はてノ鹽竈

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 少しおさらいをしておきます。
 同じ東鹽氏の傳を引用しているはずの舟山萬年の『鹽松勝譜』と遠藤信道の『鹽竈神社考』でありましたが、共通の時事に触れた唯一のくだり、すなわち明応年間(1492〜1500)の留守氏による鹽竈神社の社殿造営の顛末に関して、両者はまるで正反対の結末を記しておりました。
 舟山は鹽竈社のみが造営されたとし、その傍らには他へ遷された貴船・只洲の小祠が配祀され、多賀社は鹽竈社に合祀されて廃滅した旨を記しておりました。
 つまり、目に見える構成としては、新しい一拝殿一本殿の鹽竈大神の社殿の脇に、貴船と只洲の祠が並ぶかたち、すなわち、貞享三(1686)年頃に描かれた「塩竈大明神絵図」のかたちに近いものであったということになるのでしょうか。
 それに対して遠藤は、先に多賀社の仮宮が造営された後、牡鹿島の地に祀られていた留守家の守護神たる木舟・只洲の新宮を一森山に造営し、木舟宮―貴船宮―に鹽竈神も合祀された旨を記しておりました。
 したがって目に見える構成としては、鹽竈神を合祀した新しい木舟と只洲、そして多賀の仮宮が境内に並んでいたということになるのでしょうか。
 仮に木舟宮の規模が只洲の宮や多賀の仮宮よりも一回り大きく、多賀二宮が一棟であったのならば、もしかしたら、見た目だけは舟山の説くところと同じなのかもしれません。
 しかし、舟山の説くところと遠藤の説くところとでは、特に鹽竈神と貴船の主客が逆転しているわけで、祭祀のかたちとしてははっきり異なります。
 何故こうも異なる話になってしまうのでしょうか。
 思うに、おそらくは鹽竈神に対する考え方の違いがそのまま東鹽氏の傳への解釈の齟齬につながっているのでしょう。
 東鹽氏の傳は、遠藤にとっては絶対的な経典の如きですが、舟山にとっては『封内風土記』などと同列に参考資料のひとつにすぎない印象があります。
 なにしろ舟山は、東鹽氏の傳なり『封内風土記』の記述をひきながらも、基本的には佐久間洞巌の説をとっているものと思われます。
 具体的には、「鹽竈神廟」の項に「而ルニ世遠ク時邈トシテ傳フル所ノ神號。其説紛々一定シ難シ。且神祠ハ本山下神釜ノ處ニアリシカ」と、「神竈祠」の項にも「蓋シ古昔ハ神廟此地ニアリ神釜ヲ以テ神ノ體トナスト」と所見めいたことを記しており、鹽竈神を御釜神のこととみていたフシがあるのです。
 そして、もしかしたら舟山は貴船社を鹽竈神の同体異称とみていたのかもしれません。
 何故なら、江戸時代には貴船=別宮=御釜神という概念が比較的根強く浸透していたフシがあるからです。
 御釜神は、竈守の家である鈴木氏の奉祀するものでありますが、後の別宮一禰宜男鹿島太夫はその同族とみられます。
 『鹽竈神社史』所収の「貞享四年御宮會所席:志賀家社列書上並留書」には、その男鹿島氏が「貴船一禰宜」に位置づけられており、別宮の創設にともない消滅した貴船宮と混同され得る要素を十分に孕んでおります。
 それはすなわち一森山に只洲宮を持ち込んだとされる鎌田氏の家伝とも共通します。鎌田氏は、貴船を塩竈浦に降りた龍神で塩竈の地主神としておりました―拙記事:「鎌田氏の衝撃的な秘伝」参照―。
 であれば、遠藤がそれを踏襲し得るわけがないのです。
 何故なら遠藤は、鎌田氏の妬みによって國別鹽竈大神の神裔たる東鹽家が貶められたと嘆いているからです。
 遠藤は、別宮が建立されることとなった四代藩主伊達綱村プロデュースの元禄の造営―完成は五代吉村襲封後の宝永元(1704)年―のくだりで次のように語っております。

―引用:『鹽竈神社考』―
〜木舟只洲の兩宮をば外へ遷し奉り。別宮には國別鹽土大神を鎮め奉り。左右兩宮には。建甕槌・経津主二大神を鎮奉りしとぞ。【此時別宮に鎮め奉りし。大神は必國別鹽土翁神・妹國別日東吾妻神を合わせて。二柱の大神にますへきを。其傳詳ならぬはいと朽惜しきことにそありける。もし妹神を合わせて二柱にませしを。たゝ鹽土大神一柱をのみ。祭りし來し事になりたらんものならましかは。云巻も齋々しく。最も畏き事にこそ。只洲宮は今當郡國分古内村にありて。社傳には元禄九年迂坐とあり。此は此年當社より遷し奉りしものにや。或は寛永年間假に外へ迂し置奉りて。此年今の地に新宮造奉りて迂し奉りし者にや。詳ならねとも。當社より遷し奉りしことは疑ひなし。木舟宮の事は殊に詳ならず。當郡市川村に此宮の小祠ありて當社より遷し奉りし由云者あれとも覺束なし。】

