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奥州藤原氏の滅亡後、いつの頃からか駿馬の産地「糠部(ぬかのぶ)」を領することとなっていたのは南部氏でありました。 南部氏は、八幡太郎「源義家」の弟である甲斐源氏「源義光」の流れをくむ武田氏の氏族とされているわけですが、奥州南部氏の始祖とされている「南部光行」は、父の「加賀美二郎遠光」から甲斐國巨摩郡南部郷―現:山梨県南巨摩郡南部町―を与えられたことを機に南部氏を称したようです。 その後、奥州征伐の論功行賞により源頼朝から糠部の地を与えられたと伝えられ、すなわち、ここにいわゆる「三戸南部氏―後の盛岡藩南部氏―」が発祥したのだというのです。 しかし、『岩手県史』を信ずるならば、その情報を補強する史料は奥州南部氏の家伝以外に存在していないようです。 鎌倉幕府による当地の支配が文献上にあらわれる最初は、寛元四(1246)年のそれ―『鎌倉遺文』所収6768号「小田部庄右衛門氏所蔵文書」―、すなわち「陸奥国糠部五戸」の正地頭たる「北条時頼―鎌倉五代執権―」が左衛門尉「平盛時―三浦盛時―」に地頭代職を給与した旨を記したそれとされております。 なにやら、少なくとも奥州征伐から半世紀後の糠部を領していたのは執権北条氏であり、その補任を託されたのは三浦氏であって、甲斐源氏系の南部氏ではなかったということになりそうです。 七海雅人さんは、『鎌倉幕府と東北(吉川弘文館)』の中で大石直正さんの2007年の論稿をひいて、「幕府は平泉藤原氏の権限を取り込んで、朝廷に対する貢馬送信の役割を継承していた。国家的な軍事・警察権を保持し、東国を固有基盤とする幕府は、この貢納儀礼を通じて、国制上の位置づけを朝廷との間に確認していたのである」としておりますが、さすれば、糠部は執権北条氏の支配下にあって然るべきといえそうです。やがてそれは、「元寇」という未曽有の国難を経て、いみじくも七海さんが論ずるところの「安達泰盛の東北政策―『鎌倉幕府と東北(吉川弘文館)』―」につながっていくのでしょう。※拙記事:「蒙古の碑―安達泰盛供養説をとった場合の試論―」参照。 司馬遼太郎さんが面白いことを語っております。 ―引用:『街道をゆく(朝日新聞)』より― 「そういう土地がある」 という情報を、鎌倉期のいつのころか、甲斐国(山梨県)巨摩郡南部村に住んでいた人物が耳にして大海に押し出し、いまの八戸あたりの海岸に上陸して冬の過ぎるのを待ち、そのあとじりじりとこの広大な土地を切り従えて行ったのがその後の南部の殿様の先祖だというのである。 私は、時代の推定が困難ながら多分に真実性をもったこの南部伝説が好きで、日本の歴史のなかで冒険的征服ということが存在した唯一の例ではないかとおもわれる。 豊臣期に大名として公認?される南部家は、徳川期にもっともらしい草創期をこしらえたが、それによると源頼朝から封ぜられたと言い、決して先祖は馬賊の頭目のようなものではないという印象をあたえるようにしつらえてある。 が、これはあやしい。むしろ、 「承久元年(一二一九)十二月、甲州を発し・・・」 という伝承のほうが、真実性がありはしまいか。大船に乗り、その人数は七十五人だったとも言い、ただの八騎だったともいうが、おそらく八騎であろう。 司馬さんは甲斐源氏の流れを自称する南部の家伝を信じていないようです。 司馬さんに限らず、研究諸氏の間にも甲斐源氏系譜は北奥支配の正当性を主張せんが為に創作された家伝とみる論調を少なからず見かけます。 ただ「馬賊の頭目」という意味では、そもそも甲斐源氏自体もその属性を有する一党であったものと考えております。 