はてノ鹽竈

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 延喜式神名帳所載の磐城郡七座の一社「大國魂(おおくにたま)神社―福島県いわき市平菅波―」は、約1300年前に石城國政庁によって祀られたものと由緒に伝わります。同社の祭神は、事代主命、大巳貴命、少彦名命、といった出雲の神々でありますが、その飛び地境内には由緒上、石城國造「建許侶(たけころ)命」の墳丘と伝わる「甲塚(かぶとづか)古墳―同市平荒田目―」があります。
 同地から国道6号常磐バイパス―通称:いわきサンシャインロード―を茨城県方面に3キロあまり進むと、こちらも磐城郡の式内七座の一社「佐麻久峯(さまくみね)神社―同市平中山―」がバイパスの右手に鎮座しております。

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佐麻久峯神社
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 同社は、慶雲元(704)年に「紀伊國名草郡―現:和歌山県和歌山市―」に鎮座する紀伊國一之宮「日前(ひのくま)神宮・國懸(くにかかす)神宮―式内名神大:旧社格官幣大社―」の分霊を勧請したとされております。
 ただ、祭神が「五十猛(いそたける・いたける)命」のため、「伊太祁曽(いたきそ)神社―式内名神大:旧社格官幣中社―」と混同しているのではないか、という旨の見解もウェブ上に散見されます。
 なるほど「日前神宮・國懸神宮」は、伊勢の内宮に奉斎されている天照大神の御魂代「八咫鏡(やたのかがみ)」に先行して造られたという「日像鏡(ひがたのかがみ)・日矛鏡(ひぼこのかがみ)」を祀る社であり、人格神としての五十猛命を祀るのは同じ和歌山市内の伊太祁曽神社の方であります。
 なにしろ伊太祁曽神社の往古の鎮座地は現在の日前・國懸神宮の場所であり、垂仁天皇の御代、日前・國懸宮の御鎮座に伴いその地を明け渡したとされております。しかもこちらも紀伊國一之宮と言われており、たしかに混同する条件はそろっていると言えます。
 しかし、出雲神族の正統な継承者と思しき斎木雲州さんの著書『出雲と大和のあけぼの(大元出版)』によれば、日前神宮を建てたのは「紀伊國造家」であり、紀伊國造家の祖が「高倉下(たかくらじ)命」で、その父こそが「五十猛命」であるようです。
 一方、日前神宮と並び称される國懸神宮は、紀伊國造家との縁戚関係が密になった「五瀬(いつせ)家」が建てたようです。名草で戦死した彼らの始祖「五瀬命―神武天皇の兄―」を日前神宮の横に後から祭ったのだというのです。
 さすれば伊太祁曽大神との混同云々以前に、ひとまず日前大神と國懸大神を切り離して考える必要があります。
 斎木さんによれば五十猛命は「天香語山命」と同一人物であり、それは『先代旧事本紀』においては物部氏の始祖「宇摩志麻治(うましまぢ)命」の兄であるわけですが、一方の五瀬命は人皇初代神武天皇の兄であります。
 各々“兄”の属性を有する両者ですが、度々触れているように、記・紀には“愚かな兄と賢い弟”の対比構図が随所にみられます。おそらくそういった編纂方針があったのでしょう。
 例えば、兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)兄弟や、兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)兄弟などは、いずれも神武に敵対しようとする兄に弟が愛想をつかします。
 侵略者を拒否する兄の態度はあたりまえの話のはずですが、そんな意固地で愚かな兄に愛想をつかした賢い弟は神武側に寝返り、兄の討伐に貢献し、その部族を守り継承していくこととなるのです。
 見かたによっては、兄をさしおいて弟が相続したことの正統性あるいは理不尽を殊更に主張しているかのようでもあります。貸した釣針を弟の山幸彦に紛失された上に、それを責めた兄の海幸彦が神罰を受けて子々孫々弟の支配下に仕え続けることになる海幸・山幸神話などは、まさにそういった編纂方針を象徴していると言えるでしょう。
 したがって日像鏡と日矛鏡の完成度が後発の八咫鏡に劣るという属性も、そのイデオロギーの延長線上にあるものと推察するわけですが、おそらく兄貴分の両者は五十猛命たる伊太祁曽大神と、五瀬命たる竈山大神の御魂代としての性格を示唆しているのではないでしょうか。
 いずれ佐麻久峯神社は、とりわけ日前宮を建てた紀伊國造家の祭祀の精神を同家の祖神五十猛命として石城國に勧請したものなのでしょう。