 ここで、私が注目しているのは、次の二点です。

1、別宮の創設にともない、只洲とともに一森山の外へ追いやられたはずの木舟のその後が詳らかではないこと ※注

2、別宮には、國別鹽土翁神と、その妹の國別日東吾妻神の二柱が祀られるべき、と遠藤が口惜しがっていること

 まず1についてですが、おそらくはこれ故に木舟が別宮に合わせ祀られたという憶測を招き、両者が混同される要因となったのでしょう。
 いえ、憶測などと切り捨ててはいけないかもしれません。
 なにしろ、共に一森山を追われた只洲が、只洲一禰宜只洲太夫たる鎌田氏ともども古内村に移ったことが明確であるのに対し、木舟のそれは今一つ詳らかならぬままに貴船一禰宜の男鹿島太夫鈴木氏は別宮一禰宜に転じて社家として残っているのです。
 別当法蓮寺の住持の著述であろう「鹽社由来追考」には、「元禄年中、只洲宮ハ下鴨ニ、貴船宮ハ上賀茂ニ勧請シテ、古内村ニ遷座シ給フ」とある一方、「御釜ノ神ハ貴船ノ由ニテ、貴船ノ一禰宜男鹿島太夫(鈴木因幡守當時従五位下也)竝同宮の神子、先祖ヨリ代々、毎年七月六日御釜替ノ神事勤之。貴船ノ神子ヲ先達神子ト名ツケ〜」ともあります。
 さも只洲宮とともに古内村に遷されたかにも見えますが、当の旧古内村の賀茂神社の境内案内には、上賀茂社の祭神は別雷命とのみあり、いわゆる貴船の水神とされる「高龗(たかおかみ)神」はもちろん、『鹽松勝譜』の「貴船神祠」項に記されたところの「天神立神命」なり「天船主命」といった件の貴船の要素は見受けられません。
 思うに、もしかしたら鹽竈の木舟宮は社家内部の水面下で暗黙に鹽竈大神そのものと見られていて、それ故に明文化を憚られながら秘密裏に別宮として生まれ変わったのではないでしょうか。
 遠藤の文中、木舟の遷座先と俗伝された市川村の小祠とは多賀城政庁の西に隣接するそれのことでしょうが、少なくとも10年前には、現地の説明板に次のようにありました。

―引用:現地説明板(多賀城市教育委員会)―
 今からおよそ三百八十年前、慶長十二年(一六〇七)年藩祖伊達政宗公により奥州一の宮塩釜神社の社殿造築が成され、この時、塩釜神社が御釜神社の所から現在の境内に遷宮されたのに伴い、貴船、糺二神がここに配祠されたのである。
 その後、江戸時代の元禄年間に四代伊達綱村公による塩釜神社改修がなされた。このため糾神社は仙台城北の古内邑(泉市八乙女)に、貴船神社は市川村の現在地に遷宮されたのである。
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 なにやら、『鹽松勝譜』なり佐久間洞巌らの御釜神社鹽竈神起源説を前提に書かれているわけですが、先日、確認のために現地を訪れてみたところ、既にこの説明板は撤去されておりました。
 代わりに、新たな説明板が設置されておりましたが、そこには件の内容がみられませんでした。なんらかの事情で多賀城市教育委員会が思い直したのでしょうが、その理由を知りたいところです。

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 さて、引き続き、2について語ります。
 遠藤が、國別鹽土翁神とその妹の國別日東吾妻神の二柱が祀られるべき旨を力説するところのこの國別大神二神ですが、思うに「國別(くにわけ)」とは、「國分(こくぶん)」の示唆ではないのでしょうか。
 東鹽氏なる社家は、『留守分限帳』の記す「宮さと(宮うと?)の人数」、すなわち天文年間頃の鹽竈神社の社人名簿にはみられませんし、それ以降の伊達家の記録においても見受けられません。
 遠藤の説くところを信ずるならば、東鹽氏は留守氏や鎌田氏との折り合いが悪く、貶められて零落していったようなので、それ故に天文の頃には既に社人の列からは省かれていた可能性もありますが、山下三次がその存在を疑う所以でもあります。
 何某かの社人が、名を変えて憚られる内容を後世に残したことも考えられますが、國別大神の神裔という属性からすると、もしかしたら鹽竈神社に対してなんらかの思惑を抱いていた陸奥國分氏プロデュースの裏コンテンツだったのではなかろうか、などとも想像するのです。
 ただ、舟山の『鹽松勝譜』にはその存在はみられず、したがって、「國別大神」が本当に東鹽氏の傳に登場していたのかどうかもわかりませんが、その正否に関わらず、私が注目したのは、「妹・國別日東吾妻神」と頭にいちいち特記されている「妹」という属性です。
 何故「妹」なのでしょう。
 もしかしたらこれは、長髄彦―登美毘古―の妹「鳥見屋媛(とみやびめ)―登美夜毘賣―」の示唆であり、すなわち、少なくとも遠藤信道が経典のごとく信奉した「東鹽家秘録」なるものを記した者は、鹽竈大神たる國別鹽土翁神が長髄彦であることを遠回しに表現していたのではないのでしょうか。