おそらく、元弘元(1331)年に勃発した「元弘の乱」の際、南朝勢力の陸奥守に就いた「北畠顕家」に従い糠部入りした「波木井南部氏」の「南部師行」のイメージ、すなわち八戸に「根城」を築き、糠部一帯を支配するようになった彼のイメージを、「源頼朝」ないし「北条時政」と「南部氏初代光行」の関係に置き換えたものが、今に伝わる南部氏の家伝なのではないでしょうか。もしかしたら過去の南朝武士の色への憚りも入り混じってのことなのかもしれません。 いずれ、家伝の真偽がどうあれ、少なくとも南部氏は甲斐源氏の権威を背景に糠部を統治していったのでしょう。 おそらく南北朝の頃に初めて糠部入りしたのであろう南部氏は、あたかも幕末の錦の御旗の如く源氏の白幡を振りかざしながら堂々と馬淵川(まべちがわ)の河口に入り、八戸に根城を築いたのではないでしょうか。 ともあれ、「糠部駿馬」の初見が奥州征伐の戦後処理中の文治五(1189)年九月十七日―『東鑑』―にまで遡るとあらば、奥州藤原氏の時代には既にそれがブランド化されていたことになるわけですが、そのような特殊なエリアに溶け込みすんなり統治できたからには、やはり「馬賊の頭目」的要素があったのでしょうし、むしろそれであればこそ、南部氏は中・近世を通じて馬産業を背景にした北奥における支配者の地位を維持し得たのではないでしょうか。
このことは、仙臺藩の伊達政宗や久保田藩―秋田藩―の佐竹善宣が真田幸村の遺児を匿ったことと同根の事情があったものと私はみております。 すなわち、仙臺藩や久保田藩―秋田藩―は、各々領内に栗原郡なり由利郡といった、古来馬産に精通した信濃系移民の土着する地域を抱えていたわけですが、おそらくは軍事的に重要なその特殊な馬産集団の手綱を握る上で、古来信濃牧監一族の裔とも言われる真田家の子孫を保護することは極めて有効であったのではなかろうか、というのが私の仮説でありました。 こと信濃系の馬産地域においては、すべからくそのような特別な事情が推察されるものとみるのです。※拙記事:「伊達家による真田幸村遺児保護についての試論」参照。 |
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寛保三(1743)年に書かれた『日本最初奥州宮城郡荒野ノ里馬攊神由来記』に、次のような記述があります。 〜陸奥ハ日本六拾餘州乃内馬生(産)第一にして中でも宮城郡荒野の牧に出生の駒は其性第一なるを以て同郡多賀城の任官時の按察使兼陸奥守國分寺の西門荒野乃里に於て其駒を相し選みて年毎に時の帝に奉りし事、我朝にて牧場の駒を選み帝に奉り始元なり〜 すなわち、日本全国の内でも最高品質の駒は古来宮城野原のそれであり、牧場の駒から選びぬかれて時の天皇に奉納されるシステムのパイオニアでもある、といったところでしょうか。 その約30年後の明和九(1772)年―安永元年―に完成した『封内風土記』には、仙台藩領内の名産物を列挙する「土産」の項において、「所在出。駿馬尤多。栗原郡所出爲佳。」とあり、栗原郡産の駿馬の優れていることが特筆されております。 最大公約数的に鑑みるならば、これは、遠ノ朝廷たる陸奥國府多賀城なり、駒市場の震源地的な側面をもつ陸奥國分寺にほど近い宮城野原が、古来、栗原産から選びぬかれた駒の、いわば生簀(いけす)のような場所になっていたことを意味しているかに思えます。 一方で、中世史に造詣の深い識者に奥州馬を語らせたならば、おそらく圧倒的に「糠部(ぬかのぶ)の駿馬」という語彙が飛び交うことでしょう。したがって、宮城野原産なり栗原産なりを“最高品質の奥州駒”などと力説したところで、むしろ違和感を増幅させてしまうだけかもしれません。 もちろん、馬櫪神御由来記にせよ封内風土記にせよ、いずれも仙臺領内発のものなので、多少なり手前味噌の要素はあることでしょう。 