はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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東街道と活断層

 前々回に触れた「東街道(あずまかいどう)」で思い出したことがあります。
 東街道がこの地の大動脈であることは既に述べました。伊達政宗が“仙台”という首府を築いて以降“大動脈”の座を奥州街道(ほぼ現在の国道4号のルート)にとって代わられた感もありますが、その歴史の厚みは比較になりません。果たして東街道のルートはいつ頃から存在したのでしょうか。

仙台市宮城野区原町を抜ける旧東街道
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 奈良時代に創建されたとされる「多賀城」以前の国府的な役割を果たしたものとして「郡山官衙(こおりやまかんが)」があります。場所は仙台市太白区郡山(以前触れた諏訪神社もそのあたり)ですが、発掘成果などからもほぼ確実です。
 しかし、陸路交通としてはその郡山官衙よりも山寄り(西寄り)に走っていた東山道(とうざんどう≒東街道)こそが大動脈だったようです。その東山道に沿った名取市高館(たかだて)の「高館」は「多賀舘」すなわち多賀城の前身であった、という説もどこかで見たことがありますが、あながち荒唐無稽な説でもないのかもしれません。
 もしかしたら、郡山官衙はある程度この地がヤマト化してきて安全になってから、あえて “海路”に利便性の高い河口付近の平地に移転したものなのかもしれません。
 例えば後年の多賀城などは、政庁の外郭築地の東門が内側へ凹字型になっており、あたかも正門の様相を呈していたことがわかっております。しかも陸奥国の「総社(そうじゃ)」はこの東門付近にあります。

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 以前にも述べましたが、総社とはその国の主だった神様をまとめて参拝できる神社のことです。国府の制度が定着してきて、地方に政府の要人が駐留あるいは来訪することが多くなってきますと、いちいちその国の重要な神社を回って参拝することが大変な手間になってきます。そこで国府の近くにその国の重要な神々にお集まりいただく社を造営し、政府の要人達が一ヶ所で用を済ませられるようにしたものが総社なのです。
 中央の官人たちは、たいてい国府に入る前に神々にごあいさつするので、他の国の例をみても総社は京からみて国府より手前にあることが一般的でした。
 しかし、多賀城(陸奥国府)においては何故か京(南西方向)からみて奥(北東方向)に総社があるのです。このことから鹽竈神社元宮司の押木耿介さんは、当時中央から陸奥国へ来る手段は主に海路の利用であっただろうことを指摘しております。
 もし、遠見塚古墳の被葬者の勢力(私が思うところの志波勢力)が、渡来系にせよ中央豪族系にせよ海から来たものであれば、後継者の雷神山古墳が北上ではなくヤマト朝廷方面に南下していった謎も解けそうです。
 それはともかく、東街道(≒東山道)を眺めておりますと、縄文時代から古墳時代といった実に古くからの遺跡が連綿とした時間の厚みをもって連なっております。そして実はまことに奇妙なのですが、仙台市民が今最も恐れていると言っても過言ではない“活断層”「長町利府(ながまちりふ)線」のラインとも一致しているのです。
 古代人はそのことを知っていたのでしょうか・・・と、展開すればミステリアスなのですが、これについては私なりに合理的な見解があります。
 仙台平野を潤す河川は、冠川(七北田川)も広瀬川も名取川も阿武隈川もなかなかの暴れ川だったようです。昔は現在のように治水技術も整っていなかったでしょうし、ある種全ての川が暴れ川といってもいいのかもしれません。しっかりとした堤防のない川というものは、例えば固定していないホースに水を供給するようなもので、自在に暴れまくります。山間部など地盤の固いところを長年流れ続けて侵食された岩盤が渓谷のようにルートを固定してしまえば落ち着くのでしょうが、それらが突然ゆるやかな平地に放り出されたとたんに蛇行を始めます。おそらく現在の広大な平野部分はほとんど荒れてぬかるむ湿地地帯だったと思われます。
 縄文人を含め、人々が比較的長距離を移動する際には当然ながらぬかるむ湿地帯は避けたでしょうし、かといって見通しが悪い山林を掻き分けるわけでもなく、見通しも足場もよい場所、つまり湿地帯から少し高い堤防のようなところを歩いていたのだろうと思うのです。仙台周辺においてはまさにその“堤防もどき”が活断層によって形成された高低差だったのではないでしょうか。おそらくそうやって自然発生的に形作られた踏み分け道(?)が東街道の起源だったのではないかと思うのです。仙台市内東部の田園地帯から都心部方面を眺めると異様な光景に気がつきます。もちろん都心部ですから高層ビルが林立しているからというのもありますが、それとは別次元で都心部全体が台の上にあるかのように見えるのです。仙台は活断層で分けられた高い方の地層部に発展している都市なのです。
 平安末期、100年の栄華を誇った奥州藤原氏が滅亡しましたが、最後の当主藤原泰衡(やすひら)は、源頼朝との最終決戦に備え、国分寺を見下ろす「国分原鞭楯(こくぶがはらむちだて)」と呼ばれる小高い丘(現在の榴ヶ岡公園)に自らの総司令本部を構えました。

国分原鞭楯跡(榴ヶ岡公園)
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 実はこの国分原鞭楯も、まさに「長町利府線」と呼ばれる活断層の高い方の地盤上に展開している平場なのです。

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