はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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 関東甲信越地方では梅雨が明けたと発表されました。
 仙台はこれからが梅雨本番だと聞きますが、ここのところは夏のような暑い日が続いております。
 散歩に目覚めた私は、炎天下対策にコンビニエンスストアで購入した帽子をかぶり、JR東北線の国府多賀城駅に立っておりました。

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 現在は仙台市宮城野区蒲生に注ぐ七北田川(ななきたがわ)―冠川(かむりがわ)―ですが、江戸時代に流路を変えられるまでは多賀城市新田付近から左に折れて東流し、下流については多賀城市八幡(やはた)から七ヶ浜町湊浜に注ぐ、ほぼ現在の砂押川の流路であったのだといいます。
 しかし、砂押川に至るまでの流路についてはやや混乱が見受けられます。
 例えば、先に拙記事「冠川の甲羅干し現場」に引用した『仙台市史』所載の図において、「通史編2古代中世」のそれと「通史編3近世1」のそれとでは齟齬があります。
 すなわち、前者は冠川稲荷より下流側、後者は上流側において現在の七北田川流路と別れております。

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『仙台市史通史編2古代中世』所載の図

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『仙台市史通史編3近世1』所載の図

 なにかスッキリしないままでいた私は、『多賀城市史』所載の「多賀城市付近の地形区分」の図に着目しました。

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 NHKの『ブラタモリ』の中で、タモリさんは時折「土地が記憶している」旨の発言を繰り出されますが、「けだし名言」だと思います。いみじくも、自然堤防の展開をみればおおよそは推測できそうです。
 加えて、もうひとつ私が注目したのは「袋」という地名です。おそらくそのあたりに水の滞留するスポットがあったのでしょう。付随して流路の蛇行も推察されます。
 それらを鑑み、私が想定した流路はこうです。

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 まず、新田浄水場あたりから現存する用水堀のルートとなり、それが岩切駅から南下してくる道筋と接するあたりから市民農園付近を並行する用水堀にシフトし、自然堤防の隙間をぬって山王小学校方面に流れていたのではないでしょうか。
 その後、現在田園地帯となっている自然堤防に囲まれた後背湿地に解放されると、やや暴れ川気味に東流し、対岸の自然堤防の隙間をぬって砂押川に抜け出ていたのではないでしょうか。

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 あやめまつりの駐車場に車を置いた私は、国府多賀城駅から岩切駅までを鉄路で移動し、そこから自らの想定に基づいて歩き始めました。

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震災が生んだ奇跡のハイブリッド気動車には乗り損ねました。

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新田浄水場と水神碑
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堰と用水堀への取水口
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用水堀のある風景
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山王小学校と田園地帯
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三陸自動車道と仙台臨海鉄道と砂押川
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 開発された一面の水田地帯にあって、さすがに自然堤防の起伏を五感で体感することは出来ませんでしたが、国府多賀城駅まで戻ってきた私のスマホの万歩計は久しぶりに10,000歩を超えておりました。
 本来の目的が「歩くこと」でありますので、ここは満足しておくべきでしょう。
 ここ最近、折からの運動不足に加えて歴史探索が減ってきていることもあって、如実に体重が増加しております。
 これまでの人生ではじめてBMIの計算上いわゆる「肥満」の域に達していることに気づいたわけですが、青少年期には必死に体重増加をはかってもなかなか太れなかった私が、まさかこうも簡単に体重が増えていくとは夢にも思いませんでした。
 なにより、数値上の問題もさることながら、疲れやすさや腰痛も無視できなくなってきているので、さすがに意識して歩くことにしました。
 さて、どこを歩こうか・・・。
 すぐに浮かんだのは、七北田川(ななきたがわ)―冠川(かむりがわ)―の堤防でした。私の歴史探索の原点ともいえる岩切から福室にかけての七北田川、その堤防に沿って整備された遊歩道の景色には心身ともに癒されます。
 七北田川というキーワードが思い浮かんだ時、ふと、いにしえの冠川の流路でもある多賀城市八幡(やはた)の砂押川沿いの遊歩道を歩いてみるのも良いかもしれない、と閃きました。
 結局多賀城に向かうことにした私は、途中「多賀城跡あやめまつり」のノボリに目を奪われました。
 これまで数えきれないほど多賀城を訪れている私ですので、路傍のあやめ園が例年のこの時期に華やかに彩られている風景も、とりあえず通りすがりには眺めておりました。
 せっかくだからこの機会に立ち寄ってみよう――。
 というわけで、生まれて初めて旬のあやめ園をゆっくり歩くことにしました。
 梅雨時の花、というと、私は真っ先に紫陽花が頭に浮かぶのですが、かつて、飛び込み営業やポスティングをしていた頃、鬱々とした長雨に傘をさせども濡れそぼちつつ、チラシだけは濡らすまいと憂鬱な思いをひきずりながら歩き続けた私にとって、民家の庭先に咲く鮮やかな紫陽花はせめてもの癒しでした。曇天の薄暗い風景にひときわ輝いてみえたのは、多分に私の心理状態によるところが大きかったのでしょうが、心なしか、あやめの青紫にもそれに通ずる感覚を覚えました。
 天候にもそこそこ恵まれたこの日、あやめを撮影していて思ったことは、単にこの花を美しく撮りたいと思うのなら、むしろ雨露がしたたる鬱々とした曇天の方が向いていたのかもしれない、ということでした。
 しかしそういう日であったならおそらく外出する気にもならなかったわけで、私はこの場を歩いてはいなかったことでしょう。なんとも皮肉なものです。

