はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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 先日、日の出の時間を見計らって閖上(ゆりあげ)―宮城県名取市―を訪ねてみました。
 震災後まもない頃に訪ねて以来の久しぶりの閖上でありましたが、だいぶ雰囲気が変わっておりました。なまじかつての地理感が残っているだけに、はて、こんな坂道などあっただろうか、などと戸惑う場面もありましたが、閖上地区の復興計画は居住区そのものの大半を嵩上げして、いつかまた襲い来るであろう大津波に備えるものであるようです。
 ともあれ、あえて日の出の時間に閖上を訪れてみましたのは、この地の沖合にのぼる朝日が、名取西部の高舘丘陵をどのように照らし出すものか、という素朴な好奇心に駆られてのことでありました。

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 結果からいえばこの日は雲が多く、私の期待通りには照らしてくれなかったわけですが、閖上の地を離れ、復興真っ盛りの浜街道を北上している最中に、多少なり雲間から日差しが射し始めたので、これ幸いと沿道の海岸公園馬術場―仙台市若林区井戸―に立ち寄り、そこから高舘丘陵を眺めてみることにしました。この馬術場も震災後、閖上の居住区同様平野部に盛土嵩上げされて再開しておりますので、四方を広く見渡すことができるのです。
 公園の駐車場に車をとめて、やおら東を望めば大津波を耐えしのいだわずかな防風林が茜さす空に影絵のように映し出されておりました。どうしても哀惜の念を呼び起こされざるを得ませんが、西を振り返れば何事もなかったかのような仙台平野のパノラマが視界の許す限りに展開しております。

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仙台市街と泉ヶ岳

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今泉清掃工場の煙突の奥に見える住宅街のある一帯が高舘丘陵。その奥にうっすら見えるのは蔵王連峰