※注:仙台市泉区小角の貴船神社が鹽竈神社から遷ったそれであるという説も、『泉市誌』や近隣同区実沢の熊野神社HP記載の由緒にみられるが、真偽は不明。同社の棟札には安永六(1777)年とあり、同区加茂に遷された只洲―賀茂神社―の棟札が80年前の元禄九(1696)年と同十(1697)年であることを鑑みるならば、私は後世の何者かが貴船社の遷座先が不詳なことを嘆き祀ったものとみる。神殿の紋章が留守家のそれである―泉市誌―ことからすれば、由緒も含めたプロデューサーは留守氏であろうか。
 『鹽松勝譜』所載の『東鹽氏傳』の逸文らしきくだりを前後の文脈も含めて眺めてみます。

―意訳―
 延喜式神名帳に載る宮城郡四座の一となる多賀神社は、武甕槌命・経津主命の二神を祀り、すなわち今の鹽竈神社左右宮がこれにあたる。
 往古武甕槌命は浮島にあり、故に浮島明神と呼ばれてきた。
 一方の経津主命は多賀崎にあり、高崎明神と呼ばれてきた。わずか百余歩しか離れていない両社の鎮座地は、往古多賀城の砦の内であったが、多賀城が廃された後、城域は市川・浮島・多賀崎の数村に分けられ、多賀崎は高崎とも表記された。故に経津主命は土人から高崎明神と呼ばれたのである。
 鹽竈神社の縁起によれば、今の鹽竈神社は多賀國府にあったという。
 すなわち、武甕槌・経津主・鹽竈神の三柱が多賀國府内に天降ったが故に多賀神社と號されたというのである。『封内名蹟志』は、多賀神社は今の鹽竈一之宮のことであり、郷説にいうところの浮島明神のことであるという。※舟山萬年自身は佐久間洞嚴の説をとり、政宗時代以前の鹽竃神社は御釜社のところにあったのだろうとみている。
 旧祠官の東鹽氏の傳によれば、明応中(1492〜1500)、鹽竈神社、及び多賀両社は、共に損壊していた社殿の建て替えを領主である留守氏に申請した。
 しかし留守氏は特に鹽竈神社を営み、浮島・多賀崎の両社を遷して鹽竈神社に合祀した。又、貴船祠を利府に、只洲祠を加瀬に移し、小祠を鹽竃社の側らに配祀した。それ故か六社の称もある。いずれ、これによって式内多賀神社は永廃することとなった。現存する祠は、各々の跡地に村人が祠を建てて祀っているものである。然るに、現在の多賀神社はその旧称を継承したもので、多賀崎のそれは更に神明祠とも称している。
〜中略〜
 『東鹽氏傳記』所載の「多賀神社古祭礼」によれば、例年三月二十六日には宮城一郡の士が多賀城に一同に会し、翌二十七日には会するところの士を二軍に分けて、片方を神軍、もう片方を賊軍に見立て、各々に将帥を立て、神軍は武甕槌命・経津主命・岐神の三神輿と、神庫に秘蔵された神代より伝わる天盤砂劔・十束知劔・八束利劔の三神劔を奉じて賊軍に向かう。両軍兵刃交わらば、賊軍甲冑を捨て、兵を率いて遁走し、舟に乗る。神軍これを追って塩竈に至り、舟で宰相島に至る。宰相島に上陸した神軍は、大きな鬨(とき)の声を三呼し、凱旋する。これが多賀神社の例祭であり、少なくとも奥州藤原氏の時代まではこれを行っていた。三代秀衡の子、和泉三郎忠衡等がこれを奉行していた事が古記にみえる。
 すなわちこれは、太古二神―武甕槌・経津主か?―の夷賊征討に因むものである。
 しかし、留守氏の時代に至ってこの例祭は全廃された。