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伊太祁曽神社

 『いわきのお宮とお祭り』によれば、佐麻久峯神社は「応仁の乱(1467〜1477)」にまきこまれて祭事を廃し、旧記や神領をことごとく失ったようです。その際、同社の神官「中山彦次郎」の娘が、一時矢田村に家を移し、神を勧請して、そこに郷民が社を建てたのだそうです。
 ところが神霊は旧社を慕って毎夜中山の嶺に光を放つので、時の村主「植田平六」がいやがって社をとりこわしてしまったようです。
 その後、いつの時代にか旧地に復された同社ですが、天和二(1682)年三月、落雷により再び焼失したものの、翌年の天和三(1683)年八月には、平城主「内藤義康」によって再建され、現在に至っているようです。
 同社の鎮座する中山一帯は昭和五十四(1979)年頃からの団地造成により氏子区域の人口がだいぶ増えたようで、新興のこの地区にも「おひまつり」なる祭事が定着したと前述同書にあります。
 社叢は「佐麻久峯神社社叢暖地植生」としていわき市の文化財―天然記念物―に指定を受けており、紀伊國―木の國―の神五十猛命らしく木種を蒔き田畑山丘の造化を歓び尊ぶ信仰でありつつも、七年に一度は「神輿の浜降り」があり、「光を放つ神霊」なり「おひまつり」なりと、その底流に日像鏡の神らしく太陽信仰が息づいていることをも窺わせます。
 なにしろ、社殿は南東向きであり、冬至の朝日を指向したものと思われます。
 尚、前述同書によれば一時は中山舘主でもあったという先の神官中山彦次郎は、歴代神職小野氏の祖であり、『神社誌(いわき市神社総代会第三部会)』には「神職中山内記なるもの祭事を勤むとあり之れ、人皇三十代敏達帝春日皇子の支流である」とあります。
 いわゆる和邇(わに)氏の裔孫が神職を務めているということになるわけですが、同社周辺には「赤坂」という地名が散見されます。おそらく古くは一帯の大字が赤坂であって、ワニ系氏族たる中山氏の管轄する神領であったのでしょう。
 一方、ウェブページ「玄松子の記憶」によれば、石城國造の祖「神八耳(かむやいみみ)命」を佐麻久峯神社の祭神とする異説もあるようです。石城國造の祖が神八井耳命であることについては、『古事記』の明記するところです。
 なにしろ大國魂神社や甲塚古墳の存在からもわかるとおり、一帯は石城國造家の本拠地盤であり、おそらく、元々この社を建てたのも石城國造家であって、それ故にそういった異説が生じたのでしょう。
 正史上、人皇二代綏靖天皇の“兄”として名の挙がるカムヤイミミはオホ氏の祖でもあり、この系譜が三輪山の神を祀り、代々神と天皇の間をとりもつ中ツ臣、すなわち宮廷祭祀氏族であったことはこれまでも散々触れてきたことですが、先の斎木さんの説くところを鑑みれば、その本質は奈良盆地を開拓した出雲系の登美家―クシヒカタ系譜―を指すものと思われます。
 先の斎木さんによれば登美家は「磯城県主(しきのあがたぬし)」の家柄であるわけですが、その磯城県主は『新撰姓氏録』においてオホ氏と同祖です。
 斎木さんは『古事記の編集室(大元出版)』の中で、磯城王朝「オオヒビ大王―人皇九代開化天皇:いわゆる闕史八代最後の天皇――」の後継者が「ヒコイマス―日子坐王(ひこいますのみこ)―」やその子「ヒコミチウシ―四道将軍丹波比古多多須美知能宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)―」であったことを隠すためにワニの家名が創作された旨を語っておりました。
 以前私は鳥越憲三郎さんの説をもとにオホ氏を祭祀天皇であったと仮定して、次のように想像しました。

≪〜神八井耳命が弟の神淳名川尊に皇位継承権を譲る際に決定していた役割分担から私は想像するのですが、〜中略〜 軍事―政治―天皇と祭祀天皇がいて、その祭祀の部分を後にオホ氏と呼ばれた天皇が担っていたのではないか、その表裏一体でもって二元的に天皇家が成り立っていたのではないか、と想像してみるのです。私はそのような意味においてオホ氏が天皇であったのではないかと想像したいのです。その想定が許されるものであれば、オホ氏に皇妃出自の記録がないのは彼ら自身が天皇家なのだからあたりまえ、ということになります。
〜中略〜 ワニ氏は所詮“下の世話専門の卑賤の氏族”とでも考えられていたのでしょうか。いえ、ワニ氏を矮小化して考えることは出来ません。なにしろ、記紀最多の皇妃輩出氏族であることは間違いないのです。先の私の想像の延長でいくならば、もしかしたら陰に埋もれた祭祀系の天皇―オホ系天皇―はワニ腹から誕生していたのかもしれません。≫

 オホ氏が磯城県主の家柄ですなわち登美家のことであったとするならば、むしろオホ氏の腹から天皇―大王―が生まれていたということになりそうです。もちろん、同家の女性が斎木さんの語るところの三輪山の姫巫女であったという意味で祭祀天皇という考え方もあながち外れてはいなかったのかもしれませんが、ワニ家が闕史八代の天皇家そのものであったという部分については想像の上をいっており、驚くばかりです。
 ところで、何故佐麻久峯神社の周辺事情をくどくど語っているのかと言いますと、実は、この社の俗称が「木船明神」であったようだからです。大正十一(1922)年発行の『石城郡誌』によってそれがわかります。
 先の玄松子さんは、「当社の近くの貴船神社との混同なのだそうだ」としておりますが、はたしてそうなのでしょうか。これまでみてきたとおり、石城國造一族が貴船祭祀と結びつき得る気配は随所にあります。
 思うに、もしかしたら佐麻久峯神社の地には元々木舟明神が祀られていて、慶雲元(704)年の日前大神の勧請によって鎮座地を追われて“近くの貴船神社―いわき市平小泉―”になったのではないのでしょうか。
 偶然かもしれませんが、佐麻久峯神社から南東1キロ余りの場所に鎮座する同社は、佐麻久峯神社と同様、南東向きに祀られております。もしかしたら、あえて佐麻久峯神社の南東方向に遷されたのではないでしょうか。

