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蒙古の碑―安達泰盛供養説をとった場合の試論―
國分荘史考
蒙古の碑―安達泰盛供養説をとった場合の試論―
國分荘史考
[ aki**rek*si ]
2018/7/3(火) 午前 11:19
以前のも触れたかもしれないが、「大乗妙典」を揮毫したのは善応寺二世:天嶺である
彼は瑞巌寺105世でもあり、本山「妙心寺」を三度住持した名僧とされている。県内に散在する妙心寺系禅寺の扁額は天嶺の手に依るものが多い とも謂われる。「天嶺260年忌祭」も、瑞巌寺ではなく「善応寺」で挙行されている。今でもこの石を善応寺で安置するのであれば、現在建てている面ではなく「大乗妙典」を彫った面をおもてにして建てることこそ然るべき姿であろう。未だに読めない文字を堂々と見せ、「蒙古の碑」などと標柱まで建ててる理由は善応寺には無い!
もっとも、その様にして憚らないことには理由があるのであろう。それは他人(私)が探って露にすることが適当ではないのだろうから、天嶺揮毫と寺での安置向きの乖離を指摘して、この件の仕舞いとしたい。 安達氏の由来に就いては別項で研究を進めたい。
蒙古の碑―安達泰盛供養説をとった場合の試論―
國分荘史考
[ aki**rek*si ]
2018/7/3(火) 午前 10:54
初めの告知で私は「蒙古の碑は本当に戦没蒙古兵を弔う石碑なのか?」としておりました。戦時中の扱いもそこに繋がることではありますが、”そもそも論”に立ち返って考えてみたい。この石が上記の如く謂われ、各種地誌や市史などにも記されるようになったのは江戸期:天明三年以降・・・とされることは既述した。発見されて揮毫を彫りつけた とされたのは「大乗妙典」の文字であり、天明三年まで60年、地元民を供養した「大乗妙典の搭」であったわけです。それなのに藤塚知明の
「碑文解読」「木版出版」により、突然「蒙古戦没兵の供養碑」とされてしまった。 この二面性を背負わせたことがこの石碑を、その説明をあやふやにした。
蒙古と善応寺は表向き何の関係も見られない。単に「槙島観音は荒廃していたので
碑を運んだ先が、善応寺だった・・・」というだけの扱い・説明であったのだ。しかし、槙島観音へ移す以前は善応寺山門脇に建てられたものだったわけだから、徳王の視察に際し再び善応寺に移設したことは特に違和感は無いところである。但し、この移設の陰にいたであろう人物とその背景には見るべき事実が隠されていた。
蒙古の碑―安達泰盛供養説をとった場合の試論―
國分荘史考
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國分荘史考
[ aki**rek*si ]
2018/7/2(月) 午前 11:58
図書館で企画した「郷土を語る」で、「蒙古の碑・発見から移設まで」のお題を頂き、一頻話してきましたので「私論の背景」を書くのが遅れました。 昭和16年は、後に
「大東和戦争」と称されたアメリカ参戦の年です(12月8日、真珠湾攻撃)。そんな戦時中に、地元誌や既刊の書にて「徳王主席は、わざわざ蒙古の碑を視察にきた」などと書いているのは、そうであって欲しいと願う地元民の「我田引水」である。 新聞や郷土研究誌などを詳読すれば「蒙古:日本政府:日本軍」それに加担した「斉藤報恩会」による一連の動きが見て取れる。槙島観音からの移設についても、報恩会の小倉博が手配しているし、蒙古との繋がりが大きい瑞巌寺との交渉も
小倉が果している。「私の見立て」は、この一連の経過を仕掛け、取り仕切った人物が居て、その人は後に市博の長になっているし、日本人が多数亡くなった内蒙古
にも足を運び慰霊していた人。決定的な要因は「善応寺出身」という事実に帰す。
ここまで書けば、今野さんなら”人物特定”が可能でしょう。敢て私から名前を明らかにせず、この先にも続くであろう「検証」につなげるつもりです。以上
蒙古の碑―安達泰盛供養説をとった場合の試論―
國分荘史考
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[ aki**rek*si ]
2018/6/23(土) 午前 10:07
> 今野政明さん
昭和十三年10月が徳王の初来日。関東軍に居た板垣征四郎が日本に帰国、後に陸軍大臣になる。関東軍と交わした”蒙古独立への日本政府の協力”約束の履行を迫るべく3年後の同16年2月、二度目の来日を果した。外務省記録などによれば、同年2月20日、「仙台への休息旅行」が予定されているがキャンセルしており、都内にて日本軍施設(病院)を視察している。そして25日午後11時過ぎに仙台に向けて列車の人となっている。仙台駅に着いた一行を出迎えたのは師団長・知事・市長らであったことを翌日27日付け河北新報が伝えている。更に仙台訪問あと、翌日に盛岡に向っており「日本政府の徳王懐柔」であった事が読み取れる。
一方、”交渉難航で仙台行き”は、徳王がイライラしクサッテいたので連れて来た との記述が諸誌でみられるのを根拠としているものと思える。イヤ!これは前年からの”予定行動”である・・・・というのが私論です。次回、その背景を書きます。
蒙古の碑―安達泰盛供養説をとった場合の試論―
國分荘史考
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[ aki**rek*si ]
2018/6/22(金) 午前 7:10
ありがとうございます。
いただいたコメントを拝読し、拙ブログにおいて5年ほど前に「安達泰盛の供養」と題した記事を投稿している旨をお伝えしようかと思いましたら、実は既に一年前にお読みいただいていたようですね。当該記事にナイスをいただいていることに今気づきました。
あらためて御礼申し上げます。ありがとうございます。
ところで、拙記事「牧嶋観音堂―仙台市宮城野区―」 へのコメントにて、弘安の碑の実質上の解読―解釈―者で藤塚知明の書生たる「河成允」なる人物像を明らかに出来ないかという旨のご要望を賜りましたが、さしあたり私の手元にある資料をあたってみた限りでは今のところわかりません。
しかし、ひとつ興味深い情報がありましたので、お伝え致します。
薩摩日置郡下伊集院村の大字「苗代川(のしろこ)」には、太閤秀吉の朝鮮征伐の際に一郷まるごと帰降して薩摩のこの地に土地を与えられた高麗の老若男女がいたようで、その中には河姓も見えます。
もしかしたら、その裔孫の一人がなんらかの事情で遠く奥州塩竈にまで流れて藤塚知明の書生となっていたのかもしれませんね。