 とりあえず、高舘丘陵が朝日に照らされるイメージは確認できたと言って良いでしょう。
 そもそも閖上の日の出が気になりはじめたわけは、先日の拙記事の中で栗駒山の別称なる「大日(おおひる)岳」のヒルや「ゆるぎの松―宮城県栗原市―」のユル、そして「由利(ゆり)郡―秋田県由利本荘市―」のユリについて触れながらあれこれ考えているうちに、ふと、もしや閖上(ゆりあげ)のユリもそれらと同根であったのではなかろうか、と頭をよぎったからでありました。
 すなわち、ヒルやイル、ユルなどと同じく、閖上のユリも「日」を意味していたのではなかろうか、と考えたわけです。
 言うなれば、伊勢二見ヶ浦「二見興玉(おきたま)神社」の「興(おき)」と同じ意味が、閖上の地名にもあてはまり得るのではないかと推察してみたのです
 古代日本人の太陽信仰・日神祭祀―アマテル信仰―は、「天(あま)」に輝くタテ方向の視点のものではなく、「海(あま)」から刺すヨコ方向の太陽を賛美するものだったと説くのは『神と人の古代学(大和書房)』の大和岩雄さんです。
 大和さんによれば、オキタマの「オキ」は「沖」でヨコ意識であり、特に「興」と表記するように起き上がる意味をもつ、すなわち、西に沈んだ太陽が海中で眠り、あるいは死に、翌朝には再生して東から朝日となって昇るのであって、それは王権によってつくられた中国由来の天上からタテに照らす概念ではなく、ヨコからただ刺す概念であって、それこそが古代の人びとがあがめていた「興魂(おきたま)」の神だというのです。
 さすれば二見興玉神社の主祭神たるサルタヒコが朝日の神であることをも示唆しているわけでもありますが、ともあれ閖上を日の出の地として眺め得る場所に高舘丘陵があり、同地の「熊野那智神社」の始原は、閖上浜の漁師が引き上げた御神体が光を放ち、その光がとどまった場所に宮社が建てられたものであると伝えられております。
 当初その地に建てられたのは「羽黒権現」の祠であったらしいのですが、保安四(1123)年に名取老女なる人物が紀州那智宮の分霊を合祀したことを機に、「熊野那智神社」と改称されたようです。
 羽黒権現は東北地方を代表する山岳修験「出羽三山信仰―出羽三所大権現―」の一角をなす神でありますが、旧名取郡域においてのそれは閖上の海とも密接であったようで、名取川を挟んで高舘丘陵の対岸、名取郡山田村旗立山山頂に祀られていた旧西多賀村村社「羽黒神社」では、かつて毎年閖上濱までの神輿の渡御があったようです―『名取郡誌』―。
 この羽黒権現は、和銅三(710)年に焼失していたものを、陸奥守鎮守府将軍の源頼義が安倍頼時を討った翌年の天喜五(1057)年にあらためて同地に勧請したものとされておりますので、少なくとも高舘山のそれより早くから祀られていた神祠とみて良さそうです―昭和四十一(1966)年羽黒台団地の開発造成にあたり本殿を現在の仙台市太白区羽黒台に移祀し今日に至る―。後の対鎌倉戦の様相からも推察できるように、一方で奥州藤原氏の神兵組織の顔を併せ持ちながら一大勢力と化した名取熊野の前身として、出羽の羽黒修験勢力が根付いていたことを窺わせます。
 ところで、高舘丘陵に造成された新興住宅団地のひとつに、伊藤忠都市開発による「イトーピア名取」がありますが、こちらの住居表示は全域「ゆりが丘」となっております。
 おそらくは造成前の底地にユリの小字名があって、それを採用したものと勝手に推察しておりますが、そうでないならば閖上を眺望できることに因んだものか、はたまた、単に百合の花が咲き乱れる野山であったものか、真相は未確認です。
 もしかしたら、高舘丘陵や閖上周辺には出羽國の由利郡同様、中原眞人一族と思しき由利氏が土着していたのかもしれず、彼らの先祖は高句麗系渡来人と密接な信濃系の馬賊の頭目的存在であったものと考えておりますが、高舘丘陵東部の麓に「乗馬」や「舞台」、「真坂」といった地名がみられることにもその想像を掻き立てられます。
 いずれその想像が妥当か否かに関わらず、同地の羽黒権現、あらため熊野那智神社に関わる創始伝説を鑑みるに、閖上なる地名は御神体が「ゆりあがった」ことに因むとする通説よりも、むしろそれが放った光そのものに由来したものと私は考えます。おそらく本来の御神体は朝日そのもの、すなわち名取川河口の水門(みなと)の沖合に昇り、高舘丘陵を橙色に染め上げる黎明の日(ゆり)のことであったのしょう。
 栗駒山の異称に限らず、「駒形山」なる名称の山は全国に数多ありますが、その名称の由来はまちまちです。ただ、その山の神を祀る社はおしなべて「駒形神社」と呼ばれているようです。
 栗駒山の北東、岩手県奥州市水沢区には「陸中一宮」と称する「駒形神社」がありますが、同社HP記載の由緒によれば、延喜式神名帳にある駒形神社は宮城県栗原郡「駒形根神社」と同社の二社のみなのだそうです。さすれば、少なくともその時代にあっての両社は、全国数多の駒形神社の筆頭あるいは本宗社的な位置づけにあったとみて良いのかもしれません。 
 特に駒形根神社などは、その名称に「根」が付されておりますので、全国の駒形神社の総本社たる自負がありそうにも思えます。
 ちなみに、水沢の駒形神社については栗駒山に由来するものではなく、岩手県内の奥羽山脈の一角を成す焼石連峰の駒ケ岳山頂に祀られたものが現在地に遷されたもののようです。
 同社の由緒を信ずるならば、なにやら遡れば古代東国の名族「毛野氏」の信仰に辿り着く神祀りであるようで、さすれば毛野一族本拠のシンボルたる「赤城山」の神なり、「日光二荒山」の神とも同系たり得る旨が由緒に窺えます。
 一方の栗駒山の神を祀る駒形根神社については、あくまで管見に触れ得る顕在化された情報の限りにおいては、毛野氏との関連を示すそれは見当たりません。同じ駒形神を称する神を祀る水沢・栗駒の両社ではありますが、各々の成立過程はもちろん、起源すらも異なるものなのかもしれません。
 ちなみに「陸奥国栗原郡大日岳社記―駒形根神社の社記:以下社記―」には、あくまで朝敵降伏の祈願者という立ち位置ながら、「日本武尊(やまとたける)」の他、「坂上田村麻呂」、「阿倍臣」「巨勢(こせ)朝臣」「多治比(たじひ)真人」「頼義朝臣―源頼義―」「義家朝臣―源義家―」「頼朝卿―源頼朝―」らの名が見えます。伝説的なヤマトタケルや陸奥の聖地にすべからくみられる田村麻呂、八幡太郎義家に代表される源氏系譜、陸奥の王家ともいえる安倍氏と同祖の阿倍臣などはなんら不思議でもありませんが、巨勢朝臣・多治比真人といった名は宮城県内の神社の由緒においてあまり見かけた記憶がありません。※注
 これらのいわゆる「武内宿禰系譜」については、しいていえば、「高良玉垂(こうらたまだれ)神」と解釈された武内宿禰本人についてニワタリ信仰の中で散見されますが、それをのぞく裔孫個々の記録はすぐには頭に思い浮かばず、妙に新鮮であるのと同時になにかしらの本質を示唆している可能性への期待もあり、留意しておきたいところです。
 それはともかく、水沢の駒形神社は戦前の旧社格において岩手県最高位の「國幣小社」であり、先にも触れたように古くは延喜式神名帳にもその名の見える、いわゆる“式内社”であり、かつ、名神大の志波彦神らと並ぶ陸奥國最高の従四位下にまで神階を進めた記録が正史に残る社でありました。
 それほどの社格で国家から遇されてきた社でありながら、祭神については何故か不詳であり、そのことに違和感を抱いたのが『円空と瀬織津姫(風琳堂)』の菊池展明さんでありました。
 菊池さんは、その理由を「瀬織津姫」にあると推測されておりました。
 すなわち駒形神社の祭神が瀬織津姫神であるが故に“不詳”とされたものと菊池さんは踏んだのです。
 駒形神が瀬織津姫であるという根拠について、菊池さんは北上山地の最高峰たる「早池峰山」に抱かれた「大出(おおいで)郷―遠野市附馬牛(つきもうし)町―」の「早池峰(はやちね)神社」境内にある「駒形神社」の由緒に見出しておりました。
 大出郷のある附馬牛町は、昭和二十九(1954)年に誕生した遠野市に併合される以前には「附馬牛村」なる独立したひとつの村であったわけですが、その村の村誌『定本附馬牛村誌(附馬牛村)』に当該駒形神社について次のように記されております。

―引用:『円空と瀬織津姫』・『定本附馬牛村誌』―
 大出の本社早池峰神社の境内にある駒形神社も古い由緒と伝統を持っている。「早池峰神社縁起」によれば、この神社の縁起は、無尽和尚が早池峰山に登った時、早池峰権現が白馬に姿を変え龍ヶ馬場に現れたのを写生したのを此処に祀ったのが始まりと伝い、その時、未だ写し終わらない中に白馬が駆け去ったので片耳を写し残したとされている。