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いわき市平小泉の貴船神社
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 ちなみに、仙台市太白区生出の太白山の頂上のそれも、同市泉区小角のそれも、同上谷刈丸田沢のそれも南東向きです。また、松島瑞巌寺の北にある「金毘羅神社」の鎮座地はおそらく『鹽松勝譜』にみえるところの「東明神・西明神」の鎮座する「上岡・下岡」の「上岡」であり、この山は通称「金毘羅山」とも呼ばれ「東明神」と呼ばれた「貴船祠」が祀られていた山と思われます。仮に現在の金毘羅神社の前身がその貴船祠であったのであれば、これも南東向きとなっております。これらははたして偶然なのでしょうか。
 貴船神社そのものの謎解きは今の私の能力を超えるのでやめておきますが、石城國造一族とのつながりのせめてもの風景を眺めておきたく、あえてもう一度京都鞍馬の総本宮に触れておきます。
 “貴布禰(きふね)総本宮”とされている京都鞍馬の「貴船(きふね)神社」の奥宮は、玉依姫の乗った黄船が辿りついた“黄船宮”の創建の地とされているわけですが、その本殿脇には石垣のように積みあげられた石の壇があり、「御船形石」と名付けられております。この壇の中には玉依姫の乗ってこられた黄船が包み隠されているといいます。何故かくも厳重に隠されたのでしょうか。もちろん、創建にかかわる神聖な御神体でもあるわけですから、人目に触れないよう厳かに秘されて然るべきではあるわけですが、どこか積石塚古墳のような印象も受けます。祭神の高龗神は別として、この社にとって事実上最も重要視されたのは、おそらくその黄船によって運ばれてきたモノ、すなわち、玉依姫になぞらえられた何某かの御魂代こそがそれであろうと思われます。やはり貴船の社名由来となった黄船の語源は、舟葬の棺を示唆する「木船」にあったのではないのでしょうか。
 『泉市誌』によれば前述の仙台市泉区上谷刈丸田沢の貴船神社には、木製の舟の模型が絵馬代わりに奉納されているようです。私は残念ながら見かけたことがありませんが、他の貴船神社にも同様の習慣が存在するのでしょうか。
 ともあれ、玉依姫を象徴し得る属性の最たるものは、人皇初代神武天皇の母たることにあると推察するわけですが、斎木さんの語るところでは神武天皇は五十猛と「穂屋媛」との間の子「天村雲」をモデルにした架空の存在であり、仮に天村雲に比定しておくならば、その母は「穂屋媛」ということになります。
 また、神武天皇をあくまで架空の存在、ワニ家と名を変えられた磯城王朝の王家の象徴的な存在と捉え、あるいは鳥越憲三郎さんの説でいうところの葛城王朝、いわゆる闕史八代の象徴としてのみ捉えるにとどめておくならば、少なくとも二代綏靖天皇から八代孝元天皇までの母は、日本書紀では事代主系、古事記では志木系、すなわち斎木さんが語るところの登美家の女性でありますので、いわゆる玉依姫の示唆するところも登美家の女性であったと考えることができそうです。
 三輪山の太陽神祭祀を司る姫巫女は登美家の女性であったとのことでしたが、仮に陸奥各地の貴船神社に石城國造一族が関わっていたとするならば、登美家の祖であるクシヒカタの母「活玉依姫(いくたまよりびめ)」こそが黄船に乗った玉依姫の象徴であったとは考えられないでしょうか。名前が似ていることもさることながら、彼女の実家「三島家」は「巨椋池(おぐらいけ)」をおさえていた有力豪族であったようです。なにしろ、貴布禰総本宮貴船神社は巨椋池を桂川に遡った鴨川の上流に鎮座しているのです。

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すっかり埋め立てられた巨椋池

 三輪山に昇る太陽の神の祭祀を司る登美家の女性を皇后としてきた磯城王朝が、十代祟神天皇ないし十一代垂仁天皇系の王朝に入れ替わり、それが伊勢神宮の創始にとどまらず、後に貴船信仰の創始にもつながったのではないかと想像するに至るわけですが、さすればおそらくは石城國造一族が陸奥國各地に朝日を指向した貴船宮を祀ったと思しきことにもつじつまが合うように私は思うのです。
 安本美典さん監修・志村裕子さん訳『先代旧事本紀[現代語訳](批評社)』は、「高(たか)の国造」の由緒地として「佐波波地祇(さわわくにつかみ)神社―茨城県北茨城市―」を挙げておりました。
 同社の祭神「天日方奇日方(あまのひかたくしひかた)命―以下クシヒカタ―」は、『先代旧事本紀―以下旧事紀―』の記述上、人皇初代「神武天皇」の皇后「鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ)」の兄であるわけで、神武の長男「神八井耳(かむやいみみ)命」の裔とされる高―多珂―國造家からみて直系の祖にはあたりません。
 とはいえ、鹿島神とされるタケミカヅチ神系譜という視点で考えるならば、なるほど彼らの始祖であったともいえそうです。
 『常陸國風土記』の記述を信じるならば、人皇十三代「成務天皇」の時代に「多珂―高―国造」に任命されたのは、出雲臣同族の「建御狭日(たけみさひ)」という人でありました。
 同風土記によれば、「多珂―高―の國」は広大で域内の往来に不便であったがために、人皇三十六代「孝徳天皇」の時代、國造家らの嘆願によって多珂郡と石城郡に分けられたようです。
 諸国の風土記は和銅六(713)年に人皇四十三代「元明天皇」の詔を承けて編纂されたものであるわけですが、その当時の石城郡が陸奥國の域内にあったことも同風土記には補記されております。
 『続日本紀』の養老二(718)年五月二日条には陸奥國の石城・標葉(しめは)・行方(なめかた)・宇太(うだ)・亘理(わたり)・常陸國の菊多の六郡を分離して石城國を設置したとあり、風土記の補記が裏付けられます。
 尚、続日本紀の同条には、白河・石背(いわしろ)・会津・安積(あさか)・信夫の五郡を分離して石背國を設置し、常陸國の多珂郡の郷二百十戸を分離して菊多郡と名付け石背國に所属させたともありますが、もしかしたら常陸から陸奥一円に及んでいたのであろう石城國造家の勢力圏が中央政権によって事実上解体縮小され、菊多郡以北―勿来(なこそ)以北―に封じ込められたということなのかもしれません。

