして藤原泰衡が鎌倉軍迎撃の本部を設けた国分原鞭楯(こくぶがはらむちだて)――現在の榴ヶ岡公園――です。 その中で家康に申請した第一候補は千代(青葉山)のようでした。ところが、実は政宗の本心は「国分原鞭楯(むちだて)」が第一候補だったというのです。家康が自分を警戒していることを熟知していた政宗は、絶対に第一希望の案は受け入れられないと考え、本来の第一希望を補欠候補のように申請したというのです。ところが、家康もさすがは天下人、所詮政宗が考えるだろう小細工を見抜いていたらしく、皮肉にも第一候補をすんなり受け入れてみせたようです。 これらがどこまで本当なのかはわかりませんが、両者の駆け引きとしていかにもありそうな話で、少なくとも、当時の人達が両者の性格をどう考えていたのかを垣間見れる面白い逸話かと思います。 ちなみに、一説には本来の第一候補は北上川河口の宮城県石巻(いしのまき)市の日和山(ひよりやま)だったという説もあります。しかし、私はそのセンはなかったと思います。城普請の当座の目的が上杉景勝(うえすぎかげかつ)の牽制であったことを考えれば、石巻では少々不自然です。石巻が重要視されたのは、もう少し時を経て、天下が徳川の世に落ち着いてからのことでしょう。例えば、政宗がヨーロッパ勢力と結び、幕府の牽制(あるいは転覆)を企んでいたと言われたあたりか、あるいは、家康に与えられた62万石では満足できず、米の流通で地力を養おうと発想の転換を決めたあたりではないかと思うのです。かつて、ライバル芦名氏を滅ぼした直後には約120万石(実質200万石とも・・・)にまで勢力を広げた政宗です。最低でもそのくらいまでは財力を回復したかったのではないでしょうか――実際にその後、江戸の米の1/3は仙台米と言わしめるまでになりました――。 さて、注目すべきはその伊達政宗の隠居屋敷です。政宗は、なんと自らの隠居屋敷として、陸奥国分寺にほど近い「若林城(仙台市若林区古城・現在の宮城刑務所)」を選んだのです。なにしろ一国一城令が出されている時代です。それでなくとも仙台藩には櫓と称する二つ目の城(片倉小十郎の白石城)があるだけでもイレギュラー状態だというのに、よくも許されたものです。政宗がいかに特別な存在とされていたかがわかります。一応はあくまで屋敷という扱いだったようですが、実質はとんでもありません。かつて国分氏の城塞があったこの地に、政宗は城の四方の外縁に敵の側面を狙いやすい「張り出し」を設けていたようですし、土塁の高さは6m、堀の幅は約54mもあったといいますから十分に堂々たる平城だったようです。 若林城跡地(現:宮城刑務所)
若林城が政宗の隠居屋敷とされたこの時期、周辺には仙台城下に匹敵する賑わいがあったらしく、仙台は二元都市の様相を呈していたようです。陸奥国分寺周辺は久しぶりに賑わいを取り戻したのでした。遠見塚古墳の被葬者はどんな思いでそれを見つめていたのでしょうか。 ところで、その遠見塚古墳の命名の由来にこんな話があります。 政宗は若林城から見える小高い塚を指し、「あの遠くに見える塚はなんだ?」と家臣に質しました。家臣は「遠くに見える塚ですから、遠見塚でしょう」と答えたといいます。そんな答えに政宗が納得したとは考えにくいのですが、実話だとすれば政宗がユーモアを受け入れたのか、あるいは老いぼれたのか・・・狡猾で冷徹なイメージになりがちな政宗にどこか暖かい人間味を感じます。 それはともかく、この話のおかげで政宗の時代には遠見塚古墳が“古墳”であるという認識がなかったことがわかります。しかしそれでも政宗がこの地を隠居屋敷に選んだのは、「国分寺が鎮座する由緒ある地」ということと、あくまで想像ですが、本来の第一候補、藤原泰衡の本陣付近に拠点を持ってきたかったからではないかとも勘繰れます。もしかしたら、この地――国分原(南小泉も含めた宮城野の地か)――には、古来から“奥州の中枢”というブランドのようなものが――漠然とながらも――確立していたのではないでしょうか。 |
陸奥国分寺と志波勢力
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