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 つまり、「早池峰権現―早池峰神―」は、「白馬に姿を変えて龍ケ馬場に現れた」、それを無尽和尚が「写生」して祀ったのが「駒形神社」だというわけです。
 早池峰神社は瀬織津姫神を祀っておりますので、早池峰権現の化身たる駒形神はすなわち瀬織津姫神である、というのが菊池さんの考えのようです。
 『円空と瀬織津姫』における菊池さんの目的の大きなひとつは、円空の謎めく彫像行脚が瀬織津姫神への崇敬心に起因していたことを解き明かすことにありました。円空は駒形神にまつわる歌をいくつも詠んでいるようですので、駒形神が瀬織津姫神であることを示唆する情報は菊池説にとって極めて重要です。早池峰権現が駒形神に化身したという伝説は、円空による有珠善光寺の彫像及び奥の院創始の真意が、内浦岳―駒ヶ岳―の神への祈念、すなわち駒形神こと瀬織津姫神に対する想いにあったことを傍証するための布石でもありました。
 なるほど納得・・・と言いたいところではありますが、早池峰権現の化身たる駒形神を水沢駒形神社の祭神をはじめとするその他の駒形神と同じものと判断して良いものだろうか、という迷いも残ります。龍ケ馬場に現れたのはたしかに早池峰権現であったのでしょうが、それはあくまで早池峰山域の当該駒形神社における由緒であって、それが他の全ての駒形神の属性にまで及ぶ前提で論を展開するのには勇気が要ります。栗駒山の駒形山としての山名由来もそうですが、なにしろ山容に馬の雪形さえ現れれば「駒形神」なる名称は全国どこにでも普遍的に発祥し得るのです。
 とはいえ、仮にその場合でも、その抽象的な雪の形を馬の形と受け止める里人の感性において各々に共通し得る部分があったわけで、早池峰山でもそうですが、その山の神の権現が白馬に化身したという感性、また、それを馬(うま)ではなく駒(こま)と表現する感性が彼らの間で同期していたことも事実です。毛野一族か否かは別として、駒形神を祀る各地の里人が同じ信仰をもつ同系の人たちであった可能性は低くもないようには思われます。
 また、逆説的ではありますが、いくつもの駒形神の歌を詠んだ円空の関わらんとした駒形神については、少なくとも円空の感性というフィルターを通して同種の属性を見出せるとはいえるのかもしれません。
 ところで、大出郷の早池峰神社の拝殿には、先の龍ケ馬場における無尽和尚の駒形神伝説に由来したものであろう「早池峰山駒形印」なるものが掛けられております。何の気なしに絵柄の中で馬を曳いているのは無尽和尚であろうと解釈しておりましたが、大迫町の早池峰神社にて魔除けとして頒布されていた護符にも同様の絵柄が描かれ「猿駒曳護符」と名付けられておりました。
 なにやら馬を曳いていたのは無尽和尚ではなく“猿”であったようです。

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 護符の説明には、「古来より、猿は馬を守護するとされ守護神として猿を飼い正月には厩祭を行い、猿が馬を曳いている」とあるわけですが、栗駒山の神を祀る駒形根神社の社記にみえる次の祭式が気になってきます。

「御岳大神及ビ吾勝大神神幸ノ時 鼻節神必ズ啓行スベシト」

 駒形大神と吾勝大神―天忍穂耳尊:天照大神と素戔嗚尊との誓約で生まれたとされ、天孫ニニギの父とされる―の神幸に際しては必ず鼻節神を啓行させるべしというのです。
 何故、ここに宮城郡の式内名神大なる鼻節大神が指定されているのでしょうか。
 その理由としては、小文字で「鼻節神ハ者蓋シ猿田彦大神ト謂フ」と補記があり、ここでの鼻節神は猿田彦大神の役割として期待されているということのようです。
 正史上、サルタヒコは天孫降臨の際にニニギ御一行を先導したが故に、大日岳の神としての駒形大神の神幸に際して導きの神の大役が任せられているのでしょうが、だとしても、同じ栗原郡の金成地区に猿田彦神社があるわけで、にも関わらず、あえて宮城郡の鼻節神社の神に啓行させるというのは不思議です。
 もちろん、金成のそれは平治元(1159)年の勧請でありますから、延喜式式内社の駒形根神社の当該祭式が定まる頃にはまだ存在していなかったのかもしれません。であれば、尚更不思議です。何故なら延喜の制でいえば鼻節神社は駒形根神社より格上の名神大なわけで、それが小社にすぎない格下の駒形大神の先導を、より延喜年間に近い時代から担わされていたことになるからです。
 両社にはなにか、そういった形式を超えた部分での古くからのつながりがあるのかもしれない、などと想像してしまいます。
 早池峰神社の猿駒曳護符の意味する馬の守護神としての猿という図式は、もしかしたらこの駒形根神社と鼻節神社との関係に由来してはいまいか、などとも考えてみたのですが、なんら確証はありません。
 ただ、駒形山たる栗駒山が大日岳でもあるように、もしかしたら太陽と駒を表裏の関係とみているなんらかの古い信仰が根強くあるのではないでしょうか。
 たびたび触れているように、猿は夜明けに騒ぐ習性があることから、鶏と同様、普遍的に朝日と結び付けられて信仰の対象となる傾向が全世界的にあります。猿駒曳護符の猿は、おそらく朝日の示唆であるのではないでしょうか。

※注:平成三十一(2019)年一月十九日補記
 『続日本紀』霊亀二(716)年九月二十三日条に、従三位中納言の「巨勢朝臣万呂」なる人物が出羽國における狄徒(えみし)懐柔政策について提言している旨の記事があり、また、その四年後の養老四(720)年九月二十八日条には、陸奥國から按察使・正五位下の「上毛野朝臣広人」が蝦夷に殺害された旨の奏言があった記事があり、翌日二十九日条にはそれを受けたと思しき人事、播磨の按察使・正四位下「多治比真人県守」が持節征夷将軍に任じられた記事があります。
 その際、左京亮・従五位下の「下毛野朝臣石代」が副将軍に、従五位上の「阿倍朝臣駿河」が持節鎮狄将軍に任じられていたようです。