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 ともあれ、多珂と石城が分けられた際の多珂國造は「石城直美夜部(いわきのあたいみやべ)」なる“石城”を名乗る人であったわけで、多珂國造家が「石城(いわき)一族」から分かれた家であったことを窺わせます。
 さすれば分立した石城國造家もまた、クシヒカタに対して多珂國造家同様の尊崇の念を抱いていたことが推察されます。
 『古事記』と旧事紀におけるクシヒカタは、いわゆる事代主―大物主―の子であり、さすれば『ホツマツタヱ』における六代オオモノヌシのクシミカタ―ワニヒコ―に該当し、同書の前半部を編纂した人物ともされております。
 ホツマに対する真偽の議論はともかく、少なくとも三輪山祭祀のイデオロギーにおいて核に位置づけられる存在であったことを窺い知ります。
 それもそのはず、出雲神族の正統な継承者と思しき斎木雲州さんが、同族の経営と思しき大元出版発行の著書の数々にて語るところでは、クシヒカタは三輪山を仰ぎみる奈良盆地の開拓者でありました。
 クシヒカタはのちに「磯城県主(しきのあがたぬし)」を輩出した登美家の祖、すなわち、いわゆる闕史八代の主軸たる磯城王朝の母系系譜の祖ということになります。
 斎木さんによれば、クシヒカタは奈良盆地が沼地で人の住めなかった開拓の当初、葛城地域の葛城川左岸に本拠を構え、付近に父の事代主神をまつる「鴨都波(かもつは)神社」を建立したといい、これが全国に分布する加茂社の源となったようです。
 弥生時代の出雲では神をカモと発音したらしく、クシヒカタに始まった登美家は葛城のカモ家とも呼ばれていたようで、したがって“カモ”はいわゆるトーテム―祖霊神―とは関係のない言霊であったわけですが、後に「鴨」の字があてられるようになったがために、この一族の事績が八咫烏(やたがらす)なり金鵄なりと鳥類の霊験で示唆めかせられる傾向も生じたようです。
 いずれここに、クシヒカタの裔孫と思しき石城國造家がカモ社への信仰とも無縁ではなかろうことが透かしみえてきました。
 なにしろ貴船社は近世以前には上賀茂社の摂社とされておりました。現在のような独立した社になったのは明治以降のことのようです。
 ただ、厳密には11世紀の水害で被災した際のどさくさに上賀茂社の摂社とされたようですから、現在のかたちはむしろ旧に復されたものといえます。
 仙臺藩主四代伊達綱村による鹽竈改革の真相を探る上では、時代的にひとまず上賀茂社の摂社とされていた貴船社のかたちを念頭に置くべきでしょうが、本稿の目的は、鹽竈神社に存在した貴船宮なり、太白山山頂に祀られている貴船神社が石城國造一族によるものであったのではないか、という仮説を試みるものでありますから、十一世紀以前の本来の貴船神社のかたちにこそこだわっておく必要がありそうです。
 “貴布禰(きふね)総本宮”とされている京都鞍馬の「貴船(きふね)神社」は、貴船大神―高龗(たかおかみ)神―が太古丑の年の丑の月の丑の日に貴船山の中腹鏡岩に天降ったことに始まったと伝わっております。
 有名な“丑の刻詣り”は本来この由緒に基づく心願成就の方法であり、藁人形に五寸釘を打ち込む呪詛は後世に曲解されたもののようです。
 ともあれ、少なくとも人皇四十代「天武天皇」白鳳六(666)年には既に社殿造営のあったことが社伝にみえ、また、由緒の別伝によれば、人皇十八代「反正(はんぜい)天皇」の御代に人皇初代神武天皇の皇母玉依姫命が顕れ、「吾が船の止まる処に祠を造るべし」と宜り給い、黄船に乗って淀川から鴨川をさかのぼり、その源流たる貴船川上流の現在の奥宮の地に至ったがためにそこに祠を建て水神を奉斎したのが同社の始まりであったとも伝えられているようです。
 もちろん、この“黄船”こそが“貴船”なる社名の由来とされております。
 反正天皇の御代という括りに対する勘繰りはひとまず置くとして、貴船という字面でふと頭をよぎるのは、貴人の納棺を意味する「御船入り」なる表現です。
 カシオの電子辞書EX-word所収の『ブリタニカ国際大百科事典』の「舟葬」の項には次のような解説があります。

―引用―
舟葬[しゅうそう](boat burial)
死体を小舟に乗せ川や海に流し,あるいは舟形の棺に入れて埋葬するなどの習俗。前者は水葬の一種であり,代表的な例はポリネシアにみられるが,ミクロネシアやメラネシアの一部にも分布している。台上葬においても棺を舟形にする例がインドネシアにみられ,これらはいずれも海上他界ないし海底他界の観念と結びついている。日本では棺を一般にフネ,入棺をオフネイリといい,舟葬の名残りともみられるが,これは舟で島嶼,あるいは陸行できない海岸の葬地に運んだ習俗に由来するものであろう。奄美大島宇検湾の伊里 (えざと) 離れという無人島には,かつて夜間ひそかに死者を舟で運び葬ったといわれているが,こうした例は南島に広範に分布している。