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浮嶋神社


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高崎多賀神社

 以上が、ひととおり目を通してみた限りでの『鹽松勝譜』における東鹽氏の傳の全容、及びプラスαです。
 後半の多賀神社の神事は、他の史料にも先の遠藤信道の『鹽竈神社考』においても全く語られていないものであり、貴重です。奥州藤原時代までこの神事が執り行われていたという情報にはなにかしら示唆めいたものを感じますが、それはまた後に触れたいと思います。
 いずれ、多賀神社にまつわる顛末が先の遠藤信道のそれと大いに食い違っていることは気になります。
 遠藤は、留守氏による明応年間の造営の際、木舟只洲の二宮と多賀の仮宮のみが建てられて、國別大神、すなわち鹽竈大神の宮の建て替えについては、留守家重臣鎌田何某の妬みによって頓挫した旨を説いておりました。
 しかし、この舟山萬年の『鹽松勝譜』では、むしろ鹽竈社のみが留守氏に顧みられ、鹽竈社に合祀されたとされる式内多賀社はここに永廢した旨が語られているのです。
 引用元は同じのはずですが、全く正反対の話になっているのです。これは如何に解すべきでしょうか。
 仮になんらかの隠蔽された事実があるとするならば、遠藤なり舟山なりが、それを掘り起こして正確に伝えていく方向に向き得るものか、あるいはその曖昧さを利用して鹽竈神社に益する方向に向き得るものかを見極めることは重要です。
 とはいえ、その判断は極めて難しいものがあります。
 しかし少なくとも、鹽竈神社の所伝の継承に関して、その当事者たる遠藤信道が、第三者の舟山萬年に比べて主観的であったことは疑う余地もないでしょう。
 逆にいえば、仮に真実が捻じ曲げられていようとも、別当法蓮寺や仙臺藩から睨まれるリスクを背負ってまでその是正を訴える必然性など、少なくとも舟山萬年にはなかっただろうということでもあります。
 それらの可能性を鑑み、かつ東鹽家の古文書の実在を前提としたうえで考えるならば、舟山が淡々と記しているような多賀神社に関する廃滅譚を、遠藤がなんらかの思惑があって國別大神なり東鹽家のそれにすり替えたものかもしれません。
 あるいは、遠藤の説くところこそが社家に内々に伝わる本来の秘伝であり、東鹽家の古文書にはそれが反映されていなかっただけなのかもしれません。
 そして、舟山はそれを原典としてそのまま引用したに過ぎなかっただけなのかもしれません。
 江戸時代の舟山萬年、明治期の遠藤信道といった時代を超えた両者によって引用された東鹽氏の傳の内容を、最大公約数的に推定するならば、塩竃の地における鹽竈神社の“かたち”が、明応年間の留守氏による当地への式内多賀神社の遷座劇によって大きく変革した、といったところでしょうか。
 ただここでひとつ釘を刺しておきます。
 この流れだと、鹽竈神社が延喜式神名帳に記載されていないのは、その本質が宮城郡の式内多賀神社であったから、などともなりかねないわけですが、件の多賀社は式内社といってもせいぜい小社に過ぎません。延喜式主税式において、正税から祭祀料を割かれていた鹽竈社以外の三社、すなわち、出羽月山大物忌社、伊豆三嶋社、淡路大国魂社は、いずれも名神大であり、小社に過ぎない多賀社にその錚々たる三社の合計額をも上回る別格の祭祀料が割かれていたとは到底考えられません。式外社であることよりもむしろ矛盾の広がるものであり、したがって私がその説をとることはありません。
4、東鹽氏の傳
 鹽竈神社の國幣中社加列の翌年となる明治八(1875)年、その立役者となった当代権宮司の遠藤信道は、当代宮司の落合直亮の校正を経て『鹽竈神社考』なるものを世に出しました。
 しかしその説くところは極めて独特なもので、後の宮司山下三次などは昭和二(1927)年発行の自著『鹽竈神社史料』の冒頭において、「偽書と認むるもの」の「同一系統に成れるもの」の一つとして掲げ、容赦なくその信憑性を否定しております。
 理由の大きな一つは、遠藤信道の神社考の依拠となっている東鹽氏の傳が、単に『鹽松勝譜』のそれを引用したものとみられること、そもそも原典たる『東鹽家秘録』なる古文書の存在自体が頗る疑わしきものであること、なにより、「鹽土老翁神の御子東鹽根命の神裔」なり「鹽竈多賀両社の斎主大宮鹽竈司」の家とあるところの“東鹽氏”そのものの存在自体が怪しい、というところにありました。
 そこで私は、あえて『鹽松勝譜』を入手し、自らの目であらためて東鹽家について考えてみようと思ったわけですが、まずは遠藤信道が『鹽竈神社考』にて説いたところの東鹽氏の消長を眺めておきたいと思います。
 『鹽竈神社考』の内容については、特に神話的な部分については、過去の拙記事、「偽書とさえ認められぬもの」「東鹽根命なる神の裔」「『東鹽家文書―農業に従事した神々―』」「『東鹽家文書―製塩に従事した神々―』」「『東鹽家文書―道奥國別六根命の意味するもの―』」などで触れておりますので、ここでは東鹽氏の現実的な消長のくだりを意訳しておきます。