駒形大神の遷幸

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 「陸奥国栗原郡大日岳社記」―駒形根神社の由緒記:以下社記―によれば、栗駒山―大日岳(おおひるだけ)―そのものを神の宮殿として崇める栗原の里人は、その恐舊(きょうく)の感情から山の頂に登る人はいなかったようです。
 山の南方には大神の鎮まり坐す石窟―霊窟(かみのいわや)―があり、里人はそちらに参拝―郷俗此ノ處ニ詣デテ敬礼拝謝―していたというのです。
 一方、それとは別に、東麓の沼鞍村―三迫:栗原市栗駒町沼倉―に里宮―麓宮・御駒宮―が設けられていたことも社記にみえます。一般に「駒形根神社」といえばこれを指し、現在鳥居には「勅宣日宮」の扁額が掲げられ、宮司鈴杵家の祭祀の拠点となっております。

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 この沼倉地区では、現在も不定期ながら駒形大神の巡幸神事が行なわれていて、それは宮城県の「県指定無形民俗文化財―風俗慣習―」に位置づけられております。宮城県はその起源を明和五(1768)年まで遡ることができるとしておりますが、社記にはそれとは異なる駒形大神の遷幸なる古来の神事があったこともみえます。

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 巡幸神事は駒形大神が櫻町天皇の御宣命を拝受した際の勅使下向の古事を偲ぶもののようなので、駒形大神そのものの遷幸とは趣も異なりますが、社記によれば、駒形大神の遷幸に際しては栗駒二迫の文字地区、並びに三迫の沼鞍地区を行宮(あんぐう)とし、多くの馬を走らせ、流鏑馬(やぶさめ)もあったようです。同社記にみえる郷俗の言い伝えによれば、一度この馳道(ちどう)に出た馬は必ず幸があったといい、畜馬の者は各々競って出場していたようです。
 なにしろ社記には「奥羽ノ馬斯クノ處ニ来タリ集マラザルハ無シ 故ニ天下ノ駿馬ノ多クハ奥羽二州ヨリ出ズルヲ以テ良キ者有ル哉」とあり、栗駒山の駒形大神の行宮する栗原郡栗駒の地は天下の駿馬の一大聖地であったことがあらためて窺えます。
 この神事、驚くことにかつては数万もの馬を走らせるという壮大なものであったようです。
 しかし、「此ノ式亦廢ル」ともありますので、社記の書かれた元文五(1740)年におけるそれは既に過去のものであったようです。
 社記には、故あって「文治(1185〜1190)ノ度」にその舞台が栗駒町岩ヶ崎地区―三迫―に移されたとあり、なんらかの理由で文字地区から岩ヶ崎地区に移され、「奥州三迫ノ日市」と称された遷幸神事は、「上古ノ走馬ノ遺風」ではあるものの、文治年間(1185〜1190)に至って古来のかたちが変わっていたことになります。
 近年の岩ヶ崎は、栗原電鉄の栗駒駅が設けられるなど、栗駒全体の中心拠点的印象の強い比較的賑やかな町ですが、文治年間にいかほどのものであったのかはわかりません。
 ただ、奥羽各地から数万もの馬が集まってくるとするならば、特に狭隘な文字地区では難しいようにも思え、それが故に岩ヶ崎地区に移されたものかもしれない、という気がしないでもありません。
 いずれ、文治年間は、壇ノ浦で平家が滅亡したことに始まり、奥州藤原三代秀衡が没し、相続した四代泰衡が源頼朝の圧力に抗しきれず結果的に滅ぼされた年号でもあります。
 さすれば遷幸神事の岩ヶ崎移転については、対鎌倉との緊迫感の高まり、いわゆるエマージェンシーにおける戦略的意図に起因したものとも推察します。
 少なくとも、当時最高の軍事兵器たり得る駿馬が、陸奥出羽の両州から数万もの規模で集まり走駆したというのは尋常ではありません。これは、平家滅亡後に圧力を強めてきた頼朝に対し、秀衡が駒形大神の遷幸なる神事の名を借りて軍事デモンストレーションを展開したものと私は考えます。

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 駒形根神社の鎮座地、かつ、駒形大神遷幸の行宮の地でもある沼倉地区には「源九郎義経」の墓と伝わる「判官森(はんがんもり)」があります。
 地元では、義経を逃すために義経になりすまし身代わりとなって死んだ「杉目太郎行信」なる人物の墓とも伝わっているわけですが、栗駒古舘の城主は行信の弟とされる「沼倉小次郎」なる人物でありました。
 源頼朝は、平家討伐最大の功労者であった弟の義経を朝敵に貶め、それを匿う奥州藤原氏に脅しをかけ続けておりました。それをのらりくらりとかわし続けていた三代秀衡の没した後、圧力に抗しきれなかった四代泰衡は、義経を殺しその首を差し出したとされております。
 しかし、栗駒では、それは身代わりとなった杉目太郎の首であったと伝えられているのです。
 こういった伝説の存在は、文治年間のエマージェンシーに駿馬の聖地たるこの地が安穏としていられなかったことを窺わせます。
 菅原勇喜さんの『栗原の伝説』に次のようなコラムがあります。