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 あやめ園を後にして、JR仙石線の多賀城駅前に立ってみた私は、その変貌ぶりに驚きました。
 この地に自分の足で立ったのはいつ以来でしょうか。七ヶ浜町方面への路線バスが出ているこの駅前ですが、30年ほど前に同町に住まわれていた大学教授を訪れた時以来であると思います。
 仙石線の立体交差化に伴う周辺街区の区画整理や、もしかしたら東日本大震災での被災も関係したのでしょうか、かつての田舎じみたものからは一変して、だいぶ都会的な雰囲気になっておりました。

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多賀城政庁をイメージしたものと思しき駅舎もなかなか洒落ております。
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駅前広場に建てられてモニュメントは、多賀城碑の覆屋(おおいや)をモチーフとしているものらしく、多賀城市内を襲った津波の最大の高さ6メートルに合わせてあるようです。
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津波浸水区域図をみると、末の松山が浸水を免れていたことがよくわかります。
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 かつて多賀城を壊滅させた貞観の大津波は、冠川を遡上した海嘯であったと思われますが、先の東日本大震災においてもやはりこの川を遡った海嘯が多賀城市内を呑み込みました。
 いにしえの冠川たる砂押川沿いを歩いていると、どうしてもそのことを考えてしまうわけですが、同時に、奈良期における国内三大都市の一角を支えていたのもこの川であったのだ、と感慨深くなってくるのでありました。
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 仙台市内には、「弘安(1278〜1288)」の年号が刻まれて、「蒙古の碑」、ないし「モクリコクリの碑」などと呼ばれる板碑の類が散見されます。
 とりわけ、青葉山の東北大学植物園内に現存するそれについては、被供養者のことと思しき「陸奥州主」なる文字が銘文中にみえ、それを元寇と対峙した八代執権北条時宗の右腕として絶大なる人望を集めていた御家人、かつ陸奥守でもあった「安達泰盛」を指しているものとみる説があります。
 なるほど、泰盛が霜月騒動によって討たれた時期や、陸奥守でありながら逆臣として討たれたが故にその供養が文保元(1317)年頃まで禁忌であったとされていた事情は、蒙古の碑と呼ばれる一連の碑の被供養者が謎めいていることとも符合します。
 とりあえずその説自体は『仙台市史』によって認知しており、極めて興味深い説なので以前「安達泰盛の供養」と題して記事も書いているのですが、先日拙記事「牧嶋観音堂」他にコメントを寄せられたA氏の御教示によって、それが七海雅人さんの説であったことをはじめて知りました。
 ウェブで検索してみると、御教示の論文「鎌倉幕府御家人制の展開過程」の要旨が見つかりました。
 それは、七海さんが平成十一(1999)年十月二十一日付で博士号の授与に至った審査の要旨を記録した目録で、――補論二「『蒙古の碑』ノート」では、東北大学理学部附属植物園内に立つ、いわゆる「蒙古の碑」(「弘安第十歳二月時正第六番」銘板碑)の被供養者「陸奥州主」が安達泰盛 に比定できるという新設を提示する――とあることから、青葉山の蒙古の碑の安達泰盛供養碑説が七海さんによる新説であったことがわかります。
 学位の審査に申請されたと思しき論文内容の要旨そのものの日付は同年の六月二十日であり、すなわち、翌年平成十二(2000)年三月三十一日発行の『仙台市史 通史編2 古代中世』が、出来立てほやほやの七海新説を反映させていたことにも気付きました。
 400宇詰め原稿用紙に換算して1200枚を超える雄編という当該論文は、一応吉川弘文館にて書籍化されているようなのですが、なにしろ定価11,880円と高価なうえに新品では見当たらず、辛うじて中古本が27,000円と高騰しているのが現状のようです。
 いずれ機会をみて拝読して論の詳細を知りたいとも思っております。
 ともあれ、A氏の御教示で特に興味深かったのは、燕沢には「安達一族」が多く住まい、「蒙古碑」に関わった人なども安達氏であり、牧嶋観音堂脇に「蒙古之碑跡」と記した石を建てたのも昭和55年当時町会長を務めた「安達進七」氏であった、という旨の話です。
 それには全く気付いておりませんでした。
 とりあえず私は牧嶋観音堂に足を運び、昭和五十五年建立の現地の「蒙古之碑跡」の記念碑を再確認しましたが、なるほど、たしかに記念碑の裏面には「安達進七」さんの名が見えました。そればかりなら単に町会長であったから、ということも考えられるでしょうが、名の刻まれた計12名のうち、6名が安達姓であったことは特筆に値します。

