2018/5/23(水) 午前 7:17
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東北大学付属植物園の中に屹立する通商「モクリコクリの碑」が”陸奥州主」を祀っていること、七海雅人氏が『鎌倉幕府の陸奥国掌握過程』で論じていますが、北条時宗の岳父・母の従兄でもあった安達泰盛を指しているものと読んでます。今野さんの指摘で「うん!」と手を打ったのが「安養寺」です。槙島観音は「旧安養寺」の寺領にある…と見ています。燕沢には「安達一族」が多く住まいし、「蒙古碑」に関わった人なども安達氏でした。観音堂脇に「蒙古碑跡」と記した石を建てたのも昭和55年当時町会長を務めた「安達進七」氏です。ただ彼はこの石に書き込んだ説明文が、後の「移転時期」お調べる上の障害となることには気づいてませんでした。
この石に刻まれた文言を根拠とした「碑の移転〈槙島⇒善応寺〉」の年月を「昭和16年2月26日」と読める書き方であった事です。 この日は蒙古の徳王が来仙し碑を詣でた日です。これを機に移したと書いたのを「移転日」と読めたのでしょう。仙台には彼方此方に安達姓が集中する地域があるそうで、やはり鎌倉武士たちの末裔なのでしょうね |





ありがとうございます。
いただいたコメントを拝読し、拙ブログにおいて5年ほど前に「安達泰盛の供養」と題した記事を投稿している旨をお伝えしようかと思いましたら、実は既に一年前にお読みいただいていたようですね。当該記事にナイスをいただいていることに今気づきました。
あらためて御礼申し上げます。ありがとうございます。
ところで、拙記事「牧嶋観音堂―仙台市宮城野区―」 へのコメントにて、弘安の碑の実質上の解読―解釈―者で藤塚知明の書生たる「河成允」なる人物像を明らかに出来ないかという旨のご要望を賜りましたが、さしあたり私の手元にある資料をあたってみた限りでは今のところわかりません。
しかし、ひとつ興味深い情報がありましたので、お伝え致します。
薩摩日置郡下伊集院村の大字「苗代川(のしろこ)」には、太閤秀吉の朝鮮征伐の際に一郷まるごと帰降して薩摩のこの地に土地を与えられた高麗の老若男女がいたようで、その中には河姓も見えます。
もしかしたら、その裔孫の一人がなんらかの事情で遠く奥州塩竈にまで流れて藤塚知明の書生となっていたのかもしれませんね。
2018/5/23(水) 午前 8:49