―引用―
源義経と伝説
 牛若丸の名で知られる源義経は、栗原の伝説の中にしばしば登場する。それだけ、むかしから、たいへん親しまれた武将であった。
 平泉の藤原氏とつながりの深い義経は、何度か栗原の地を通ったことであろう。義経はその平泉で、若い生がいを閉じた。悲しい運命をたどった義経に、人々は心を引き付けられていった。
 栗駒町では、毎年七月末に夏祭りが行われ、十台の山車が町内をはなやかに練り歩く。このお祭りは伊達藩の時代に始まり、豊作を願う当時の農民や商人、職人たちみんなで楽しんだと伝えられている。平成の時代になっても山車かざりを一きわ引き立たせているのが、源義経の人形姿である。亡くなって八百年以上過ぎた今なお、義経は人々の心の中に生き続けている。

 これが義経に対する栗原の人たちの想いであるのでしょう。
 十七万騎もの精兵を擁する奥州藤原三代秀衡にとって、源氏の正統たり得る義経は対頼朝戦略におけるパンドラの箱であり最終兵器でもありました。騎馬を駆使し、際立つゲリラ戦法で瞬く間に平家を滅ぼした義経ですが、思うに、彼は心の父である秀衡の意向によってこの栗駒の地で鍛錬させられ、馬に精通した当地の人々から徹底的に馬の習性を叩きこまれていたのではないでしょうか。

栗駒山を望む

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 平成最後の晩秋のとある早朝、栗原市築館(つきだて)の国道四号を北上する私の車のフロントガラスに冠雪まもない栗駒山が朝日に染め上げられて現れました。
 ふと、高校時代のさもない記憶が蘇ります。
 良く晴れた日の仙台市内のとある丘陵地にて、まだ冠雪していない晩秋の泉ヶ岳の向かって右、すなわち東の山麓にぽつりぽつりと居並ぶ七ツ森の山々に紛れて、白いアイスクリームのような山容が顔をのぞかせていることに気付いたのです。

「あの山はなんだ?」

 とりあえず私は隣にいた友人に訊ねました。

「まあ、七ツ森ではないな」

「そりゃ〜あの山容からすればそんな低い山ではないよ。泉ヶ岳がまだ冠雪していないわけだから、たぶん泉ヶ岳よりも高い山だ・・・」

「船形山じゃないか?」

「・・・う〜ん・・・船形山ってあっちかなぁ・・・」

 船形山は泉ヶ岳の北西やや西寄り、宮城・山形の県境に峰を連ねる奥羽山脈の山でありますが、私にはもっと東の大崎平野方面に思えていたのでした。

「・・・じゃあそのあたりで他に泉ヶ岳より高い山ってあるか?」

「・・・いや・・・思い当たらない・・・」

 とは言ったものの、あわよくば岩手県の北上山地、地理の授業で習ったばかりの「残丘」の例に出されていた「早池峰(はやちね)山」であったりはしないだろうか、などとも頭をよぎっておりました。おしなべてなだらかな北上山地にあってひときわ高い2000メートル級の高い山。

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早池峰山

 しかし、それを言うと友人に鼻で笑われそうな気がしたので言葉を呑み込みました。そもそも、まさかそんなはずはなかろう、というもう一人の自分の賢しらな常識が自動車のABSのようにじわりと発言衝動を締めあげていたのでした。
 それでもどこかに期待はあり、友人を驚かせてやりたい、という気持ちを抱いたまま帰宅した私は、その夜、地図を開いてみました。
 地図上に定規をあてがい、泉ヶ岳と七ツ森の位置関係から白い山の方向を推測してみたのですが、ひとまず船形山には行き当たりそうにありません。

(だよな・・・。船形山ならもっと泉ヶ岳と重なるはず・・・)

 とは言え、早池峰山に行き当たるわけでもありませんでした。
 やや落胆していたその刹那・・・。

(これは・・・)

 意外にも、定規の延長線上には栗駒山が重なっていたのです。その選択肢は持ち合わせておりませんでした。それはいわば、自らの想定という将棋盤の外の駒でありました。まさか、栗駒山が仙台市内から見えるとは考えてもみなかったのです。


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仙台市泉区南光台南から望む栗駒山

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 古来、信濃系の馬飼い集団の扶植地として代々の領主から特別視されてきたのであろう栗原郡―宮城県栗原市―。
 三善光寺の一とされる奥州善光寺は、その馬飼いの彼らの信仰の名残であろうと考えられるわけですが、栗原一帯を見下ろす栗駒山もまた畏敬の対象であったようです。
 栗駒山は、古く「駒形嶽(こまがただけ)」と呼ばれていたようですが、その山名は、炎暑にあっても尚残る斑馬(ふちうま)の雪形に因み名づけられたものと言われます。
 裏を返せば、その雪形を神懸った馬の形と信じたい人たちが麓に暮らしていたということでもあるのでしょう。
 また、栗駒山には「大日岳(おおひるだけ)」という別称もあり、栗駒山の神とされる「大日孁貴(おおひるめのむち)尊 ―天照大神の異称―」の又の名が「午日(むまひる)尊」であることから、「午峰(むまのみね)」、あるいは「駒ヶ岳」、あるいは「駒形峯」、あるいは「駒形岳」などと転じたものとも言われているようです―「陸奥国栗原郡大日岳社記」より―。
 大日岳なる別称は特に秋田県側からそう呼ばれていたらしく、おそらくは出羽國雄勝(おがち)から由利郡周辺に土着していた信濃系の人々からみて、この山が「日の出の山」であったからなのだろうと想像しております。
 度々触れてきているとおり、古来呉人(くれびと)―高句麗系渡来人―と密接と思しき信濃系の馬飼いの人たちには濃厚な太陽信仰があったと考えられます。
 とりわけ冬至の日の出の方位に大日岳―栗駒山―を拝むこととなる由利郡ですが、その地名の「由利(ゆり)」については、前にも触れたとおり、古代朝鮮語で「日」を意味するユルなりイルに由来したものではないか、と私は勘繰っております。
 古代朝鮮に限らず、日本においても先の「大日孁貴(おおひるめのむち)」など、「日」をヒルと読む用例が少なからず存在しているわけで、それらを鑑みるならば、もしかしたらこれは環日本海に遍く通ずる訓であるのではないでしょうか。さすれば「昼(ひる)」の語源もおそらくは同根でしょう。
 栗駒山―大日岳―の神を祀る「駒形根神社」は、『延喜式神名帳』に載る栗原郡七座の一であるわけですが、「日宮(ひるみや)」とも呼ばれ、神仏混淆の時代には天台宗支配の「駒形山大昼寺」と別称されていたようです。