 黄船が鴨川をさかのぼったという由緒について大胆に憶測するならば、玉依姫なり、そう例えられ得る人物なりの、遺骸、あるいはそれに相当し得る御魂代のような重要な何かがこの地に遷されたことを示唆するものではないのでしょうか。
 なにしろ伊勢の内宮に奉斎されている天照大神の御魂代「八咫鏡」は、舟のかたちをした木の箱に奉安されているといいます。
 國學院大學の名誉教授であった西田長男さんなどは、『日本宗教思想史の研究』所収の「薬師の浄土」なる論稿で、「伊勢の大神宮の御正体を奉安する箱を御舟代といふのは、恐らくこの太陽神を海の彼方の常世国から迎え又は送り奉った風習のあったことを意味するものであろう」と語っているわけですが、思うに、貴船の語源たる黄船とは、棺を示唆する“木船”のことであったのではないでしょうか。
 江戸時代初期、仙臺藩主四代伊達綱村によって現在のかたちに定まる前の鹽竈神社には、一棟の左右宮の東側に「貴船宮」と「只洲(ただす)宮―下鴨社―」の祠が並んで祀られておりました。ただ、いつごろから祀られていたのかは、正確なところわかりません。
 とりあえず、遠藤允信の「鹽社叢説―『仙臺叢書』所収―」には、「祠本在利府留守氏所崇奉明應中移而配祀于鹽廟。」と、元々留守氏―当時の鹽竈神社大神主―が利府(りふ)―宮城県宮城郡利府町―で祀っていたものを、明応年間(1492〜1501)に鹽竈神社に遷した旨が記されております。
 一方、仙台市泉区小角の貴布禰神社境内に掲げられた仙台市教育委員会による説明板には、「戦国時代に留守氏が支配する利府で賀茂神社とともに祀られ、のちに伊達政宗により塩竈神社に遷された」とあります。
 留守氏によって利府に祀られていたという部分については共通しておりますが、鹽竈神社境内への遷座の時期や施主については食い違っております。
 遠藤が明応年間(1492〜1501)の留守氏によるものとしているのに対し、仙台市教育委員会は伊達政宗によるものとしております。
 政宗ということは、その時期も仙臺開府の慶長六(1601)年以降、遡っても岩出山城―宮城県玉造郡岩出山町―移封の天正十九(1591)年以降ということになりそうですが、「鹽社叢説」の説とは100年ほどの時差があります。

