はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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慈覚大師の任務

 坂上田村麻呂に制圧された後の陸奥の国において、蝦夷たちの疲弊した精神に対する戦後処理にあたったのが、当時の国家的な仏教でもある「天台宗」であったようです。
 さしずめ、円仁の存在は第二次大戦後のマッカーサーあたりをイメージすれば近いのかもしれません。
 現在の東北地方の人々は、「円仁さん」などと親しみをこめて呼んでおりますが、あくまで想像ですが、もしかしたらその当時は当地にとって必ずしも歓迎すべき存在ではなかったのかもしれません。
 実際、そんなことを想像させられるお話もあります。
 仙台市の奥座敷と呼ばれる「秋保(あきう)温泉」付近に「塩滝不動尊(しおたきふどうそん)」という不動尊があるのですが、ここに伝わる伝承が実に興味深いのです。
 慈覚大師円仁はこの地を訪れ、この霊地に精舎を開き仏法を広めようとしたようです。
 しかし時の領主がそれを好まず、あえて仏法の嫌う生臭物の魚を運んだりして嫌がらせをしたとのことです。
 円仁は落胆してこの地を立ち去り、結局出羽に移り「立石寺(りっしゃくじ・りゅうしゃくじ)」、すなわち「山寺(やまでら)」を開いたというのです。
 おそらく塩滝不動尊あたりを支配していた領主は、古くからこの地で信奉されるなんらかの信仰を頑なに守ろうとしていたのでしょう。裏を返せば、その伝承はいわゆる「円仁」の行動が朝廷の洗脳政策であったことを示唆しております。
 先にマッカーサーで例えましたが、どうしようもない宗教感のすれ違い、ということで言うならば、むしろ現代、難航している米軍のイラクに対する戦後処理でイメージしたほうが近いのかもしれません。

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 ところで私は、この塩滝不動尊の伝承を知るまで、とても不思議に思うことがありました。
 それは、秋保温泉から二口(ふたくち)峠を越えて立石寺(山寺)に至ったという円仁のルートからしますと、そのはるか手前にあたる「秋保大滝」が山寺の「奥ノ院」だとする伝承があることです。
『秋保大滝不動尊縁起』によれば、「大師は二口峠を出羽に越えて山寺に立石寺を創建したが途すがら大滝の壮観と森厳の氣に心をうたれここに錫を留めて不動尊を安置し立石寺の奥の院と」したとのことなのです。
 山寺(立石寺)は、「比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)」との関係においてかなり重要な拠点です。山寺には、比叡山から消えることのない不断の火「不滅の法燈」を移し灯されております。戦国時代、織田信長によって焼き討ちされた比叡山は、逆にこの山寺からその同じ火をわけて戻されたといいます。
 山寺には「比叡山の保険」的な印象がございます。  
 さらに山寺には円仁の入定窟と伝わる窟があります。
 伊澤不忍原著、伊澤貞一編集『山寺百話』によれば、昭和二十三(一九四八)年十一月一日、山形県の史蹟調査員、翌年六月には国立博物館調査課主任小林剛博士、同年十月には小林博士と東京大学人類学教室の鈴木尚博士により開扉調査がなされたとのことです。
 小林博士の発表によれば、棺内の遺骸には頭部がなく、代わりにかなり写実的な木製の頭像が置かれていたとのことです。その頭像は後頭部が平たくなっていたそうで、初めから仰向けで置かれることを前提にして造られたと考えられます。
 結論的には断定は出来ないまでも慈覚大師と結び付けることも不可能ではないレベルのものであったといいます。
 山寺の入定窟については、偉大な師匠でもある「伝教大師最澄」の眠る比叡山に、自らの墓は置くまいとした円仁の意向によるものであったともいわれておりまして、円仁開基伝承をもつ数ある東北地方の寺のうちでも、真実たるものとしては「ここのみ」ではないかとすら思えるほど、この寺には円仁の面影が濃いのです。

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      ↑立石寺五大堂 堂の真下に慈覚大師入定窟があります

 それほどまでに重要視している立石寺であるのに、『秋保大滝不動尊縁起』を信ずるならば、最も肝心な「奥ノ院」の制定は、これを創建するために向う“道すがら”に決定されていたことになります。
 円仁は山寺を創建するための道中で秋保大滝に立ち寄り、その「大滝の壮観と森厳の氣に心をうたれ」たので奥ノ院に定めた、というのですから、実に不思議な話なのです。
 奥ノ院とは、ご神体ともいうべき「祀られる主体」と言っても過言ではありません。
 山寺の地が選ばれた理由は、元々その付近に然るべき拝礼対象(奥ノ院)が存在したからであるはずで、奥ノ院とは寺社建立計画決定後に思いつきで決められる類のものではないと思うのですが、いかがでしょうか。ましてや二口峠を越える円仁のルートからすると「だいぶ手前に」あるのは、あきらかに不自然です。
 それでは『秋保大滝不動尊縁起』は地元の人達の付会なのでしょうか。いや、そうではないでしょう。 その答えは先に述べた「塩滝不動尊」の伝承の中にありました。円仁は当初「塩滝不動尊」の地に精舎を開こうとしておりました。おそらく、“奥ノ院”秋保大滝の手前の霊地という理由で・・・。
 つまり、秋保大滝こそが当初からの円仁の目的だったと私は考えます。
 しかし、当初の寺院開基計画が失敗したので、結局あわてて見直すハメになったのではないでしょうか。

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