とはいえ、栗原にはかの「善光寺」の縁起において「日本三善光寺―信州・甲州・奥州―」として並び称された「奥善光寺―奥州善光寺―」がありました。 奥州藤原氏の滅亡とともに衰退したものか、明治の廃仏毀釈で廃滅せられたものか、今は簡素な堂宇と地名にその名残を残すのみなのですが、吉田東吾の『大日本地名辞書』によれば、本田善光の子善佐が秦川勝と共に信濃水内郡の阿弥陀如来の尊容を写させて、それを、推古十一年に聖徳太子の命によって栗原に安置した、という旨の縁起があったようです。※拙記事:「栗原誕生――エピソード2:善光寺縁起――」参照。 なにやら、勅旨牧を有した信濃と当地との密接な関係を窺わせます。 また、藤原頼長(1120〜1156)の日記である『台記』において、久安四(1148)年と仁平三(1153)年に陸奥高鞍―栗原郡―の地から馬と鞍を献じた旨の記事があることも無視できません。 では、奥州馬産地の代名詞ともいえる糠部―青森県八戸市周辺―の実態はどうなのでしょうか。 「糠部郡」なり「糠部駿馬」の初見は、各々『東鑑』の文治五(1189)年九月三日条、および同十七日条となっております。つまり、文献上栗原馬の献上記事が先に現れているとは言えます。 ただ、それは単に糠部なるエリアが律令なり中央政情に組み込まれる時期の遅かったが故とみるべきで、もしかしたら古来知る人ぞ知る蝦夷の隠し馬柵の聖地であったものが、俘囚長を自称する奥州藤原氏を滅ぼした鎌倉幕府の支配によって、初めて表に出てきただけであるのかもしれません。 例えば高橋富雄さんは、『平泉の世紀(講談社)』において、『扶桑略記』にみえる『続日本紀』養老二(718)年八月十四日条の「出羽並びに渡嶋のエゾ八十七人が来て、馬一千匹を貢上した〜」という記事を重視しております。 1000頭からの大量の馬であることから、これを珍品の「朝貢」とは一線を画す実用・実益のための政府用軍馬・乗馬としての取引であったとみて、馬飼い産業の“エゾ”が、米作り農業のヤマトの律令国家と「貿易」をする経済の民であったと主張するのです。 同時に、それはその頃既に糠部においても馬の売り手側としての同様の動きがあったことを示唆する記事ともみているようです。 高橋さんは、『東鑑』文治五(1189)年九月条で源頼朝が奥州から連れ帰った奥州駒30疋のうち、おそらくその中から選ばれて京都に特別に貢上されたであろう20疋についてはもちろんのこと、他のすべても「糠部駿馬」とみており、加えて、鎌倉と言わず京都と言わず、市場ではその中の特定産地、すなわち糠部地方の中でも「三戸立ち」「七戸立ち」などといった「戸立ち」を確認して名馬の極めつけ―ブランド化―をしていたところに、「馬飼いの国糠部郡村づくりの確かさが裏書きされるのである」としております。 ついぞ仙臺領内発の史料が絶賛する栗原産の名馬との優劣が気になってくるところではありますが、そもそもその“馬飼い産業のエゾ”なる民俗自体が、私論上の栗原の信濃系馬産民と極めて近い人たちであったのではなかろうか、と勘繰ってみる価値もありそうです。 つまり、奥州藤原二代基衡あたりが、摂関家の荘園と化してしまった栗原の人馬の一部を極秘裏に奥地の糠部に分け、糠部地域一帯を秘密戦略特区化して奥州十七万騎の担保にしたということはなかったか、という仮説を立ててみたいのです。 先の『台記』における久安四(1148)年と仁平三(1153)年の陸奥高鞍―栗原―に関する記事は、同地を含む「奥羽五箇荘―高鞍(宮城県栗原地方)・本吉(同本吉地方)・大曾禰(山形県村山地方)・屋代(同置賜地方)・遊佐(同庄内地方)―」の年貢の増徴に関して、惡左府藤原頼長と奥州藤原二代基衡が熾烈な駆け引きを繰り広げた顛末を書き残したものでありました。 