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 さらに、境内に入ってすぐ右手に設置されていた芳名一覧をみても、観音堂建立に際して寄進した数百名にも及ぶリストには安達姓がひときわ多く見られました。

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 なるほど、もはやこの謎めく供養の主軸は安達一族であったとみて差し支えないでしょう。
 また、仮に安達泰盛の供養碑とあらば、無学祖元の関与も十分あり得たかもしれませんが、弘安五(1282)年の銘のこの碑が、その三年後の弘安八(1285)年の霜月騒動で滅ぶ泰盛一族の供養碑ということはあり得ません。
 しかし、この芳名一覧からみれば、安達一族が関係する碑であったことは間違いなさそうです。いみじくも、弘安五(1282)年は泰盛が陸奥守に就任した年でもあります。
 それにしても江戸時代の天明三(1783)年鹽竈神社の祠官であった藤塚知明による碑文解読や、昭和十六(1941)年蒙古聯合自治主席徳王の参拝などのエピソードで蒙古の碑として代表的なこの「燕沢の碑」がこうであるならば、青葉山に限らず、いわゆる「蒙古の碑」と呼ばれる同時期建立の旧宮城府中の碑のほとんどが安達泰盛に関係するものであった可能性すら高まります。
 仮にそれが肯定さるべきものならば、では、何故これらの碑は「蒙古の碑」などと呼ばれるようになったのでしょうか。
 藤原相之助は、『郷土研究としての小萩ものがたり』の中で藤塚知明の考証以降にそう呼ばれるようになった旨を述べておりますが、はたして、これほど突拍子もない学説がそう簡単に主流の説として後世まで浸透し得るものなのでしょうか。
 一時的な政策的意図に基づくものならば、こうまで浸透することはないでしょう。私は、やはり浸透し得る下地があったからこその現状であると考えます。
 おぼろげながら、弘安年間建立の一連の碑がそもそも「モクリコクリの碑」と呼ばれていた下地があったところに藤塚知明の説が上書きされたかのような話をどこかで見聞きした覚えがあるのですが、もしかしたら石巻の田道将軍碑の偽作説と混同しているかもしれませんし、なにしろ出典を思い出せないので保留しておきます。
 ともあれ、現代に至って蒙古の碑なる解釈への違和感を覚える人が多いのは、おそらく、侵略者たる元―蒙古―の兵が元寇とは直接的に関係のない宮城郡で供養されていたわけがない、という前提が少なからず頭にあるからでしょう。実際そう考えるのが自然だとは思います。
 もしかしたら、藤塚知明なり当時の知識人は安達泰盛に関わる供養碑であることを暗黙に認識していて、その明文化を憚ったのでしょうか。
 いえ、時は江戸時代であるわけで、鎌倉時代に憚られた泰盛供養の禁忌に気を遣う必要など微塵もあるはずがなく、仮に憚ったのだとしても、わざわざ誰しもが違和感を抱きかねない疑わしい内容に捻じ曲げる必要などなかったはずです。
 そこで注目すべきは、A氏の注目した書生「河成允」なる人物なのかもしれません。A氏は藤塚知明の説の出処がこの人物であることに着目しておりました。
 この人物を明らかにすることは未だ叶いませんが、「河」が高麗の姓であるかもしれないということはわかりました。
 太田亮の『姓氏家系大辞典(角川書店)』によれば、薩摩日置郡下伊集院村の大字「苗代川(のしろこ)」には、太閤秀吉の朝鮮征伐の際に一郷まるごと帰降して薩摩のこの地に土地を与えられた高麗の老若男女がいたようで、その中には河姓も見られたようです。
 河成允がその裔孫であったかどうかはわかりませんが、侵略戦争に巻き込まれて祖国を離れざるを得なかった同朋への想いが、時代を越えて元寇の尖兵とされた祖国兵戦没者へのそれと重なり合ったのだとしても不思議ではありません。
 仮にその憶測どおりであったにしても、博学で知られる藤塚知明が河の草稿を無批判に受け入れたのは、そこになんらの違和感もなかったからではないのでしょうか。
 思うに、やはり、まだ馬産王国の名残が濃厚であっただろうその時代の陸奥にあっては、騎馬民族たる蒙古なり高麗なりが現在よりもはるかに身近であって、その供養の碑があったとしても自然に受け入れられたのではないでしょうか。
 また、いみじくも七海さんが『鎌倉幕府と東北(吉川弘文館)』の中で、次のようなことに着目しております。