―意訳:『鹽竈神社考』―
 宮城郡の郡名は、成務天皇五年巳亥二月、諸国郡郷を定め給える時に、古来神武天皇の勅をもって宮城郡一万束を付された鹽竈大神―別宮:國別鹽竈大神=國別鹽竈宮+妹・國別日東吾妻宮―が敷坐せる所なるに起れると伝わる。
 鹽竈神社を創建しこれを代々奉祀していた神孫の人々は重く評価され、神宮司大宮鹽竈司齋女等は皆三位に叙され、多賀神社宮主は四位に叙されたという。
 しかし時を経て世も移り変り、安倍貞任・宗任など“醜男―原文ママ―”、奥州藤原三代秀衡の三男和泉三郎忠衡などの“荒び男―原文ママ―”の管掌下となるに及び、彼らが神領を掠め取り私有化したことにより、社格も衰え、社司神主たる東鹽家ら鹽土大神の神孫の半分は散り失せてしまった。
 文治五(1189)年には、源頼朝によって利府城主の伊澤家景―留守氏―が当社の神主を任せられ、留守氏が自らの家子をも神官に申請したことにより、神官は旧来の者と合わせて三十二人であったというが、以来、何事も留守伊澤氏の心のままに計らうこととなり、明応の初めの頃には殊に衰微が著しくなり、神殿も雨漏りし老朽化し、御神体さえも安置奉る所もない有様であった。
 これを憂いた時の神宮司東鹽丹波守は、自宅の神床に御神体を遷し置き奉り、神宝や古文書の類もみな移し置くこととなった。
 留守氏は、利府城移住の折、同郡飯土井村に最も旧き世より鎮座していた木船・只洲の両社をその付近の牡鹿島―男鹿島?―というところに遷し奉り、それを家の守護としていたが、明応六(1497)年留守藤原藤王丸の代に至り、その両社を現在の鹽竈神社の鎮座地一森山に新宮を造営して遷座した。※ 藤王丸は先に触れた別宮一禰宜家「男鹿島」の初見となる明応六(1497)年の鐘銘に名が刻まれた留守家15代当主―
 その際、國別鹽竈宮と妹・國別日東吾妻宮は木船宮に合わせ祀られた。※ 小文字で「一本に國別吾妻宮を、左宮に合際奉れりと云ふ」と注釈あり―
 これより前、やはり著しく衰微していた多賀波志峰・多賀府原なる多賀神社も、延徳二(1490)年三月十日に同じく一森山に仮宮を造り遷座していた。
 ちなみに、この多賀神社の旧跡の礎などは多賀崎に今尚存在する。またそのあたりには、和泉三郎忠衡の寄進によって建てられた七重の塔の跡があり、今その場所を塔の越しという。
 ともあれ、ここに木船宮・只洲宮・國別鹽竈宮・日東吾妻宮・左将軍宮(武甕槌神)・右将軍宮(経津主神)の六柱の大神が合わせ祀られることになり、それが鹽竈六所明神と呼ばれる由来となった。
 それにしても、他所から遷されてきて新たに祀られることとなった木船只洲の二宮と多賀の仮宮が造営されたというのに、本来の國別鹽竈大神の宮についてあらためて社殿の建てられることがなかったことは問題であった。
 これを嘆かわしく思った鹽竈多賀両社の齋主大宮鹽竈司東鹽丹波守照行、鹽竈神社宮主五十鈴因幡守盛重等は、國別鹽竈大神の社殿が新たに造営されるべきことを訴えたが、木船・只洲の神主鎌田大藏という者にこれを拒まれた。
 この者、元来留守主家の臣下であったがため、権勢も甚だ隆盛であり、東鹽丹波守と五十鈴因幡守の両者の官職を貶めて、ただ社務のみに就ける在庁人の扱いにしてしまった。
 これは自分の上にこの両者が立つことを懸念した鎌田大藏の妬みによる所為にして、最も悪質な所業である。〜以下省略〜

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 さて、個人的な備忘録を兼ねんがために長々と意訳してしまいました。
 なにやら安倍氏や奥州藤原氏のパーソナルについて汚く罵る記述もありますが、神職としてやや品性に欠けるようにも思えます。
 しかし、東北各地の図書館で調べものをしていて感じるのは、昭和の市町村誌であってもその姿勢にはさして差がないということです。金色堂が残っていたからか奥州藤原氏に対しては比較的マシですが、悲しいかな安倍氏を蛮族扱いする記述はよく目にします。ましてや一説に岩手県南から宮城県北の民家に祀られる釜神のモデルであろうアテルイに至っては、もはや鬼神であり、彼らが同じ日本人として、あたかも英雄なり当地の然るべき住人であったものと認識されはじめたのは、極言すれば平成以降のことのようです。したがって、殊更に遠藤信道だけを責めるわけにもいかないでしょう。
 ただ意外なのは、この後、伊達氏についても比較的否定的に書かれていることです。
 おそらく遠藤信道は、時の為政者が大神主を称し代々鹽竈神社の神徳と現実的な果実だけを吸い上げ続けてきた歴史を許しがたかったのでしょう。明治八年であれば、伊達家を謗ることなど庶民からも不敬を咎められかねない気風がまだ十分に残っていたはずと思うのですが、是非はともかく、遠藤信道が為政者に媚びない真っ直ぐな“神道家”であったことが窺いしれます。
 それはともかく、結論からいうと、『鹽松勝譜』にはこのような内容は書いてありません。
 したがって、少なくとも東鹽氏の傳を『鹽松勝譜』から引用したものと片付けて矮小化する山下三次の指摘はあたりません。
 つまり、真偽はともかく実際に『東鹽家秘録』なるものが存在していたか、あるいは遠藤信道が自らの願望的妄想を第三者が確認しようのない東鹽氏の傳にこじつけて神社考を展開したかのいずれかということでありますが、少なくともまるっきり後者であることはないでしょう。
 何故なら、この『鹽竈神社考』は当時権宮司であった遠藤信道の上席にあたる当代宮司の落合直亮の校正を経て出されているものだからです。
 もしかしたら落合宮司も共犯であるのでしょうか。
 ともあれ、次稿では『鹽松勝譜』に記された東鹽氏の傳を眺めてみたいと思います。
3、荒脛(あらはばき)神の鎮座地

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 陸奥総社宮―宮城県多賀城市―の向側、やや塩竈寄りの道端の路地口に、「あらはゞき神社」と刻まれた石碑があります。
 路地を入ると、左手奥の民家の入口に鳥居があり、庭の奥にはたくさんの下足類が奉賽された異様な祠が見受けられます。
 それが「荒脛巾(あらはばき)神社」です。
 陸奥国府多賀城の鬼門でもあるこの場所は、往時多賀城を訪れる官人が、海路から塩竈浦の國府津(こうづ)に上陸し、陸路政庁に入らんとする門、すなわち実質上の多賀城の正門とも言える東門の手前にあたります。
 そこにこの神が祀られていることは偶然ではないでしょう。何故なら、アラハバキ神には門客人神としての性格が付されているからです。