奥羽五箇荘の権益は、頼長が父の関白藤原忠実から継承したものでありますが、これらの庄に関わる年貢の増徴に関して、最終的に妥協案を受け入れたとはいえ、奥州藤原二代基衡は頑なに拒否し続けていたのです。 ところで、ここでの荘園年貢において、貢馬が共通項目であったことには注意を要します。 信濃の望月牧に限られるようになっていた勅旨牧からの貢馬なり、「駒牽(こまひき)」なる朝廷行事、その観閲のための天皇の出御もなくなってきていた平安末期というその時代にあって、陸奥國からの貢馬がその伝統を継ぐ国家的行事となっていたようだからです―高橋富雄さん『奥州藤原四代(吉川弘文館)』参照―。 高橋さんは、貢馬が律令国家への服属のあかしであるという古い建前が形式と化していた中で、これを国司層と摂関家との私的な保護関係をも儀礼的に取り持つ形式になってきたらしい、とみて、無冠の野人の貢進の例が全くないことから、「(奥州)藤原氏の、事実における奥羽支配者としての地位はほぼ彼(二代基衡)の時代に固まった」、としているわけです。 それはそれとして、このことは陸奥の馬産文化が信濃の特別なそれを継承するものであったことの証左に他ならない、と私は考えております。 そこで話を戻し、糠部の駿馬文化が栗原の駿馬文化の血統を継いだ可能性について考えて見たいと思います。 たびたび述べているとおり、私論上、栗原のそれは天武天皇の政策に基づいた信濃のそれ、すなわち亡国の高句麗系渡来人の騎馬文化を受け継いできたものということになります。 したがって、ひとまず高橋富雄さんの見解とは相容れなくなるということになってきます。 何故なら、高橋さんは糠部の駿馬たるエゾ馬を古来日本の在来種とみているからです。 そのことと関係があるのか、日本三駒のひとつとされている「八幡“馬”(やわたうま)」が、他の「木ノ下“駒”」、「三春“駒”」と異なり、「駒」ではなく「馬」と称して憚らない事実があります。 一応は、八幡馬の本来のかたちが台車の上に大小の親子馬が乗っているものであったがため「子馬(こま)」という表現はあたらない、という理屈がつけられているようですが、もしかしたら暗に「高麗(こま)」と区別したい意図でもあったのかもしれない、という勘繰りも芽生えます。 このあたり、引き続き考えていきたいと思います。 |
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庭の紫陽花が咲きました。 一週間くらい前から、何か白い花が朝日を浴びて煌めいていることには気づいておりましたが、あらためて近寄ってみると、紫陽花でした。 梅雨の風物詩たる紫陽花・・・。 他の紫陽花はとうに枯れているというのに・・・。 彼岸も過ぎて、昨日の仙台の気温は十月下旬並みとも聞きました。 なにゆえ富士山の初冠雪のニュースすら聞こえてきたこの時期に・・・。 先日までの雨続きの日々にでも騙されたのでしょうか、来年の梅雨を待たずして開花しました。 紫陽花の花は学術的には花ではないらしいので、“開花”の表現は正しくないのかもしれません。 それでもあえて“花”と表現しておきます。 なにしろ枯れても散ることのない“花”・・・。 きっと吉兆に違いありません。