―引用―
〜泰盛の陸奥守は単なる名国司ではなく、秋田城介の官職と同様、実際に陸奥国の行政に関わる志向性をもっていた可能性も指摘したい。その任官が弘安の役を経た時点で行なわれた点は、幕府の軍事体制の一層の強化という課題と関連づけてとらえられる余地があるからである。例えばそれは、時宗の没後、将軍惟康へ示された政策綱領の一つ、奥羽両国を除いて東国の「御牧(みまき)」(幕府直轄の牧)を停止する、という条項(鎌倉幕府追加法五一九)にうかがうことができる。

 なにやら泰盛は、元寇後の軍事体制の見直しのなかで馬産王国たる奥羽両国の特化をはかっていたことが窺われます。
 以前私は、伊達政宗が真田幸村の遺児を保護した背景には領内の信濃・高句麗系馬産民の手綱を握る目的があったのではなかったか、という旨の試論を記事化しました―拙記事「伊達家による真田幸村遺児保護についての試論」参照―。泰盛にしても同じであったはずと思うのです。
 したがって、その時期に信濃ないし高句麗由来の彼らを慰撫するなんらかの手立てが打たれていたものと考えるわけですが、もしかしたらそれこそが「モクリコクリ―蒙古高句麗―」信仰であったのかもしれない、などとも思うのです。

鹽竈桜の底力

 異常に早い桜前線―。
 本州の“とり”を飾る弘前(ひろさき)―青森県―の桜が見ごろを迎えていると聞きました。
 同地の桜は本来ゴールデンウイークにピークを迎え、それがまた絶好の観光資源となっているわけですが、ここ数年はあまりに早すぎてそれなりに深刻な問題となっている旨の話もちらほら耳にします。
 なにやら残雪を活用して根を冷やすなどして開花を遅らせる対策をしているとかなんとか・・・。
 とはいえ、なにしろ津軽富士たる岩木山のお膝元、残雪の確保にはさほどに苦労もしないことでしょう。

 さて、弘前の桜が早いということは、我らが鹽竈桜も早いということでもあります。
 本来5月初旬に満開となるはずの鹽竈桜、そのタイミングをここ数年逸しがちな私でありましたが、幸い先日―平成三十年四月十八日水曜日―、河北新報朝刊に「社務所によると、今週末にも満開になる見通し」とありましたので、満を持してその晴れ姿を拝むことが出来ました。
 聞き間違いかもしれませんが、この日の塩竈は最高気温が四月の観測史上はじめて30度を超えたのだそうで、駐車場に着くと、例年ならまだ賑やかさを残しているはずの境内の桜の庭園も、早くも文字どおり薹(とう)が立っておりました。