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駒形根神社の鳥居に掲げられた「敕宣(勅宣)日宮」の扁額

 天台教徒が広めたのであろう全国の慈覚大師円仁伝説地にはたいてい「日吉(ひよし)山王神社」なり「日枝(ひえ)神社」なりと呼ばれる社が展開しておりますが、「日枝(ひえ)」はおそらく天台宗の震源地たる比叡山の地名に由来するものと思われます。
 比叡山延暦寺を建てた最澄は後漢孝献皇帝の裔と伝えられており、その実は馬産に精通した高句麗人に近い属性を有するツングース系の渡来人とも考えられるわけですが、「日枝(ひえ)」を先のように古代朝鮮語の例に準ずるならば「ユルギ」とも訓めます。もしかしたら、むしろ比叡山の地名こそが日枝(ゆるぎ)に由来するものであるのかもしれない、などとも想像しております。
 なにしろ栗原郡の武烈天皇伝承地のひとつとして、「ゆるぎの松」なるものがあります。
 この地に下った武烈天皇が船をつないだ松とも伝えられております。
 もしかしたら栗原の武烈天皇伝承の本質を解く鍵はこの「ゆるぎ」なる言霊の中に埋もれているのかもしれません。

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伊豆沼越しに望む栗駒山

余滴―。
 気がつけば拙ブログ「はてノ鹽竈」も平成二十(2008)年十二月十日の開設から10年を経過しておりました。
 平成最後の年末ということもあってか、ふとこの10年間を振り返ってもみるわけですが、その間、東日本大震災という未曽有の天災も体験し、父も他界しました。
 その一方、このブログを開設したことによってかけがえのないご縁にも恵まれ、かつて唯物論者と罵られていた私が、神仏を尊び、自分の役割なり「縁(えん)」というものを深く考えるようにもなりました。
 かの西行法師は伊勢を訪れた際に、「なにごとのおはしますか知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と詠んだといいますが、その感覚もここにきてようやくわかるようになってきたような気がします。
 もちろん、単に歳をとっただけなのかもしれませんが・・・。

栗原と糠部―後編―

 奥羽における信濃系の馬飼いの民に対する忖度の可能性については、例えば、鎌倉幕府による「由利中八維平」の論功行賞にもそれが窺えるものとみております。
 維平が奥州藤原四代泰衡の郎従「由利八郎」その人だとしたならば、彼は鎌倉軍に囚われても尚、主君泰衡を侮辱した敵の総大将源頼朝に啖呵をきった人物です。泰衡が恭順の意を示して命乞いをしても尚残酷に処刑されたことを鑑みれば、頼朝に啖呵をきった維平などは本来その場で有無を言わさず首を切られてもおかしくないところです。
 ところが維平はとりたてて咎もなく、何故か慣れ親しんだ旧領の由利地域を任せられました。維平からすれば願ってもない待遇を得たことになります。
 思うに、由利郡の信濃系土着民の手綱を握る上では、下手な鎌倉武士に地頭職を任せるよりも維平その人を生かしてそのまま留任させておいたほうが断然有効であるという判断を頼朝は下したのではないでしょうか。
 ところで、中世の由利地方には「多くが信濃より移住の士なるが如し」と『姓氏家系大辞典(角川書店)』の太田亮さんが評するところの由利衆―由利十二頭―なる在地領主層がいたわけですが、栗原との関係において気になっていることがあります。
 それは、栗原の「真坂(まさか)郷―栗原市一迫真坂(いちはさままさか)―」に起源をもつという真坂姓の分布が、何故か当の栗原ではなく、圧倒的に由利―秋田県由利本荘市―に集中しているようであることです―平成三十(2030)年十一月四日現在ウェブページ『日本姓氏語源辞典』調べ―。
 郷名を冠する一族が宗家もろともまるごと由利に移住したものか、あるいはなんらかの有力な姓をもつ真坂郷ゆかりの名族の分家が移住後に故郷の地名を名乗ったものかのいずれかなのであろうと想像しております。
 なにしろ栗原一迫の真坂郷周辺には、武烈天皇伝承と照井氏の痕跡が濃厚に混在しております―※拙記事:『5年に一度の供養会』『消えゆく照井一族の痕跡』参照―。
 彼らの本来の姓が何であったのか、大墓公阿弖流為(たものきみあてるい)の裔を称する照井氏や武烈天皇伝承を伝える狩野氏ともなんらかの関連があるものか、いずれ別稿を設けて考えてみたいと思いますが、ここでは、信濃系移民という属性を共有する栗原と由利の相互に陸奥出羽の境を超えた一族移動―異動?―があった事実への着目にとどめておきます。

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狩野氏の居城であったとされる真坂舘跡には龍雲寺が建ち、伊達騒動をモデルにした「伽羅千代萩」の亀千代の乳母政岡のモデルとされる白河政岡の墓があります。