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先日、結婚式に招かれ、石巻に赴きました。 式場となる石巻グランドホテルに入り、受付の手続きのために二階待合ロビーに上がると、安政(1854〜1859)頃の石巻港の絵図が焼き付けられた陶板が壁面に飾られておりました。 つい見入ってしまう私ですが、ふと、日和山の南麓に目がいきました。 通称「鰐山(わにやま)」と呼ばれる丘陵地の一角を成す日和山、その南西麓に現存する「赤坂神社」がはたしてその時代にもその地に鎮座していたものか・・・。 なにしろ「赤坂」はワニ系氏族に関わりの深い言霊でもあります。 奈良県天理市―大和國添上郡和爾―に「和爾坐赤坂比古神社」なる大社がありますが、『大和志料』に「祭神赤坂比古命何神ナルヲ知ラス、蓋シ和珥氏ノ祖神ナラン」とあり、「赤坂比古命」が和邇氏の氏神たる旨が伝えられております。 宝賀寿男さんは『和珥氏(青垣出版)』の中で、これを和邇氏の実在の祖として名の挙がる「押彦」のこととみており、系譜記事からみてこれが「忍鹿彦―稚押彦命・和邇日子命―」のこととうけとれるものとしております。 さすれば、「赤坂」の言霊を冠した神社が、仮に中世以前からこの石巻の「鰐山」にあったのだとすれば、「鰐山」の俗称は一部で言われるような山容に因むものではなく、「忍鹿」と同訓の「牡鹿連」の氏姓を賜った陸奥國大國造「道嶋宿禰嶋足」を輩出した「丸子(わにこ・まるこ)氏」に因むものであったことを補強し得、また、同地が「牡鹿郡」の郡衙として機能していた時期のあった可能性をも高めるものと考えているのです。 ただ残念ながら、件の絵図において「赤坂神社」は確認できませんでした。 ちなみに、昨年「石巻アーカイブ」地図研究会から発行された『石巻古地図散歩』所載の享保二十(1735)年頃の絵図や天保十(1839)年頃の絵図、明治から昭和にかけての各地図においても赤坂神社の存在は確認出来ておりません もちろん、享保以降の絵図中にそれが確認されたとしても、中世以前から存在した証には全くならないわけですが、一応は確認してみたくなります。 実は昨年の秋、私はこの赤坂神社に参拝しております。 ただその頃は「鹽松勝譜をよむ」シリーズの執筆に専念していたので、特に触れないままに忘れておりました。 ともあれ、訪れたのは昨年秋ですが、その存在に気づいたのは平成二十二(2010)年の夏ごろでありました。具体的には拙記事「牡鹿の中枢はいずこ」を投稿した後くらいで、昭文社の『街の達人でっか字仙台宮城県便利情報地図』で周辺の地図を眺めていたときでありました。 当該地における赤坂神社の存在は、鰐山地名和邇氏由来説をとる私としては当然看過できないものでありました。 しかし『封内風土記』や『宮城縣神社名鑑』、『石巻市史』で確認してみても全く記載がなく、当地周辺に縁ある方々に尋ねてみても要領を得ず、これはひとまず現地を踏むべきであろう、とは思ったものの、なにしろ石巻市立女子高と門脇小学校の間の細い裏道にあるため胡散くさい中年男がカメラを持ってウロウロしていたら通報されそうな気がして躊躇しておりました。 そのうちに東日本大震災が発生してしまいました。 一帯が大津波に呑まれて壊滅し、閉校を余儀なくされた門脇小学校などはメディアで震災遺構の代表のような扱いとなりつつあったので無関係な私はますます近づきづらくなってしまったのです。 なにより、公私において多少なり縁のあった一帯のよく見知った風景の変わり果てた姿を見るのが怖くなってしまった自分がいたことも事実です。 つまり、震災以降に初めて石巻を訪れたのが昨年秋であったというわけですが、いざ訪れてみると、案の定一般車両の通行規制などでかつての地理認識がほとんど通用しなくなっていたのでおろおろと惑うハメになりました。 門脇小学校周辺に到着してみると、さすがにもう震災瓦礫はほとんど見当たらず、新しい街路なども整備されつつあり、あたかも新規宅地造成地のような体となっておりました。 目的の赤坂神社は多少なり高い場所にあったためか、津波の爪痕はなさそうです。 鳥居や参道のつくりに比して控えめな祠がぽつりとあるだけでしたが、祠を彩る色使いにはそこはかとない気品が漂って感じられました。 その小さな祠をみて、もしかしたらかつては私有地に祀られた邸内社の類であったのかもしれない・・・そんな想像がよぎるのでした。