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 いつもように表参道側にまわりこむと、丁度この日は「花まつり」であったようで、鹽竈さまの御神輿が渡御の時を待っておりました。

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 そういえば市中には幟が立てられておりました。
 商店会―氏子(?)―の方々が注連縄に紙垂(しで)を取り付け、道筋に結界を張り巡らせている様子も窺えました。

 それにしても、鹽竈さまの御神輿を目にしたのは実に久しぶりであります。

 かつて、この御神輿の写真を撮ってはいけない、という旨の言い伝えの御教示もありましたので、撮影はやめておきましたが、この名状しがたい豪壮な八角形の威容は、ただそこに佇まわれているだけでも心なしか地鳴りを覚えるほどの凄みを感じました。さすがの荒れ神輿といったところでしょうか。

 さて、心なしかいつもより風通しの良さそうな境内、いよいよ塗りたての廻廊の内に入ると、左右両宮の向かって右、別宮左脇に、朝日に照らされて鹽竈桜が輝いておりました。

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 別宮との組み合わせは絵になります。

 そして廻廊の外、堀河天皇御製の歌のモニュメントが添えられた鹽竈桜も初夏のように強烈な朝日を浴びて華やかに咲き誇っておりました。

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 満開の迫力―。
 ここ数年、いかに私が満開の時期を逸していたのかを痛感しました。
 鹽竈桜はかくも華やかなものであったのか、50枚にもおよぼうというその花弁はあたかも空気をたっぷり含ませたホイップクリームのごとくまるまると膨らみ、まぶしいほどに朝日を浴びて、まるでそれ自体が光を放っているかのような錯覚にすら陥りそうでありました。

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 鹽竈桜の底力―。
 なにかそうとでも表現するしかない神性を目の当たりにしたかのような気分の私は、その神性はきっと良い奇跡を起こしてくれるに違いない、と高揚感を抱き満足げに此度の拝謁を終えたのでありました。

いかるが―後編―

 『聖徳太子の実像と幻像(大和書房)』には、『東アジアの古代文化(大和書房)』102号〜106号の誌上で展開された論争、すなわち、大山誠一さんの聖徳太子架空説に対する研究諸氏の論文が、加筆訂正の上で再構成されて掲載されております。
 その中で田中嗣人さんは、大山さんが712年頃にはまだ聖徳太子像がまったくできあがっていなかった、としていることに対して、693年(仁王会)、694年、年次不詳の、「飛鳥(浄御原)宮御宇天皇」から寄進された仏具・法具・経典が「法隆寺資財帳」に著禄されていることから、この時期既に「斑鳩寺再建の進捗は確かなことである」とし、それは原「聖徳太子」像なしにも可能だったのであろうか、という旨の疑問を投げかけております。
 田中さんは次のような例をあげて畳みかけます。

―引用―
単なる「蘇我系の一王族」の氏寺の被災なら、「衆人寺地を定むるを得ず」の状態(『上宮聖徳太子伝補闕記』)はもっと続いた筈であろう。「大安寺資財帳」を参考にすると、「大安・薬師・元興・弘福の四寺」(『続紀』七〇三年)に準ずる扱い(同上七一五年)は、竣工(七一二年?)ではなく着工に遡る可能性がある。用明天皇の誓願を受けて推古天皇と「聖」の「皇太子」「摂政」とが創建した。この縁起が天皇に認められたからこそ、再建は緒に就くことが出来たのではあるまいか。仁王会のごとき国家の護国法会が挙行され、持統(または天武)の寄進が行われたのはその証であろう。