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 さて、文治五(1189)年の奥州藤原氏滅亡の直後、大河兼任の乱で戦死した維平を継承して由利郡を領していたのは「由利中八維久」なる人物であったようです。このことは元久二(1205)年の大日霊神社の棟札や大日如来の背面の銘などから裏付けられております―『象潟町史』『東由利町史』―。
 ところがこの維久、その後建暦三(1213)年の「和田合戦―二代執権北条義時とライバルの和田義盛が争った戦乱―」の後に地頭職をはく奪されております。
 なにやら、北条方として参戦して数人の和田方を倒した維久の射た矢が、そのまま和田方によって射返され、こともあろうに義時の子、泰時の鎧をかすめたというのです。泰時自身は難を逃れたものの、かすめた矢に維久の銘があったがため、維久は由利の地頭職をはく奪されたのです。代わりに就任したのは、女地頭「大弐局」でありました―『吾妻鏡』『象潟町史』―。
 大弐局は“信濃守”小笠原遠光の娘であったといいます―『象潟町史』―。
 この「小笠原遠光」という人物、大弐局の父ということは南部氏の始祖とされている「南部光行」の父「加賀美二郎遠光」と同一人物と思われますが、おそらく、彼の子―南部光行の兄弟―長清が、甲斐国巨摩郡小笠原郷を継いで高倉天皇から小笠原姓を賜ったことから、父遠光の姓にも混乱が生じているのでしょう。
 由利郡の地頭職が南部氏の祖と同系の甲斐源氏であり、しかも“信濃守”一族であったことは栗原と糠部の関わりを探る本稿の目的において看過できません。
 なにしろ甲斐源氏の縁故地たる甲斐國巨摩郡は、信濃同様、高句麗系渡来人の郷であったと考えられている地域です。
 また、奥州南部氏の始祖とされる光行が、父遠光の官位“信濃守”を受けて「信濃三郎」を称していたことも見過ごせません。
 そもそも甲斐國といえば「甲斐の黒駒」伝説でも知られる馬の名産地であり、特に巨摩郡の巨摩(こま)などは高麗(こま)に由来する地名と思われ、事実同地には高句麗人の扶植を裏付けるような積石塚古墳も多数確認されております。
 また、同地には『延喜式』に載る真衣野牧・穂坂牧・狛前牧なる三御牧があり、やはり朝廷に駒を貢進していた地域でありました。
 そういった地域の属性を背景にしていた南部氏が糠部をすんなり支配していたことは、やはり糠部の馬産文化も高句麗由来の信濃系のそれであったが故ではないのでしょうか。
 糠部エリアには、「階上(はしかみ)」の地名も見受けられます。
 宮城県民としては、ふと、我が県の本吉郡における同じ地名が頭に浮かぶわけですが、「本吉」は先に触れたとおり、奥州藤原二代基衡が増徴を拒否して惡左府藤原頼長と熾烈に駆け引きを展開した「奥羽五箇荘―高鞍(宮城県栗原地方)・本吉(同本吉地方)・大曾禰(山形県村山地方)・屋代(同置賜地方)・遊佐(同庄内地方)―」のひとつでありました。
 これも本来高句麗系渡来人由来の信濃系扶植民との関係が推察される多賀城近郊の大伴家持の建てた権郡「科上(しなのえ:階上)郡―大和岩雄さん『日本古代試論』―」と縁浅からぬ地名ではないか、と想像しているわけですが、この階上(はしかみ・しなのえ)地名からも糠部周辺に同系の馬産文化が扶植されていたことが推察できるのではないのでしょうか。
 一方、八戸市内のど真ん中に「新羅神社」があり、やや混乱させられます。
 南部領総鎮守なり南部一之宮として尊崇を集める「櫛引(くしびき)八幡宮」なり、その「お浜入り」の地たる馬淵川(まべちがわ)河口の地主神「御前(みさき)神社」に伝わる神功皇后伝説に関わりがあるものか、さすれば、同地の土着の民は新羅系であったものか・・・。
 しかしこれは、だいぶ時代が下った延宝六(1678)年の盛岡南部二代藩主直政の勧請によるものらしく、南部氏の遠祖「源義光」が、“新羅三郎”と呼ばれていたことに由来するようです。尚、義光が新羅三郎と呼ばれたわけは、近江新羅明神―三井寺新羅善神堂―で元服したからと伝えられております。したがって、これは八幡太郎義家の弟義光に連なる甲斐源氏たらんとする南部氏の都合による勧請であって、古来の糠部の地主の属性とは直接的には関係がなさそうです。
 なにしろ『東夷伝』によれば、馬韓―後の百済―では牛や馬を蓄うことを知らず、ただ葬式のときだけ使うとあり、辰韓―後の新羅―でも同様で、牛馬を使う場合も車をひかせるためであって、高句麗のように戦闘には使っていない、とのことでありました―『日本古代試論(大和書房)』―。
 高橋富雄さんが力説するように糠部の駿馬が軍馬として優れているというのであれば、やはり新羅系ではなく高句麗系のそれであったと思うのです。
 もちろん、高橋富雄さんはあくまで「エゾ馬」であるとして、一騎当千のエゾ馬とその民の強さを力説しているわけですが、それを否定しようというのではなく、エゾ馬自体がそもそも高句麗由来のそれ、あるいは同系種であったのではなかろうか、と私は思うのです。
 もっといえば、陸奥において蝦夷とよばれていた存在の主体が、それら同種の馬産文化を継承していた人たちであったのではなかろうか、と考えているのです。
 糠部の馬文化が栗原同様、高句麗由来の信濃系のそれであるとしたならば、もしかしたら、豊臣秀吉の天下統一後の九戸一揆の首謀者「九戸政実」が、わざわざ栗駒三ノ迫―栗原―で斬首されたこととも関係があるのかもしれないと疑っております。
 そもそも九戸一揆を“一揆”と呼んで良いのかという疑問もあります。秀吉の天下統一は、一般に、小田原北条攻めの勝利をもってそれが成ったように伝えられており、歴史の教科書におけるその後の戦乱は「一揆」という扱いに矮小化されておりますが、その鎮圧に動員された兵力は六万を超え、一説に十万ともいわれる大軍でありました。
 しかもその面々は関白秀次を総大将に、浅野長政、蒲生氏郷、徳川家康といったオールジャパンの正規軍であったのです。
 その規模と質からみて、おそらく真の目的は既に秀吉に恭順の意を示しておきながら相変わらず不穏な動きをみせていた独眼竜伊達政宗への威嚇であったものと思われますが、思いのほか食い下がったのは南部の反乱分子「九戸政実」でありました。
 南部一族最強の実力をもつ政実は、南部二十四代晴政との関係を悪化させていた晴政の養子信直が当主の相続に成功したことを苦々しく思っておりました。政実が信直の直接討伐に動くのは時間の問題であったのですが、機を見るに敏な信直は、早々に秀吉にとり入って身の安全を担保したのです。秀吉は信直を南部の宗家と公認し、政実を反乱分子とみなしました。
 この政実について、実は南部一族ではなかったのではないか、という意見もあります。
 『日本史大戦略』なるブログを主宰する稲用章さんによれば、政実の地元の九戸では、政実は小笠原氏の子孫である、という説が根強く残っているのだそうです。
 稲用さんは、それを補強する史料として江戸時代に書かれた『九戸軍談記』なる書物を取り上げております。そこには、九戸城の戦いの前哨戦である姉帯城の戦いの際に、政実同族の姉帯兼信が戦場で名乗りをあげたときの次の台詞があるというのです。