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 例えば、埼玉県さいたま市大宮区の「氷川神社」の本殿脇には、その名も「門客人社」が鎮座しているのですが、『新篇武蔵風土記稿』足立郡高鼻村条には「古ハ荒脛巾神社ト號セシヲ氷川内記神領タリシ時神祇伯吉田家ヘ告シテ門客人社ト改號〜」とあり、この社が「荒脛巾神社」を改号したものであることがわかります。
 また、同書多摩郡養澤村条の「門客人明神社」の項には、門客人の部分にずばり「アラハゝキ」と仮名が振られております。
 いずれも、谷川健一さんの『白鳥伝説(小学館)』所載の情報を原典で確認してみたわけですが、このあたりを鑑みると、多賀城の荒脛巾神社が門前に鎮座していることも偶然とは考え難いのです。
 なにしろ谷川健一さんは、前述同書の中で、柳田国男や折口信夫の考えや、それを発展させた中山太郎などの民俗学的推論に触れ、それらを咀嚼して、アラハバキ神について次のように結論付けております。

―引用:『白鳥伝説』―
一、もともと土地の精霊であり、地主神であったものが、後来の神にその地位をうばわれ、主客を転倒させられて客人扱いを受けたものである。
二、もともとサエの神である。外来の邪霊を撃退するために置かれた門神である。
三、客人神としての性格の合わさったものが門客人神である。主神となった後来の神のために、侵入する邪霊を撃退する役目をもつ神である。

 これを信じるならば、多賀城のアラハバキ神も門番の神として当地に勧請されたというよりは、むしろ陸奥国府多賀城所在地の本来の地主神であった可能性こそを疑うべきかと思われます。
 ここで、『鹽松勝譜』の「荒脛神祠」の項が妙に示唆深く思えてきます。

―引用―
鹽浦西二里許ヲ去リ。市川村ニ在リ。相傳フ。鹽神鹽ヲ煮ルノ日。神此山ニ入リ木ヲ伐リ以テ薪ヲ給ス。手足胼胝シテ脛最モ荒ル。故ニ神號トナスト。世脚疾アル者之ヲ祈リ。脛繳ヲ以テ之レニ賽スレハ。驗アラサルナシ。

―意訳―
荒脛神祠は塩竈の浦から西に二里ばかりの市川村にある。伝えるところによると、鹽竈神による製塩の日、神はこの山に入って刈り伐った薪をくべたのだという。その際に手足には胼胝―タコやあかぎれ―ができ、特に脛が荒れたことから、神号が荒脛になったという。世の中の足に疾病のある人たちは、この神に祈り脛糸を献納すれば霊験を得られる。
 
 このくだりを読んでまず思ったのは、奈良時代には日本の三大都市の一角を形成していたはずの多賀城がこの時点では樹木の鬱蒼とした手つかずの山であったらしいということです。
 なにより、その山に入った神が鹽神なのか、それともそれ以外の神なのか、この文では判然としません。
 荒脛巾神社が鹽竈神社の末社に数えられていることを鑑みるならば、山に入ったのは後者のまだ名もなき神とみるのが穏当だとは思うのですが、もし前者であれば、ここでいうアラハバキは鹽神のこと、すなわち、鹽竈神の別名ということになります。少なくとも『多賀城市史』の解釈はそのように見受けられます。
 なにしろ、この『鹽松勝譜』の成立する100年以上も前には、『先代旧事本紀大成経』が鹽竈神を陸奥に落ち延びた長髄彦のこととしておりました。
 同書は、伊勢神宮の根幹を揺るがしかねない記述が含まれていたこともあり、江戸幕府から正式に偽書と断罪され、焚書・発禁とされてしまったわけですが、殊更に脛(すね)が強調されている荒脛神祠のこのくだりはどこかその残滓にも思えます。
 なにしろいみじくもアラハバキを長髄彦の一族に結び付けて展開する文献もあります。
 それは悪評高い『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』でありますが、同書は結果的に個人による捏造文献であったことが確実視されております。おそらくは遡っても第二次大戦後の成立なのでしょうが、とはいえ、青森県北津軽郡市浦村の村史編纂陣に、『市浦村史』別集「資料編」として上・中・下の三巻にわたって発刊させるにまで至ったのは、おそらくはその根本が多賀城の荒脛神祠のそれのごとく、実際に陸奥各地に残る伝説等を元に創作されたものであって、故にそれなりの説得力を有していたからでしょう。
 以前も触れましたが、少なくとも、由利氏すなわち瀧澤氏の系譜が、大和を逃れた安日彦(長髄彦の兄とされる)と越の酋長一族とが結ばれて生じた系譜であることを強く主張する旨の“大正八年”の新聞記事があったことを私は秋田県内の図書館にて確認しておりますー秋田魁新報所載ー。こういったイデオロギーが特に北東北において根強く蔓延していたからこそ、『東日流外三郡誌』が官公庁にまで史料として受け入れられ得たのでしょう。
 一方、『記紀解体(彩流社)』の著者、近江雅和さんは、アラハバキの正体を、古代アラビア語で「最高の神」を意味する「アラバキ」であると力説しており、それらの内、南アラビアからインドに入って伝わった流れが、鬼神「アーラヴァカ・ヤクシャ」なる仏教の外道な守護神と化し、やがて中国に入り、密教を経る中で、音写ではなく義訳され、「元帥(げんすい)」あるいは「大元帥(だいげんすい)」なる明王になっていったのだとしておりました。
 この「大元帥」について、ナツメ社の図解雑学シリーズ『密教』―頼富本宏さん編著、今井浄圓さん・那須真由美さん著―で引いてみると、「太元帥王(たいげんみょうおう)」とあり、伝統的に「たいげん」と読ませ「だいげんすい」とは読まないとする旨の注釈がありました。それはともかく、同書は近江雅和さんがいうところのアーラヴァカをアータヴァカと表記し、その意味がサンスクリット語で「林に住むもの」であることを説いております。
 さすれば、荒脛神祠の神号の由来譚が薪刈の流れの中にあることにも一応のつじつまが合っているようには思えます。
 近江雅和さんのアラハバキ=アーラヴァカ説に断言できるほどの根拠があるとは思えませんが――そもそもそれだけの根拠を見つけること自体がほぼ不可能だと思いますが――、それを奉斎する氏族のルーツを推測する意味ではかなり魅力的な試論であるとは思います。
 仮にそれに便乗してみた場合、アラハバキ信仰は平安時代以降に隆盛する密教によってもたらされた比較的新しいものであるのかもしれませんが、陸奥国府多賀城エリアの地主神であったらしきことを鑑みるならば奈良時代以前から既に我が国に流れこんでいたものであるのかもしれません。
 例えば、志波大神について、もしかしたらなんらかの地主神にシヴァ神が習合したもの、あるいはシヴァ神そのものへの信仰が古代の陸奥に定着したものではなかったか、などとも勘繰っている私にとっては、強く意識せざるを得ないペンディング事項ではあります。
 なにしろ、「東鹽氏の傳」からの引用と思しき、遠藤信道の『鹽竈神社考』所載の神話(?)において、志波彦神・志波姫神は、塩焼きの“柴”を刈り取る神とされていたわけであり、『鹽松勝譜』所載の伝説におけるアラハバキ神の役割と類似していることは留意しておきたいところです。