 なるほど、たしかに法隆寺は“単なる”「蘇我系の一王族」の氏寺ではなかったということなのでしょう。
 とはいえ、だからといってその寄進が必ずしもそのまま厩戸皇子を神格化した原「聖徳太子」像の存在を傍証し得るものとも言えないのではないでしょうか。
 いみじくも“仁王会のごとき”は、ことさらに災厄の鎮静なり国家安泰を祈念することに主旨があるわけで、少なくともなんらかの社会不安に悩まされていたことが推察されます。
 古代にあってそういった社会不安の根源には、とりわけ神罰なり怨霊なりへの畏怖が疑われます。仮に蘇我系の一皇子の氏寺であったにせよ、斑鳩寺―のちの法隆寺―創建の本質に、四天王寺同様の厩戸皇子―蘇我氏―による物部守屋への鎮魂の意図や、後の「飛鳥(浄御原)宮御宇天皇」による蘇我一族への鎮魂、すなわち、当該政権主導の正史において悪玉に仕立てあげられざるを得なかった蘇我一族への公に憚られる鎮魂なり供養の意図が内在していたとするならば、太子信仰の成立を待たずとも同様の寄進は行われていたのではないでしょうか。
 もちろん、それも原「聖徳太子」像に含まれ得るものと言われてしまえばそれまでですが・・・。
 やや構図の似ているものとして、家永三郎さんと古田武彦さんの書簡論争をおさめた『法隆寺論争(新泉社)』にはこんな議論もみられます。
 九州王朝説を提唱する古田さんが、法隆寺金堂釈迦像は九州から運ばれてきたもの、としているのに対し、それは斑鳩で造られたものとする家永さんが、聖徳太子や法隆寺とまったく関係のない仏像が誰にも怪しまれずに再建金堂に持ち込まれて中尊に据えられたことは常識的に考えられない、としております。
 それに対し古田さんは、その考え方では神社仏閣の宝物等に偽物はなく全て本物ということになってしまう、と反論しておりますが、家永さんは、金堂中尊と他の宝物とでは性質が全く異なる、と返しております。
 この議論は、先の原「聖徳太子」像をどこに置くかによって結論が変わってくる性格のもののように思います。
 古田さんの著書にはほとんど目を通していないので間違っていたら申し訳ありませんが、氏はそもそも原「聖徳太子」像を自論上近畿王朝に滅ぼされた九州王朝の中に見出し、法隆寺をそれと関わる寺と考えているように思われます。
 しかしながら、『法隆寺論争(新泉社)』の前編たる『聖徳太子論争(新泉社)』において、家永さんは「古田古代史学の全体にわたる批判は私の能力を超えるので今は述べられないが、法隆寺の銘文は私の専門領域に属し〜」とオブラートに包むように“九州王朝の可否などには及ぶ必要なし”という学界的な立場をとられております。
 さすれば当然ながら、論争内容も考証的局面に限定されるわけで、九州王朝を前提とした古田さんとは永遠に議論が噛みあうこともなさそうです。
 古田さんも意地になったのか、その考え方では神社仏閣の宝物等が全て本物だということになってしまう、という旨のひとくされをぶつけてしまったわけですが、老練な家永さんから、中尊を他の宝物と同列に論ずべきでない、という旨の見事なツバメ返しを喰らってしまったわけです。
 たしかにこれでは九州から持ち込まれたとする仏像は聖徳太子や法隆寺と全く関係のないものと自ら認めてしまったようなもので、おそらく古田さんは自分の意図するところと論点のずれた方向のまま走らざるを得なくなってしまったようにも思えます。
 いずれ、聖徳太子の実在の正否や太子信仰発祥の時期はともかく、その聖地として何故斑鳩(いかるが)―奈良県斑鳩町―の地が選ばれたのかが私は気になっております。
 もちろん単にそこに聖徳太子の斑鳩宮があったからなのでしょうが、では何故太子はわざわざ磐余(いわれ)の上宮―奈良県桜井市―から盆地を挟んだ対岸となる斑鳩を選んで自らの宮を遷したのでしょうか。
 例えば、四天王寺が物部守屋邸宅跡―大阪城あたり―に建立されたことについては、この寺の意義が守屋討伐の誓願の成就に基づくものであるわけですから、それを象徴し得るその地が選ばれたことには必然性を見出せます。
 しかし、斑鳩にはいったいどのような必然性があったのでしょうか。
 それを窺う糸口こそが、饒速日尊の天降りの地を指す「哮峯(いかるがみね)」の言霊にあるのかもしれない、などと私は想像しているのです。
 それはひとまず置くとして、蘇我氏の仏教受容推進の裏に渡来人対策の面があった旨を論ずる田村圓澄さんは、自著の『聖徳太子(中央公論社)』の中で、斑鳩宮の造営にも聖徳太子による対外政策の目論見があったことを説いております。
 すなわち、新羅への外交方針をめぐって親百済の蘇我馬子と聖徳太子が思惑を異にする中で、その衆議の重ねられていた推古九(601)年二月に斑鳩宮の造営が始められたとする『日本書紀』の記述に着目した田村さんは、朝鮮半島、ひいては大陸との接触をはかる目論見で太子がこの地を押さえたものとみたようです。
 田村さんは、聖徳太子には蘇我馬子がおさえていた逢坂越えによる飛鳥難波ルートとは別に、竜田越えによる難波ルートを確保する必要性があったといい、それが斑鳩に拠点を置いた理由とみております。
 『日本書紀』の雄略八(464)年条に、新羅王の要請により任那(みまな)日本府駐在の邦人が新羅侵攻の高句麗軍を撃退したという記事があり、その任にあたった面々の筆頭にはいみじくも“膳臣斑鳩(かしわでのおみいかるが)”なる名がみえるわけですが、田村さんは「大和の斑鳩は膳氏の本貫の地であった」とし、「聖徳太子の妃の一人の菩岐岐美郎女(ほききみのいつらめ:膳大郎女)は、膳氏の出身である。磐余の上宮から斑鳩に宮を移すについて、膳氏の配慮があったであろう」と、聖徳太子と斑鳩の地縁については新羅との旧交があった膳氏を介して生じたものであろう旨を推察しております。

