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「蒙古の碑」なる奇妙なものが、特に宮城郡で集中していることを少し掘り下げて注目してみたいと思います。 そもそもこのような板碑は、サイズにもよりますが、一つ建立するにも村一つ分の税収に匹敵する費用がかかると言われております。とても村人たちが気軽に建立できる代物ではなく、よほどの権力者か、あるいはよほどのスポンサーをバックにした存在が建立したことには間違いないのです。黒幕はこの地の領主と考えるのが自然で、「留守(るす)」氏がその最有力候補と考えられております。 留守氏は、このあたりの地頭であると同時に、平泉を任された「葛西(かさい)」氏とともに「奥州惣奉行(おうしゅうそうぶぎょう)」とされるほど地位が高く、この地に土着した他の鎌倉武士とは一線を画す存在でした。 ちなみに、他の鎌倉武士たちは郡単位の広い領域を支配しておりましたが、この宮城郡は多賀国府のある奥州の心臓でもあり、いわば“特別郡”でありましたので、留守氏といえども郡全域の直接支配までは任されておらず、あくまで「高用名(こうゆうみょう)」と呼ばれる郡内中枢地区の地頭となっておりました。奥州の首府として特別な宮城郡を、現代の東京23区にあてはめて言うならば、 ――「東京23区≒宮城郡」は首都特別区のため、他の「市町村≒郡」と異なり“長”というものは存在しません。しかし23区の各々には長がおり、特に「皇居や国会議事堂≒多賀国府」のある「千代田区≒高用名」の「区長≒地頭」については「東京都知事≒奥州惣奉行」が兼任している―― といったところでしょうか――実際の都知事は千代田区の区長など兼任しておりませんが――。 留守氏の初代「家景(いえかげ)」は、もともと伊澤氏を称しており、武士というよりは中央の藤原姓の事務官で、「陸奥国留守職」を賜ってからその役職である「留守」を名乗りました。家景は京において公家の「九条光頼(くじょうみつより)」に仕えておりましたが、鎌倉のフィクサー北条時政からその行政事務能力を高く評価され、鎌倉御家人として推戴されていたのです。だからこそ奥州惣奉行にまで任ぜられたのでしょう。 そして留守氏は代々鹽竈神社の大神主として祭事を執り行うことにもなります。ここが他のアウトロー的な土着武士とは違うところで、少々インテリな印象を受けます。おそらくはそんなプライドも持ち合わせていたことでしょう。 さて、善応寺の「蒙古の碑」の碑文は、その内容や文体の装飾から、かなり高度な知識を持つ人物の原稿に基づくものと考えられております。だからこそ執権時宗のブレーン「無学祖元」の名が最有力候補として浮上するのです。たしかに、その鎌倉知識層とのつながりからも、やはりここは留守氏が関与していたと考えるのが一般的です。事実、宮城県は全国的に見ても中世板碑の集中エリアですが、それらは特に留守氏のテリトリーに目立つのです。 善応寺以外の「弘安の碑」はどうなのでしょうか。 仙台市青葉区八幡の「来迎寺」にある「弘安の碑」も、やはり蒙古の碑と伝えられる一つです。とは言え、その碑は現存しておりません。しかし、この寺にはもう一つ「延元の碑」なるものが現存しております。弘安の碑より50年ばかり遅い建立のようですが、こちらも「蒙古の碑」あるいは「モクリコクリの碑」と呼ばれる類の板碑です。モクリコクリとは「蒙古・高麗」の意味とも言われております。言うまでもなく、「高麗(こうらい・こま)」は「高句麗(こうくり)」ともいい、朝鮮王朝の一つです。 余談ですが、コックリさんというキツネの霊をお招きする――ひと頃大流行した――少々怖い(?)占いがありますが、コックリの語源は高句麗であるという話も聞いたことがあります。高句麗には稲荷信仰となんらかの関係があるのかもしれません。 それはともかく、高麗も元に征服され、元の一部隊として日本侵略の最前線に立たされたわけで、もしかしたら、これらの碑は元軍と言っても、意思とは無関係に前線に立たされ死に追いやられた朝鮮兵のような存在を供養したのかもしれない、とも頭をよぎります。ただしそれだけでは「何故宮城郡なのか」の回答には足りません。ひょっとしたら、留守氏の血統に高句麗系のつながりでもあるのでしょうか。 ところで、ここには私にとって見逃せない霊験が伝わっております。それは百日咳です。ここの板碑は百日咳に霊験があるというのです。 ちなみに、この来迎寺の近辺には、大雨洪水警報を発令した“鶏の化身(権現)”の伝説が残されております。 来迎寺 延元の碑 一方、仙台市泉区根白石(ねのいろいし)にある「弘安の碑」にもどうやら百日咳に霊験があるとされております。 根白石 弘安の碑
百日咳への霊験は“ニワタリ信仰”によくよく見られる傾向なのです。なにやら蒙古とニワタリの結びつきも漂っております。 ところで、蒙古の碑のスポンサーは本当に留守氏だったのでしょうか・・・。こうして見てくると、私には国分氏の影の方が色濃く思えてしょうがありません。特に今紹介した仙台市内の青葉区八幡や泉区根白石は、伊達政宗以前の時代には国分氏の領域となっていたところです。 しかし、留守氏と同時代に活躍していたはずの国分氏なのですが、実は史料にその動きを散見出来るのは南北朝時代に入ってからで、鎌倉時代の動きとしては全く見えてこないのです。 |
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2009年02月15日
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