いずれ、そこに赤坂神社が鎮座している事実は、少なくとも鰐山のワニが丸子氏に因むことを補強し得ることには違いないものと考えております。 |
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中世の多賀國府がどこにあったのかについては諸説ありますが、江戸時代に流路を変えられた冠川(かむりがわ)―七北田川(ななきたがわ)―の新旧の分岐点付近―多賀城市新田(にいだ)付近―とみる説が特に有力とは考えております。 ただ、留守氏の家伝である『奥州餘目記録』に「にかたけの郷を宮城本郷と申」という記述があり、宮城郡そのものの起点が苦竹にあったことも間違いなさそうで、時期によっては同地に國府があった可能性も消し去れないようには思います。少なくとも藩政時代には仙臺城下に物資を運ぶための梅田川を利用した曳き舟による物流拠点がそこにあったといいます。 ともあれ、冠川は、新旧流路の分岐点より上流には川舟が遡ることが出来なかったのだといい、故に当時の河口であった湊浜からの商人船などもそこで荷揚げせざるを得なかったものとみられております。 すなわち、陸揚げ港と市場―冠屋(かぶりや)市場―がそのあたりに開かれていたと考えられる所以であるわけですが、中世の奥州においてはもっともヒト・モノ・情報の行き交う繁華な地域になっていたのではないでしょうか。 さすれば、冠川に沿う岩切から福室にかけてのそのエリアに、宮城郡の名神大社たる志波彦神―冠川明神―が勧請され、南朝の皇子を供養する西光寺のような寺が開かれたのも、その都市的な引力に引き寄せられたからに相違ないとも思うわけです。 そのような一角に、「安楽寺板碑群―南安楽寺古碑群―」と称された古碑群があります。 同地に赴くと、すぐ側に「安達昇板金」や「安達荘」などの看板が目に飛び込みますが、元寇の直後に陸奥守に就任した安達泰盛がいわゆる蒙古の碑に関わっていたとあらば、もしやこの古碑群にも安達一族が関係していたのだろうか、などとも想像させられます。 「南安楽寺」なり「北安楽寺」なる地名から、おそらくはかつてそういった名称の寺がこのエリアに存在していたのでしょうが、もしやその「安」の文字も安達姓に関係するものであろうか、などとも頭をよぎり、さすれば奥州藤原氏供養の色合いを垣間見せる謎の「安養寺」ともなんらかの形でつながってくるのだろうか、などとも連想してしまうわけですが、『多賀城市史』所載の大石直正さんの論によれば、「安楽寺とは、安楽国、すなわち西方浄土を意味する寺号」であって、「七北田川の南北安楽寺の河原は鎌倉時代には春秋の彼岸念仏が大規模に営まれるところであった」のだそうです。とりあえず安達の「安」とは全く関係なさそうです。 『多賀城市史』によれば、これらの碑は七北田川改修により堤防その他から集められたものと伝えられているようですが、改修とは江戸時代の流路変更のことでしょうか。 はたして、安楽寺の境内に建てられていたものが川沿いに散在していたものか、あるいは、七北田川の河原も含めて安楽寺の境内であったのか、いずれ明治の廃仏毀釈を待たず、その時代には既にこの寺は荒廃していたのでしょう。 さて、西方浄土云々の信仰か否かはどうあれ、私が気になるのは、筑紫―福岡県―の「太宰府天満宮」の別当寺の名称も「安楽寺」であったということです。 この筑紫の安楽寺は、単に太宰府天満宮の別当寺という位置づけにとどまらず、そもそもその前身とでもいうべき存在であったようなのです。 言わずもがな、太宰府天満宮とは菅原道真を祀る社です。 