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仮説に仮説を上塗りしているので、取るに足らないと思われる方もいらっしゃるでしょうが、私は陸奥国分寺建立以前、その場所には志波彦神社、そして尼寺の場所には志波姫神社が鎮座していた可能性が高いのではないかと考えております。 陸奥国分寺・尼寺があるこのエリアは、往昔仙台平野の中心的“都市”が成立していたと思われますが、「遠見塚(とおみづか)古墳」の被葬者はその古代都市(集落)のリーダーであったと推測されます。もしかしたらこのリーダーは、弥生期に入って後このあたりの荒れた湿地をうまく利用できるような、なにかテクニカルな一面(農業技術や製鉄技術など)を持ち合わせていたのかもしれません。仮に“よそ者”であっても、そんな“よそ者”であれば地元では神のように尊敬され歓迎されたことでしょう。やがて土着した“よそ者”が、地元の有力者の娘あたりと結ばれたことも考えられると思います。志波彦・志波姫の一対祭祀はそれを記念すべく始まったものではないのでしょうか。 遠見塚古墳からは、人間の身長の数倍もある棺が二基発掘されております。おそらく夫婦と考えるのが穏当でしょう。もしかしたら、この二基の主(あるじ)こそがよそ者リーダーと地元の娘、言い換えれば“志波彦と志波姫”だったのではないでしょうか。とは言うものの、総本山である東大寺と法華寺は奈良(平城京)にあるわけで、それらまで志波彦・志波姫のために建立されたものと言うつもりはありません。 しかし、私が想像した「よそ者と地元実力者の娘の婚姻」という展開は、わりかし全国各地によくありがちな話で、その最たるものが『日本書紀』の「神武(じんむ)の東征」の項にある「饒速日(にぎはやひ)」と、地元の豪族「長髄彦(ながすねひこ)」の妹「三炊屋媛(みかしきやひめ)」の婚姻ではないでしょうか。これについては、私のブログタイトルでもある“はてノ鹽竈”を語る上でも大変重要で、思うところもありますので、後にあらためて語らせてもらいます。 大阪府東大阪市にある「石切登美霊社」
何はともあれ、一対としての祭祀というものはおおむね同じような起源を持つのではないかと想像します。それをおおまかに二分するならば、「平和的な融合の記念」である場合と、「征服した勝者による敗者信仰の融合(吸収合併)」である場合、つまり怨霊信仰が根強い我国の性癖として、敗者側の信仰を第一義に置き換えたために勝敗両者の一対となった場合とがあるのではないでしょうか。 いずれ、それらの全てをこじつけるつもりは今のところございません。ただ、遠見塚古墳の被葬者と、志波彦・志波姫の夫婦を関連づけて考えることは、さほどに不自然な話でもないように思っております。 もし国分氏が祀り続けてきたものが、実は国分寺ではなく、その志波神だとしたら・・・。 いずれにしても、“宮城野”などと呼ばれた広義のこの地(後の国分荘)は、遠見塚古墳造営後1000年以上の長きに渡って一大聖地であり続けたことは間違いないものと思われます。 |
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2009年02月01日
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