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孝元裔族と孝昭裔族の属性の混乱
亀の備忘録
tjj*****さん、ありがとうございます。
宝賀寿男さんの『息長氏』に目を通してみました。
どうやらいただいたコメントを読み違えておりました。
中原眞人姓がすべからく息長眞人姓と同体というわけではなく、中原眞人姓を称する氏族のうちでも、とりわけ中世に近江を地盤としていた多賀・藤堂・甲良・井口らについては、“その居住地から考えて”本姓が息長眞人かとも推される、ということなのですね。
ところで、鹿島・香取の宮司家たる大中臣氏について、私は本来の祭祀氏族とは毛色の異なる流れであろうとみております。
類聚符宣抄第一巻には、天暦元(947)年から長和四(1015)年の間の大中臣朝臣何某に関わる宮司補任の太政官符が記されているようですが、それに先立つ貞観八(866)年の時点で、陸奥に展開していた38社の鹿島苗裔神側は鹿島神宮側の奉幣を「旧例にない」として突き返していることが『日本三代実録』にあります。これはおそらく9世紀頃には変質していたのであろう鹿島神宮の新たな体制に対して、旧来の祭祀を展開していた苗裔神側が拒否反応を起こしていたものと私はみております。
孝元裔族と孝昭裔族の属性の混乱
亀の備忘録
[ tjj***** ]
2018/8/23(木) 午前 8:10
片岡氏追加情報
鹿島神宮片岡氏と近江→上野国へ移動した片岡氏との繋がりもありました!
親鸞の弟子の順信と乗然
兄とされる順信 鹿島神宮大宮司片岡信親
弟とされる乗然 上野国片岡郡片岡城主源(片岡)親綱 息子は片岡信広
上野国片岡氏の子孫と自称する土佐に移動した片岡氏(黒岩や一圓氏)は樹童さんの回答では近江三上祝氏の壬生氏とされています!
大和の片岡氏は大中臣氏と中臣片岡連との二重系譜で鹿島神宮の片岡氏と関係ありそうですし
多賀高忠子孫片岡氏の系譜に国春など大和片岡氏と共通の名前が幾人か出ていますのでこちらとも繋がりがありそうです!
大和の片岡の地も和邇の血の濃い敏達天皇や息長氏縁の土地で聖徳太子の娘片岡女王の名前の地でもあるようです!
孝元裔族と孝昭裔族の属性の混乱
亀の備忘録
[ tjj***** ]
2018/8/22(水) 午後 11:32
孝元裔族と孝昭裔族の属性の混乱
亀の備忘録
[ tjj***** ]
2018/8/22(水) 午後 11:00
孝元裔族と孝昭裔族の属性の混乱
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[ tjj***** ]
2018/8/20(月) 午前 7:05
宝賀さんの息長氏という本を読みかえしましたが
息長氏は少彦名命の後裔で鴨県主と同族九州で早くに別れたのが紀平群巨勢氏(巨勢と雀部ささきは同族)で河内息長氏一族から蘇我臣が出て、赤埴一族も息長同族でないかとありました!
ヤマトタケルとされる建緒組命の息子武貝児命が息長田別命と同人で特に息速別はあべ一族と通婚して同族化が進み切り離せなくなり調査が大変だったとのこと。伊賀の大友皇子の母の出自です!
また多賀氏藤堂氏甲良氏が名乗る中原真人姓一族は→息長丹生真人本体ではないかとなっていました!
一井高宮氏は息長氏とされる新庄氏や多賀氏と重婚しており藤堂氏が名乗った愛智系六角氏から男子が入っていますのでまさに息長丹生氏でもあるようで!
近江では古代から重婚が進んでいたようです!
孝元裔族と孝昭裔族の属性の混乱
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亀の備忘録
[ tjj***** ]
2018/8/18(土) 午後 5:32
息長氏は喜連の楯原神社で武甕槌命が祭神で息長氏は武甕槌命の子孫のようですし剣根の古代日本史さんのブログを読ませて頂いてますが第22話で出雲に残っていると思われる武甕槌命の子孫は武内氏のようでまず武甕槌命は息長紀氏蘇我氏葛城氏が祀るはずです
出雲伝承では物部に追われた長脛王が大和から近江に逃れ佐々木氏になり更に尾張に逃れ駿河の安倍川に移り安倍氏になりついて行った摂津三島の人が三島大社を建て焼津日本平から常陸に移り鹿島神宮を建てた?そうですが中臣氏が攻めてきて奪われたそうです。それでさらに北へ追われたそうで!
確かに東北の佐々木氏の多さや平泉の秀衡との婚姻は古代からの繋がりがあるのかもしれません。
又春日の伝承で鹽竈に最初にというのは船での移動だったのかもしれませんね?
東北の港には古代から熊鰐の爪後があり徐福の集団が来たときも船で回ったのではないでしょうか?
和邇氏は遣唐使を沢山輩出してますが佐々木氏と関係する真野氏などは新羅の王族女性の子孫と伝わり佐々木氏の外戚紀氏も韓国と行き来してましたし水軍も持ってました。阿部水軍もですよね!この近江の集団は海を渡る航海術を持っていたはず
孝元裔族と孝昭裔族の属性の混乱
亀の備忘録
tjj*****さん、ありがとうございます。
多・物部の北上を示唆し得る鹿島・香取祭祀のそれですが、常総勢力の陸奥への繁衍は、古代に限らず鎌倉武士にも顕著であったがために時に混乱させられます。
後に藤原氏の氏神と化す鹿島神は、本来多氏のそれであったものが香取神を奉斎していた後発の物部氏に包摂されていった様子も「天孫本紀」から理解されるようではあります。
穏当に考えるならば、中央政情に応じて西から東、さらに北への一方通行でそれらが流れてきたと解されるわけですが、春日大社の縁起にはまず塩竈に降りた鹿島神が常陸を経由して三笠山に遷った旨があり、また、鹽竈神社を追われた鎌田氏の家伝には塩竈に降りた龍神が京都の貴船神になったとあります。
神聖化されたなんらかの動きが多・物部の北上よりも古くに北から南、東から西へと遷っていった示唆とも勘繰れます。
おそらくは18世紀に和仁估安聡(わにこやすとし=三輪安聡)近辺によって創作されたのであろう「ホツマツタヱ」にみられる日高見国の栄光は、それらの所伝をオマージュ(?)したものではなかろうか、などと想像しております。
孝元裔族と孝昭裔族の属性の混乱
亀の備忘録
[ tjj***** ]
2018/8/17(金) 午後 10:09



