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さて、藤原泰衡と国分原鞭楯(こくぶがはらむちだて)に触れた途端、私はにわかに福島県国見町の「阿津賀志山防塁(あつかしやまぼうるい)」を見たくなり、現地に出向いてしまいました。奥州藤原氏の滅亡を決定付けた――源頼朝の天下統一を決定付けた――あまり知られていない天下分け目の地をどうしても見ておきたくなったのです。 今はどうかわかりませんが、私が少年時代の歴史の教科書では、日本を二分する勢力として源氏と平家の関係を学びました。したがって、あたかも平家が滅んだと同時に源氏(頼朝)が天下を制したかのような流れになっていたと記憶しております。奥州藤原氏については単なる田舎豪族で、指名手配の義経を匿ったカドで始末されたかのような、まるでおまけ扱いのようでもありました。 当時(私の少年時代)、仙台市内の中学生は最初の遠足で岩手県平泉に行くことが定番でした。しかし、歴史という授業の好き嫌いはあるにしても、少年たちはその平泉と奥州藤原氏の歴史的意義など全く知る由もなく、どちらかというと中尊寺金色堂に供養されている奥州藤原氏のミイラ検証の記録映像のほうに、あたかもホラー映画のような衝撃を覚えている始末でした。同じ東北地方の少年ですらこの体ですから他は推して知るべしでしょう。 果たして本当に奥州藤原氏というのはその程度の存在だったのでしょうか。 とんでもございません。当時の日本はあきらかに平氏・源氏・奥州藤原氏の“三国志時代”です。ひょっとしたら奥州は朝廷に朝貢する独立国だったのではないかとすら思えるほどのはずです。なのに何故そんな話になってしまうのでしょうか。奥州17万騎と恐れられたはずの奥州藤原氏が、あまりにもあっけなく最後を迎えため、そのようにしか記述できなかったのでしょうか。 しかしあっけない最後については平家も似たようなものです。平家は決して弱くなどなかったはずです。ところが、源義経という天才ゲリラ戦術家が現れたことで、あたかも百姓武士時代の津波が押し寄せたかのように平家を飲みこんでしまったのです。その“運命の津波”の引き潮が奥州藤原氏をも飲み込んでしまったようです。 奥州17万騎がろくに活躍もせず、結果奥州藤原氏が滅びたことについては、「実は100年間の平和ボケで弱かったのではないか?」と言われることもしばしばです。そのようなご意見は、正直なところ自分が東北人ゆえに我がことのように辛くなるのですが、そういう感情ではひいき目で見てしまいがちなので、それを戒めつつ、あくまで客観的に平泉軍(奥州軍)の強さについて弁護してみたいと思います。 藤原泰衡――平泉軍――の迎撃戦総司令本部が「国分原鞭楯(陸奥国分寺周辺)」に構えられたことは既に述べましたが、最前線基地は現在の福島県国見町の「厚樫山(あつかしやま)」周辺に構えられました。そしてここが最大の激戦地にもなったのです。 あまり語られませんが、厚樫山(阿津賀志山)での迎撃戦はすさまじかったようで、28万とも言われる鎌倉軍の主力部隊(少なくとも10万前後以上であろう軍勢)が、阿津賀志山布陣の2万の平泉軍に対し総攻撃を加えました。 ところが、実は鎌倉軍は三日攻め続けても平泉軍を落とすことが出来なかったのです。少なくとも正面からは突破できなかったのです。 圧倒的な数に勝る鎌倉軍でしたが、頼朝は作戦を変更し別働隊に背後から奇襲をかけさせ、ようやく突破に至りました。もちろんそれも鎌倉軍の強さのうちと言えるでしょう。 しかし少数兵側ではなく大軍側が三日後になってそのような戦術を決行したということは、いかに手を焼いたかということの証明でしょう。 これは鎌倉側(勝者側)の記録『吾妻鏡(あづまかがみ)』にも記載された話ですから、信じるに足るものと思われます。 厚樫山(阿津賀志山)付近には今でも当時の土塁が残っております。厚樫山から阿武隈川まで実に3Kmにも及ぶ高さ3〜5mの三重の防塁は、その規模において国内最大級と言われ、おそらく鎌倉執権「北条時宗(ほうじょうときむね)」がフビライ・ハンの侵略(元寇)に備えた北九州のそれに次ぐのではないでしょうか。 阿津賀志山防塁
時宗は博多湾に面している蒙古(元)軍の上陸想定地に徹底して防塁を築きました。それがために世界最強の元の騎馬軍も単なる「徒歩(かち)軍」に変わらざるを得なくなったのです。 藤原泰衡はその約100年も前にそれに匹敵するような阿津賀志山防塁を築いたわけです。北条時宗は執権であり、言うまでもなく執権とは当時の事実上の天下人です。一豪族扱いの泰衡が、日本史上最大の危機に面した天下人の必死の普請に匹敵しようかという構築物を築いたわけです。それひとつをとって見ても奥州藤原氏の土木動員力のすさまじさをうかがえるというものです。 |
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2009年01月29日
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