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仙台市泉区小角の貴布禰神社
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 また、留守氏支配下の鹽竈神職の中でもっとも勢力を占め、左右一禰宜の上位に座していたらしき鎌田家の「鎌田家覚書―古川左京『鹽竈神社史(國幣中社志波彦神社鹽竈神社社務所)』所収―」には、「〜只洲社も、元來其身屋敷之内ニ有之候を、當社貴船御垣之内ニ移申候へ而一所ニ建立仕、其守奉仕、御鍵持ニて奉仕來候由、是當社家之密傳ニて、貴船只洲同ク地主之神爲候由申傳候。〜」とあります。
 なにやら留守氏でも伊達氏でもなく、神主家とも呼ばれた鎌田家の屋敷神たる只洲宮を鹽竈神社境内の貴船宮の御垣の内側に移したということのようですが、さすれば時期的には「鹽社叢説」に伝うところの明応年間に近いといえます。
 ただ、それはあくまで只洲宮のはなしであって、貴船宮はそれ以前から左右宮と並んで鎮座していたことが窺えます。
 なにしろ鎌田氏は、この貴船・只洲を塩竈の地主神とみていたようで、以前触れたとおり、山城の貴船神社―京都鞍馬の貴布禰総本宮―すらも、むしろ塩竈から勧請されたもの、と秘伝しております。
 このあたり、法蓮寺―鹽竈神社別当寺―の住持の著述と思しき「鹽社由来追考―前述『鹽竈神社史』所収―」は、「只洲ハ、慶長年中鎌田藏人ト云者、私ニ貴船ト同格二建ト謂ヘリ。蓋山城ノ貴船ト云説ニ泥ミテ只洲ヲ建ルト見エタリ。爾レハ右兩社共ニ誤リ傳來ル者也」と否定しております。
 『塩竈市史』所収の論考「塩竈神社史」の大塚徳郎さんは、「〜貴船・只洲の二社が江戸時代の初期に左右宮の一棟と並んで別々に存在したことも、この地主神が水の神であって、水の神として全國的に崇敬されていた貴船神と考えられ、京都における貴船神社が只洲神社の攝社としての關係をもつていることから、併せ祭られたのであろう」、「この家―鎌田家―の實力が、只洲社を鹽竈神社内に貴船と並んでおかしめることになつたのであろう」と推察しております。
 以前私は、貴船・只洲とも鎌田家の屋敷神であったものと捉えておりましたが、当の鎌田氏が自らの屋敷神たる只洲宮を鹽竈神社境内の貴船宮の御垣之内に移したと語っていたわけですから、もしかしたら貴船宮の祭祀とはなんら関係がなかったのかもしれません。
 だとしたならば、貴船宮は誰が祀っていたのでしょうか。本当に鹽竈の地主神であったのでしょうか。
 地主神云々の議論はともかく、結論からいえば、貴船宮を祀っていたのは男鹿島太夫鈴木家であったものと思われます。
 男鹿島太夫鈴木家は、御釜太夫鈴木家―御釜神社の釜守の家―の同族で、後の別宮一禰宜の一族です。
 なにしろ男鹿島太夫は、「志賀家社列書上並留書」の貞享四(1688)年「御宮會所座席」に「貴船一禰宜」と位置付けられております。これが寶永元(1704)年改正の「御宮會所座席」には「別宮一禰宜」に改められており、綱村の改革によって消滅した貴船宮は別宮として生まれ変わったものと推察されます。
 男鹿島家の史料上の初見は、明應六(1497)年の鐘銘でありますので、その頃には既に貴船宮が祀られていたのかもしれません。
 御釜太夫家なり男鹿島太夫家なり、鹽竈神社の祭祀に深く関わることとなった鈴木家について、『一森山叢書第二編』所載の「古代中世の鹽竈神社」の執筆者である豊田武さんは「紀州藤白湊にある熊野王子の神職鈴木一族を中心とする鈴木党に由来する」としたうえで、鹽竈社に鈴木姓の神職がはいりこんだのは、源頼朝の社殿経営と関係があるかも知れない、と推察しております。
 たしかに頼朝の社殿経営を機に鹽竈神社と関わったのかもしれませんが、その素性としては、私はむしろ奥州藤原氏と深く関わっていた名取の熊野別当の裔、あるいは名取の佐藤荘司の裔ではなかったか、とみております。
 奥州藤原氏滅亡の折、彼らが鎌倉軍に投降して赦免された旨は『吾妻鏡』にも記されております。
 名取熊野は、頼朝に滅ぼされた平泉王国の残り形見のごとき存在でありますが、これこそが主家の滅亡によって奥州一円に広がったのではないか、と私は考えております。
 何故そう考えるのかというと、陸奥國分荘玉手崎―仙台市青葉区小松島周辺―の「小萩伝説」が平泉王国滅亡の恨み節に思えるからです。
 小萩伝説にはいくつかの流れがありますが、その類型のひとつに、和泉三郎忠衡の娘萩姫が巡礼のさなか常陸と石城の境で山賊の襲撃にあい小舟で沖に流されたものの、観音菩薩の加護により閖上濱に漂着したというものがあります。なにやら名取熊野那智本尊に関わる閖上(ゆりあげ)観音の漂着譚を示唆めかせておりますが、それらを流布していたのは、当地に落ち延びて尼寺を営んでいた平泉系の貴女たち、また、旧荒巻邑の総鎮守たる熊野神社―仙台市青葉区通町―の巫女たちであったものと思われます。
 高貴な姫が船で漂着するという譚は、心なしか、玉依姫の乗る黄舟(きふね)が流れ着いたところに祠を建て水神を奉斎したことに始まったとされる京都鞍馬の貴船神社の由緒に通ずるものがありそうですが、それはひとまず置くとして、旧荒巻邑総鎮守の熊野神社は、土御門天皇(1198〜1210)の勅宣によって創建されたと伝わるものであり、後の仙臺城普請にともない境内地に換地された「玄光庵」の鎮守でもありました。
 創建時期こそ頼朝進出による熊野信仰伝播の時期とも合致しますが、別当寺の玄光庵が藤原秀衡創建と伝わる龍泉院から分かれたものであることを鑑みるならば、やはり名取熊野の流れをくむものであった可能性が高いと考えます。
 なにしろ本場紀州の熊野別当系譜を事実上確立させた十代「泰敬―泰救?―」の母は、陸奥の女性であったとされております―「熊野別当代々記」―。
 思うに、その母の実家が奥州藤原氏の保護の下に名取の熊野別当家になったのではないでしょうか。
 『名字大辞典(ユーキャン)』は、「鈴木一族は熊野信仰とともに広がった。また、鈴木一族は一人の人物を祖とする名字ではなく、熊野信仰を広めた人々に共通する名乗りだったと考えられる」と記しております。
 さすれば名取熊野別当家も、本姓はともあれ鈴木を称していたものと考えられますが、鹽竈神社の貴船一禰宜男鹿島太夫鈴木家や御釜太夫鈴木家もこの流れであったのではないのでしょうか。
 先に、太白山山頂の貴船神社を祀ったのは、当地一帯の山守鈴木家の先祖ではなかったか、と推測しておきました。このエリアは地勢的に名取熊野の地盤であり、この鈴木家もおそらくはその一族であったものと推測しております。
 吉田東吾は、『大日本地名辞書(冨山房)』において『和名類聚抄』にいう名取郡の「磐城(いわき)郷」をこの地域とみて、「○今、生出村、秋保村、などにあたるごとし、井上郷の西北にして、名取川の山峡の中なり。磐城とは、石城國石城郷よりの移住などに因れるにや、又は、所在産出の埋木を、石木といへるに起れるにや、いかにとも定め難し」と記しておりますが、仮に石城國石城郷よりの移住云々の説を採るならば、先の萩姫閖上濱漂着譚の舞台として常陸や石城の地名が出てくることともなんらかの関わりを窺えそうです。
 磐城郷は宮城郡や桃生郡にもみられ、邨岡良弼(むらおかりょうすけ)は宮城郡の磐城郷に塩竈周辺をあてており―『日本地理志料』―、留意しておきたいところです。
 度々論じているように、茨城県北部から宮城県南部の太平洋岸に沿って展開する“タカ”なる言霊には、高舘なり多賀城の地名との因果も窺われますが、『常陸國風土記』の「多珂(たか)の郡」の語るところからみて、おそらくは本来石城國造家の屋号的な意味があったものと私は推察しております。
 なにしろ、名取熊野発祥の発火点となった高舘那智社および羽黒神社は、遡れば閖上(ゆりあげ)湊周辺の地主神を起源としていた可能性が高く、おそらく名取熊野別当家は本来その地主神を祀る一族であって、石城國造家の祖ともなんらかの密接な関わりがあったものと考えます。
 仮に、石城國造家の同族が太白山山頂に貴船神を祀り、鹽竈神社における貴船一禰宜を輩出した氏族でもあったとしたならば、彼らは貴船神とどのような関わりがあったのでしょう・・・。

