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武烈天皇ではありませんが、実は、同じ宮城県栗原の地にはもうひとつ気になる伝承がございます。 築館上宮野の「興福寺」にそれはあります。 『栗原郡誌』において「一ノ宮神社」とされる神社の説明によれば、「興福寺の境内に塚形をなせる所」があるといい、そこは古来「安寧(あんねい)天皇の御陵」と言い伝えられているというのです。 郡誌では、「口碑に曰く」として、人皇三代安寧天皇第一皇子の「迫子皇子」は安寧天皇十一年にこの地に降臨し、ことごとく邑里を開き幽宮を営んだ、としております。この幽宮を「宮糸の城」と称して、長年この地に居住したというのです。 それ故に迫子の一字をとって、この地を「迫(はさま)」と呼ぶとしております。当然このあたりにある「一迫」「二迫」「三迫」という地名は、それに由来しております。 もちろん「宮野」の地名も「宮糸の城」のそれに因むのでしょう。 ちなみにこの一ノ宮神社は、この地で薨去されたという迫子皇子の墳墓を祀ったものらしいのです。 そもそも何故天皇の第一皇子たる人物が陸奥の栗原までやってくるのでしょうか。 もちろん安寧天皇自体が、武烈天皇同様実在を疑問視されている天皇の一人であり、これも取るに足らない伝承といえばそれまでなのですが、伝承をあえて信じたとして、つまりは都にいられなくなったから落ち延びてきたと考えるのは当然でしょう。 何故いられなくなるのでしょう。 安寧天皇の次代の天皇は「懿徳(いとく)天皇」でありますが、この天皇は安寧天皇の第ニ皇子でございます。とすれば、第一皇子が皇統を継いでいなかったということについては特に矛盾はありません。 大陸の騎馬民族には、末子相続の習慣があると聞きます。日本においてもそれを思わせる事例なり伝承などもあるようです。もし、それを深追いするとなると、ひょとしたらかの有名な日本人騎馬民族説につながるかもしれず、面白くなるのかもしれませんが、定かではありません。今のところは私の頭脳に余裕がないので保留にしておきます。 さて、天皇になれない皇子が、僧として奈良の興福寺に送り込まれることは、奈良時代以降にはよくありました。栗原のこの寺も興福寺ということからすると、なんとなくうまく関連しております。ただ時代が全く異なるので、とりあえずはこじつけに過ぎません。 また、古事記も日本書紀も第一皇子の名は迫子命ではありません。古事記ではトコネツヒコイロネノミコト、日本書紀ではオキソミミノミコトでございます。 しかし、安寧天皇ではないにしても、やはり高貴な人物の物語の反映と考えるならばまんざらありえない話でもなさそうです。やはりこれも安寧天皇の第一皇子に比定される何者かと考えるのが穏当なのでしょう。 |
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2008年12月29日
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