謀略によって筑紫大宰府に左遷されていた「菅原道真」は、死後、門弟の「味酒安行(うまさけやすゆき)」によって政庁北東の「安楽寺」に葬られたわけですが、後に道真が激しく祟りを為したがため、それを鎮めるために安楽寺に眠る道真の亡骸の上に社殿が造営されて祀られたのがその創始といわれております。 はたして、安楽寺は道真が葬られたことを機に建立されたものか、あるいは既存の安楽寺なる寺に道真が葬られたのかは定かでありませんが、なにしろ「遠の朝廷(とおのみかど)」たる大宰府の北東鬼門の方位に位置していることから、多賀城における荒脛巾(あらはばき)神社や鹽竈神社のごとく、なんらかの地主神がそこには祀られていたのではなかろうか、という推測も頭をよぎります。 太宰府天満宮のHPには、「御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました」とありますが、そこが古来なんらかの忌々しき地であったことを示唆している由緒のようにも思えるのです。 江戸時代、幕府による東照大権現の創出は諸国に忖度の波を広げ、天ツ神を祀る社が次々と菅公天神に塗り替わっていったらしきことは度々触れておりますが、塗り替えられた天ツ神の多くは、おそらくは男系の太陽神、すなわち、天照御魂神たる饒速日(にぎはやひ)命であったものと推測しておきました。 なにしろ天満宮の「天満」という言霊は菅原道真に贈られた神号の「天満(そらみつ)大自在天」に由来すると言われますが、古来「そらみつ」は「やまと」にかかる枕詞でもあり、いみじくも饒速日命に由来するものであることが『日本書紀』に明記されております。 加えて、太田亮の『姓氏家系大辞典(角川書店)』で「安楽寺」という姓をひいてみたところ次のような情報も見つけました。 筑前の安楽寺別当は代々道真の子孫が相続していたことが菅家系図にみえるとのことですが、私の好奇心を刺激したのは、大和の安楽寺氏です。 清和源氏多田氏の一族とされているこの系譜は、建保年間(1214〜1219)に満仲の九代高頼の嫡男経實なる人物が大和國廣瀬郡に入り、後に山邊郡に移っている、というのです。この情報元について、太田亮は「安楽寺和尚等物に見ゆ」としております。 少し前、私は『いかるが―後編―』と題した拙記事で、大和川水系が一筋に収束して生駒山地と金剛山地の間隙を河内に放たれる聖徳太子ゆかりの斑鳩(いかるが)の周辺は、古来龍田の風神と廣瀬の水神が祀られてきた大和盆地の防衛ラインの要衝でもあり、『先代旧事本紀』に記されたところの「哮峯(いかるがみね)」がここであったりはしないだろうか、という旨の推測を掲げておきました。 『先代旧事本紀』によれば天神(あまつかみ)の御祖(みおや)―祖先神―から十種(とくさ:あるいは十一種)の天璽瑞宝(あまつしるしのみずのたから)を授かった饒速日命は、河内の國の河上の哮峯(いかるがのみね)に天降ったといい、瑞宝はその後大和の国の山辺(やまのべ)の郡の布留高庭(ふるのたかにわ)なる石上の神の宮に遷し奉られたとされているわけですが、奇しくも大和の安楽寺氏はその経路を辿っていたようにも見えます。 斑鳩の地が、仮に白村江の戦いの大敗を受けて防衛ラインとして強化されたという見方をするならば、大宰府政庁の北に隣接する大野城もまさにその目的の遺構であり、東照大権現創出に対する忖度による塗り替えの要素はままあれど、道真天神信仰のそもそもの底流にもなにか饒速日命に対するそれと相通ずるものが地下水脈のように流れているように思うのは誇大妄想でしょうか。 いずれ、七北田川―冠川―沿いに存在していたと思われる安楽寺は、古代多賀城にせよ中世多賀國府にせよ、もしかしたら大宰府にならって国衙を守護する立ち位置として建立されたものであったのかもしれない、などと、つい感慨にふけってしまうのでありました。 |