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 あらためて地図を広げてみると、斑鳩は奈良盆地を流れる主要河川のすべてが大和川一筋に収束される場所で、水運に限れば大阪側の河内へ連絡し得る唯一の出入口でもあります。
 いうなれば、奈良盆地を支配するためには絶対に抑えておかなければならない肝の地であったことは疑う余地もありません。
 なにしろ膳氏は阿倍氏の同祖氏族、すなわち大彦命の裔であり、大彦命のその実が大和の先住王者たる長髄彦のことであったならば、その裔孫がこの地を支配していたことは至極当然のことと言えるでしょう。
 なにしろ、記紀や旧事紀において、長髄彦の妹三炊屋媛(みかしきやひめ)―登美夜毘賣(とみやびめ)―は饒速日尊の妻でありました。
 斑鳩エリア周辺の大和川の両岸には、古来龍田の風神と廣瀬の水神が祀られてきたわけですが、地元の語り部を自称する田中八郎さんは次のように語っております。

―引用:『大和誕生と神々 三輪山のむかしばなし(彩流社)』―
 広瀬と竜田の合同の祭祀が何故必要であり、しかも民間地で行なう最高最大の祭祀をしなければならなかったか。その理由の第一は、外国軍による襲撃の防衛対策でありまっしゃろ。朝鮮半島白村江で、日本軍が唐・新羅軍に大敗してから十二年たってましたけど、外交がないので唐軍襲来の恐怖は続きっぱなっしでしたがな。襲来コースは生駒山大和川地帯を突破して大和侵入というのんが決まりの道だったけど、その生駒山地帯の勢力は竜田神であり、大和川水系の勢力は広瀬神になりまんねん。この両勢力が分断せず協力して防備にあたることが大事になりますわ。

 この後に続く文脈であきらかになるのですが、ここでいう生駒山地帯勢力の竜田神は饒速日のことであり、大和川勢力の広瀬神は長髄彦のことのようです。
 さすれば斑鳩とは大和経営を目論む饒速日勢力と長髄彦勢力の同盟が成立したゆかりの地であったものと考えられるわけであり、誤解を恐れずにいうならば、なればこそこの地に饒速日天降りの聖地「哮峯(いかるがみね)」と同訓の「いかるが」が地名として付されたものとは考えられないでしょうか。
 あるいは、この地一帯こそが『先代旧事本紀』に記されたところの「哮峯」であったりはしないでしょうか。いみじくも、この地も河内の國の河上ではあります。
 ともあれ、田村さんの説くとおり、膳氏と縁戚関係を結び竜田越えの難波ルートを掌握することこそが厩戸皇子による斑鳩宮造営の目的であったと思われますが、もしかしたらここで親新羅政策を模索していた厩戸皇子像は、膳氏そのものの投影ではなかろうか、という気もしてきております。

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