「ゆふき惣大将小笠原美濃守正安が子孫左近将監正実が一類姉帯大学兼興が舎弟五郎兼信と申す者なり」

 稲用さんは、元弘三(1333)年―正慶二年―十二月十八日に九戸は結城親朝に与えられたので、九戸氏はその結城氏の子孫だと考えることもできるが、「惣大将」と言われているので「永享十二(1440)年の結城合戦に信濃国守護(惣大将格)として出陣した小笠原政康」という意味ではないか、としております。
 その上で次のように続けます。

―引用―
 『九戸軍談記』は軍記物ではあるが、上記の台詞から、江戸時代になっても九戸家が南部家の子孫ではなく、小笠原家の子孫であることが、民間に知識として残っていたことを表わしていると考えられる。政実が小笠原氏の子孫だというのは信憑性が高いのではないだろうか。小笠原家では嘉吉2年(1442)に政康が死ぬと、その跡目を巡って内紛が起きているので、このとき政康の子の誰か(庶子であり系図に残っていない人物)が九戸に移ってきて、それが政実に繋がるのではないかと私は考えている。

 なるほど、実に興味深いので、その『九戸軍談記』―『南部叢書(南部叢書刊行会)』所収―なるものに目を通してみました。
 すると、稲用さんが引用した部分のみならず、「奥州 ○糠部宮野の城主 小笠原左近将監正實」という表現が随所に見られ、蒲生氏郷と井伊直正から徳川家康と上杉景勝宛てに送られた書状に記された「奥州糠部宮野之城主九戸左近将監正實」の「九戸左近」の後に、わざわざ「○小笠原左近」という注記もなされておりました。この注記がどの段階で差し挟まれたものかはわかりませんが、末尾に「小笠原謙吉 校訂」とありましたので、おそらくその人物が挿入したのでしょう。小笠原姓であることからすると、もしかしたら九戸家を小笠原家であると伝えている火元たる裔孫の方で、多少なりバイアスがかかっている可能性はあるのかもしれませんが、私は、概ね信頼できるのではなかろうか、と考えております。
 小笠原家は、先に触れたとおり、南部氏の始祖とされている「南部光行」の父「加賀美二郎遠光」の子―南部光行の兄弟―長清が、甲斐国巨摩郡小笠原郷を継いで、高倉天皇からその姓を賜った“信濃守一族”でありました。
 稲用さんは「九戸政実の乱」について次のように結論づけております。

―引用―
 もとをたどると南部家の祖光行と小笠原家の祖長清は兄弟だ。平安時代末から鎌倉時代初期の甲斐国(山梨県)の武将加賀美(加々美)遠光の子らである。もし九戸家が小笠原家の子孫だとすると、南部・小笠原ら兄弟の子孫どうしが、それぞれ糠部地方にやってきて、永い期間に渡り勢力争いを演じていて、その総決算が「九戸政実の乱」ということになる。

 なるほど、その通りであったのではないでしょうか。
 信濃守小笠原家の裔孫たる政実は、おそらく糠部を直接的に管掌し得る立ち位置にいたのでしょう。
 『九戸軍談記』には、「其頃正實は天下に並びなき馬の名人也 ○天下に聞得し、馬上の名人也」と評されており、政実は大名並みの領主でありながら、一方で「馬賊の頭目」そのものでもあったかのようです。
 秀吉は何故南部の反乱分子として扱った政実をわざわざ伊達領内の栗駒三ノ迫―栗原郡―まで召し出して処刑したのか・・・。

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 おそらくは伊達領内で執行することで政宗へのけん制をより強める狙いもあったことでしょうが、加えて、まつろわぬ馬賊の頭目は処刑されるという一大デモンストレーションを、信濃系の馬飼いの民らの面前で演じておきたかったのではないでしょうか。

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