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 伊達家の記録と留守家の記録で鹽竈神社の社人を見比べると、御釜神社の立ち位置に変化が見受けられます。
 寛永二十一(1645)年の『知行目録』は、御釜神社の竈守たる「鈴木隼人」について「社人竈太夫隼人」と記しておりますが、百年ほど遡った天文年間(1532〜1555)に作成されたと思われる『留守家分限帳』の三巻「宮さと(宮うと?)の人數」―鹽竈社人名簿―にはその名が見えません。
 とはいえ、同書の一巻「御館之人數」には「鈴木隼人以町さいけ一けんくら二 御かまの神領五百かり」とありますので、決してこの家が名簿から漏れていたわけではありません。
 天文年間に社人に数えられていなかった竈守の鈴木隼人が、なんらかの事情で寛永二十一(1645)年までには竈太夫隼人として社人に数えられることになっていたことがわかります。
 この竈太夫家や男鹿島太夫家の鈴木姓について、『一森山叢書第二編』所載の「古代中世の鹽竈神社」の執筆者である豊田武さんは、「紀州藤白湊にある熊野王子の神職鈴木一族を中心とする鈴木党に由来する」、としております。
 豊田さんが説くとおり、鈴木党は熊野漁業と熊野信仰の発展とともに太平洋沿岸に沿うて北上し、熊野社のあるところ、必ず鈴木姓の神職を見るまでに広く伝播しました。
 豊田さんは、鹽竈社に鈴木姓の神職がはいりこんだのは、源頼朝の社殿経営と関係があるかも知れない、としながら、次のような注釈を加えております。

―引用:『一森山叢書第二編(志波彦神社 鹽竈神社 社務所)』―
熊野信仰はすでに名取の熊野社のように、平安末期仙台地方に伝わっているが、それがひろがったのは、頼朝の奥州遠征後であろう。源氏の水軍として活躍した鈴木三郎は、頼朝から所領まで賜っていたが、妻子を熊野に送って義経の死出の供をした。陸中江刺郡片岡村多門寺薬師堂は正治年中鈴木重家の子の創建であるという。したがって三陸沿岸に鈴木党の発展したのは鎌倉の中期以前であったと考える。