太白山の貴船神社

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 「太白山(たいはくさん)」がある「生出(おいで)地域―仙台市太白区―」は、昭和三十一(1956)年に仙台市に編入合併されるまでは、「生出(おいで)村」なる単独の「村」でありました。その地域の輪郭があたかも旧秋保町においでおいでと手招きしているように見えていたので、地図ばかり眺めていた少年時代の私の頭にはすんなり地名が入ってきておりました。
 オイデなる村名は、太白山の旧称オドガモリにあてられた漢字表記「生出森」に由来するわけですが、古いアイヌ語であろう「オド」には「とんがっている」という意味があると聞いたことがあります。
 「刀」や「乳房」、はたまた「神」の意味とも言われておりますが、ひとまずは“とんがっている”という語源があって、そこから各々転じていったものなのでしょう。
 宮城県北や岩手県南ではよく似た形の山をみかけますが、結構な確率で山名にオド―ヲド―なりウトなりがみられます。今、手元の地図を眺めてみただけでも、宮城県栗原市の花山ダムの北に「大土ヶ森」、南に「大土森」、岩手県一関市から猊鼻渓に抜ける県道付近に「烏兎ヶ森」、同東磐井郡の川崎付近に「烏兎山」、同郡千厩(せんまや)と室根の境には「大登山」の表記がみえました。おそらくはおしなべて里から三角に見える山々なのでしょう。
 また、栗原市栗駒には「雄鋭(おどの)神社」、同築館には「表刀(うえと)神社」なる神社があるのですが、特に後者について、『宮城県神社名鑑』は「表は袁の誤でヲトと訓むべきである」と注釈を付しております。それらの発音に対して「鋭」や「刀」の字があてられていることは留意すべきでしょう。

 先日、十数年ぶりに太白山を登ってみました。
 たかだか321メートルの山とはいえ、前回も結構苦労して登ったという記憶があり、だいぶ体力の衰えた今の私にはたして登りきれるものだろうか、という不安もありましたが、このたび梅雨の晴れ間を狙って挑戦してみたのでした。

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 快適に歩ける太白山一帯の遊歩道は、地主らで組織する「太白山ふれあいの森協力会」の厚意によって管理されているようですが、生出森八幡神社の石鳥居をくぐると登山道らしい雰囲気に変り、参道両脇の狛犬に迎えられながら進むと、社殿わきあたりから存在感のある巨岩が目立ちはじめます。

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 「貴船神社(山頂)へ所要時間20分」と記された案内板をすぎると、急に傾斜がきつくなり、玄武岩に近い安山岩だという柱状節理の黒いゴツゴツとした岩肌には鉄鎖が張られ、それを手繰りながら這いつくばるように登っていくと、所要時間を10分ほどオーバーして山頂の貴船神社の鳥居が目に映りました。

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 無理をせず休み休みではあったものの、途中から木々の間に覗き始めた下界の風景を楽しみつつ、なんとか今の私でも頂上に至ることが出来ました。

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山頂の貴船神社

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高さが太白山に合わせてあると聞く超高層マンション・・・

 さて、あえて久しぶりにこの山を登ってみたのは、「太白山の山頂に貴船神社を祀ったのは何者であったか」に興味を抱いた勢いでありました。
 ことさらに興味を抱いた理由は、『仙台市史:特別編9:地域誌』に記載されていた以下の二つの情報が私の頭の中で化学反応したことにあります。

 すなわち、『和名類聚抄』にいう名取郡の「磐城(いわき)郷」は、太白山のある生出地区のことではないか、という説があること――。

 そして、仙臺城の背後の御裏林と一体の太白山や佐保山の藩有林の山守は代々鈴木家であったこと――。

 「佐保山(さぼやま)」の地名についても思うところはあるものの、ひとまず通過しておきます。
 山守の鈴木家は、その姓からみて熊野信仰の家柄であった可能性が高いわけですが、この地域は名取川の対岸を本拠に勢力を強めていた名取熊野の地盤でもありました。
 名取熊野は鎌倉幕府に保護されたとはいえ、その本質は奥州藤原氏の残り形見的な存在とでもいうべきものであり、さすれば山守鈴木家は名取熊野別当の末裔であったのではないか、と私は睨んだのです。
 名取熊野発祥の発火点となった高舘那智社および羽黒神社は、遡れば閖上(ゆりあげ)湊周辺の地主神を起源としていた可能性が高いわけですが、以前、それは高舘山古墳の被葬者と密接に関わりがあったのではないか、と推測しておきました。
 その被葬者について、私は「多珂(たか)國造家」の本家筋と思しき「石城國造家」を輩出することとなる系譜の人物を想定しているわけですが、もし生出地域が名取郡における磐城郷であったというならば符合し得ます。
 仮に、太白山山頂の貴船神社がその一族に祀られたものであるとしたならば、もう一段ギアを挙げた推測に発展する足掛かりとなってきます。
 何故なら、『鹽竈神社史』所収の「鹽社由来考」に、「御釜ノ神ハ貴船ノ由ニテ、貴船ノ一禰宜男鹿島太夫(鈴木因幡守當時十五位下也)竝同宮ノ神子、先祖ヨリ代々、毎年七月六日御釜替ノ神事勤之」という記述があり、“鈴木姓”の鹽竈神社別宮一禰宜男鹿島太夫が、伊達綱村の改革によって消失した「木舟宮」の一禰宜であったものと考えられるからです。