 たしかに、熊野鈴木党の伝播はそのようなものであったことでしょうし、熊野信仰が広がったのも頼朝の奥州遠征後であったことでしょう。
 ただ、陸奥國府周辺においてのそれは、むしろ先住の名取熊野の広がりではなかろうか、という思いがあります。
 平安末期云々と引き合いに出されているところの名取熊野は、頼朝に滅ぼされた平泉王国の残り形見のごとき存在でありますが、これこそが主家の滅亡によって広がったのではないか、と私は考えるのです。
 何故そう考えるのかというと、陸奥國分荘玉手崎―仙台市青葉区小松島周辺―の「小萩伝説」が平泉王国滅亡の恨み節に思えるからです。
 この伝説は、奥州藤原三代秀衡の三男「和泉三郎忠衡」の遺児とその護持仏―俗に小萩観音―を保護しながら陸奥國分荘に落ち延びてきた乳母小萩の物語なわけですが、その護持仏が、名取那智宮本尊―俗に閖上(ゆりあげ)観音―の漂着譚に結び付けられた伝説もあります。
 それらを流布していたのは、当地に落ち延びて尼寺を営んでいた平泉系の貴女たちと、旧荒巻邑の総鎮守たる熊野神社―仙台市青葉区通町―の巫女たちであったものと思われます。※拙記事「泉と清水と白水と―その3―」参照
 この熊野神社は、土御門天皇(1198〜1210)の勅宣によって創建されたと伝わるものでありますが、後の仙臺城普請にともない境内地に換地された「玄光庵」の鎮守でもありました。
 創建時期こそ頼朝進出による熊野信仰伝播の時期とも合致しますが、別当寺の玄光庵が藤原秀衡創建と伝わる龍泉院から分かれたものであることを鑑みるならば、やはり名取熊野の流れをくむものであった可能性が高いと考えます。
 思うに、男鹿島太夫なり竈太夫なりの鈴木姓は、むしろこの先住の名取熊野に由来するのではないでしょうか。
 先に割愛しましたが、『留守家分限帳』を秘蔵していた留守氏の執事たる佐藤氏は、その分限帳において筆頭に記された佐藤玄蕃頭を名乗る家柄でありました。
 『宮城県姓氏家系大辞典(角川書店)』によれば、佐藤氏の先祖は、陸奥国留守職伊沢家景の入府に際して、「当国の案内者」として特別に随行したのだそうです。
 同辞典は、「多賀国府の事情に通じた立場を買われたものか」としており、また、『餘目記録』には、佐藤氏の当主が留守の当主から「御父」と呼ばれていた旨が記されており、佐藤玄蕃頭家が留守家中にあって特別な地位を占めていたことが知られます。
 なにしろ『宮城県姓氏家系大辞典』は、宮城県内の佐藤氏が信夫荘の佐藤荘司から始まったとされている旨を記しております。
信夫荘司の佐藤基治は、奥州藤原氏の重臣であったわけですが、二代基衡の姪の夫でもありました。一方で、『封内風土記』は陸奥國分荘―現在の仙台市内―の領主でもあったとも伝えます。
 ただ、佐藤荘司と呼ばれる存在は、有名な信夫荘の佐藤基治ばかりではなく、本吉や名取にも存在していたようです。
 例えば、本吉荘は奥州藤原三代秀衡の四男高衡の領とされ「本吉冠者四郎高衡」と冠されるほどの名高い大荘であったようですが、『郷土研究としての小萩物語』の藤原相之助は、高衡の年若き故に佐藤の一族を置いてこれを宰知させたものとしております。
 なるほど、兄である和泉三郎忠衡が文治五(1189)年に23歳の若さで亡くなっているわけですから、高衡はそれよりも若い時分から大荘たる本吉荘を領していたことになります。
 以前私は、鹽竈神社に文治の燈籠を寄進した和泉三郎忠衡は奥州藤原王国における対多賀国府の外務大臣で、まだ若い忠衡を補佐し、その実質を担っていたのは義父である佐藤荘司基治であったのだろう、と推測しておきました。※拙記事「佐藤基治一家の哀歌」参照

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和泉三郎忠衡寄進の文治の燈籠と鹽竈櫻

 本吉荘にせよ國分荘にせよ、往々にして、佐藤荘司には奥州藤原王国の対外政策の実務を担う執行役員的な要素があったように思われます。
 なにしろ、佐藤姓については、『嚢塵埃捨録』が奥州藤原二代基衡を「佐藤左衛門尉藤原基衡」、同じく三代秀衡を「佐藤陸奥守兼鎮守府将軍藤原秀衡」と記しており、奥州藤原氏そのものが「佐藤」とみなされていた例があることも留意しておきたいところです。
 いずれ、留守家の執事とされていた佐藤氏については、少なくとも多賀国府に通じていたと思われる事情からして、この佐藤荘司の一族であったとみて良さそうです
 奥州経営に乗り出した源頼朝は、おそらくはそういった経歴に裏付けられた熟練の実務能力を利用すべく、この一族を陸奥國留守職伊澤家の家老に置いたのではないのでしょうか。
 有名な信夫の佐藤荘司基治は、28万の総鎌倉軍との最も壮絶なファーストインパクトに砕け散り、阿津賀志山に首を晒されたわけですが、名取の佐藤荘司は名取郡司と熊野別当とともに投降して赦免されたことが『吾妻鏡』に記されております。
 『嚢塵埃捨録』には、本吉冠者四郎高衡と志波日詰五郎頼衡といった三代秀衡の四男五男が二万五千の兵を率いて名取高館で応戦した旨が記されておりますが、もしかしたら彼らこそが、投降した佐藤荘司なり名取郡司なり熊野別当なのかもしれません。
 いずれ私は、頼朝に生かされた佐藤荘司と熊野別当が新参の留守職伊澤氏を補佐することによって、佐藤玄蕃頭と竈太夫鈴木隼人による塩竈経営の基礎が発祥したのではないか、と考えるのです。

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