太白山の風景

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 梅雨ということもあってか、仙台市太白区の「太白山(たいはくさん)」がしばしば下界の靄(もや)の上に浮かんでいるような風景を目にします。

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 仙台市民にもっとも馴染みの深い山は?と尋ねたら、おそらくは泉区の泉ヶ岳とこの太白山が双璧をなすことでしょう。
 城下町から発展した仙台の都心は、太平洋に臨む宮城野原方面以外は三方が100m級の丘陵地に囲まれていることもあり、大半の住宅地には坂道が多くなっております。しかしその分、その両峰は市内のどこからでも望める印象があります。
 両峰とは言ったものの、標高1200mほどの泉ヶ岳に対し、太白山は320.61mと里山の親分みたいなこじんまりとした山です。付近の小学校に通っていた方は、標高を「3(さん)・2(にー)・1(いち)」と覚えさせられたと語っており、周辺住民の太白山に対する親近感が窺われます。
 標高といえば、30年ほど前に太白山西麓の丘陵地に造成された茂庭台団地には高さ100mを超える33階建ての超高層マンションが一棟そびえ立っておりますが、最上階は太白山の頂上に合わせて建てられたと聞いたこともあります。しかし何故か私には太白山の方が高いように見えるのです。太白山が手前となる南東方面から見ている分にはあたりまえだと思うのですが、秋保方面から都心方面に戻ってくる道中、すなわちマンションが手前になるはずの南西方面から見てもそう見えてしまうのは目の錯覚なのでしょうか・・・。

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 富士山を縮小したような円錐状の独立峰たる太白山は、遠望すると綺麗な正三角形に見える山容だけに、それを富士山だと思っていた幼馴染、はたまたピラミッドと信じていた幼馴染もおりました。単に可愛らしい子供の戯言とばかり思っておりましたが、ウェブを眺めていると、わりと大真面目にピラミッド説を語っているページもあり、驚きました。
 ちなみに、このような円錐状の山には時折UFO目撃談なども聞こえてきます。太白山については特に耳にしたこともありませんが、それらはあながちオカルト趣向者の妄想だけでもなさそうで、20年ほど前、たしかテレビ朝日系の「特命リサーチ(?)」なる番組でその真相を科学していた記憶があります。
 それによると、なんらかの鉱物を含む地質の円錐状の山は、条件がそろうと磁気によって山頂上に発光現象を生じることがあるのだとか・・・。土葬の墓地でみられる人魂(ひとだま)みたいなものでしょうか・・・。
 いずれ、ピラミッドやUFOはともかく、太白山は古くから信仰の山でありました。
 かつてよく耳にした伝説に、閖上(ゆりあげ)の漁師が太白星―金星―の落ちる山「太白山」を目安に舟の位置を確認していた云々というものがありました。
 したがって私は、閖上の漁師には太白信仰、すなわち道教の影響も少なからずあったのではないか、と考えたりもしておりましたが、あらためて『仙台市史 特別編9地域誌』に目を通しておりますと、幾つかの話が混ざっていたことに気付きます。
 すなわち、「金星が落ちて出来た山」という伝説と、「太白山を基点に漁場を確認し合っていた」という話、「仙台湾を横切る千石船が太白山をみて船の位置を確認していた」という話が一緒くたになっていたようです。
 後者二者は、金星云々はあまり関係がなく、単に三角のお山を目印にしていたというだけで、その山がたまたま太白山という名であっただけのようです。
 また、厳密に言えば太白山という山名も明治以降のもののようで、江戸時代までは、おそらくはアイヌ語に由来するのであろうウトガ森なりオドガ森と呼ばれていたようです。この訓に対し「烏兎峰」という漢字表記がなされていることから、前述市史は「烏(からす)」を「太陽」、「兎(うさぎ)」を「月」になぞらえる故事に照らして、太白山が季節を知る上での天のめぐりの目安になっていた旨を推察しておりました。
 なるほど、閖上の漁師に浸透していたであろう羽黒信仰の日月祭祀の側面とも符合するものであるように私には思えます―拙記事「高舘山古墳の被葬者についての一考察」参照―。
 先に触れたとおり、それは奥州藤原氏の平泉政権によって名取高舘の独特な熊野信仰に包摂されていったものとみられるわけですが、平泉政権の滅亡後は源頼朝の鎌倉政権に継承されていきました。
 現在太白山には、中腹に「生出森(おいでもり)八幡神社」、山頂に「貴船神社」が祀られておりますが、生出森八幡神社は鎌倉政権が「鶴岡八幡宮」より勧請したものと伝わっております。

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生出森八幡神社
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 この生出森八幡神社には、かつて太白山周辺の旧茂庭村に祀られていた神社、すなわち、源頼朝を祀った白旗神社、熊野十二社権現社、雲南神社、武内権現社、道祖神社等が、明治の時代に合祀されて今日に至っているとのことですが、個人的にはその際に山頂の「貴船神社」が合祀を免れたことが気になっております。
 同社は大同二(807)年に京都から勧請されたと伝わっており、鎌倉時代に勧請されたのであろう生出森八幡神社よりも古いということになります。それを祀ったのは何者であったのでしょうか。

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