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南北朝並立の困ったところは、正義が二つあるということです。たいていの時代はどちらかが賊軍になるのですが、どちらも官軍なので始末に負えません。 海外で未だに起こっている宗教戦争も、まさにそのパターンと言えるでしょう。私達日本人の心の中からはだいぶ薄れてしまったようですが、宗教というものは、信仰者にとって普遍的な意味を持つもので、国家よりも法律よりも上位にあるものです。お互いに信じる神があり、それはどちらも正しいのです。これでは終わるわけがありません。だからと言って宗教全般を危険視する傾向に対しては、私は強く反発します。今の日本で起きている様々な意味不明な悲しい事件などは、おそらく信仰心がある人間ならばまず起こさないだろう類のものだと思うからです。 以前、たまたまラジオで聴いた話なのでおぼろげで恐縮ですが、思わずうならされる格言(?)がありました。 「神なき教育は、優秀な悪魔を作る」 確か、キリスト教系の学校の指針かなにかだったと思います。 さて、鎌倉にいた足利方奥州総大将の「斯波家長」は、奥州主力軍の二度目の激しい進軍の前に討ち死にしており、その後、北畠顕家も討ち死にすると、府中(多賀国府周辺)には足利一族の「石塔義房(いしどうよしふさ)」が奥州総大将として乗り込んできました。 既に後醍醐天皇も崩御し、南朝方はかつて奥州軍の神輿となった義良親王あらため後村上天皇の世になっておりました。 府中は、石塔義房が積極果敢に尊氏ブームを利用して奥州武士らに働きかけ、府中の“雄”「留守氏」を取り込むことにも成功し、着々と北朝方の地盤を固めておりました。 そんな府中の北朝勢に対し、南朝方である今は亡き北畠顕家の父親房は、常陸から虎視眈々と不気味な視線で睨みを利かせておりました。 そして京での敗北から3年、遂に北畠顕信をはじめ、結城、伊達といった南朝方奥州主力軍も親房の呼びかけに応じ、決起することとなりました。 あわてふためく石塔義房は、三迫(さんのはさま)――宮城県栗原――に陣を構え、岩手県方面から南下する北畠顕信軍を向かえ討ち、大激戦となりながらも決着が着かず、長期戦の様相を呈してきました。 しかし、折りしも中央情勢での南朝方敗北の報により、この戦も自然消滅的に終息しました。 そしてこれをもって遂に結城氏、伊達氏も南朝方から離れることになります。ここに北朝方奥州総大将の石塔義房の権勢は絶頂期を迎えることになりました。 後村上天皇を初め、南朝方奥州武士らを祀る「多賀城神社(多賀神社ではありません)」 絶えることの無かった混乱がとりあえずは一時終息しました。そうなると平穏な時代に即した政策が必要になってきます。足利氏においても、これまでは武断派の尊氏の役割が大きかったのですが、これからは文治派の弟、直義の腕の見せ所となるわけです。平穏になり、武力が不必要になると文治派が力を増すのは世の常です。 後世でも、戦国時代が終わり平和な時代になると、石田三成(いしだみつなり)ら文治派が権力を握り、もはや時代に不要となりつつある武断派の「加藤清正(かとうきよまさ)」や「福島正則(ふくしままさのり)」といった大名らと対立し始め、「徳川家康(とくがわいえやす)」がそれをうまく利用して天下を動かしたことは有名な話です。 例に洩れず、やはりこのときも同様な現象の兆しが見え始めます。 いずれも北朝のもとにありながら、足利尊氏の武断派と、本来は尊氏のブレーンであったはずの弟「足利直義(ただよし)」の文治派が対立することになり、おかげで、もはや風前の灯かとも思われた南朝方は世の勢力地図の死角に入る状態となり、危険な火種をくすぶらせたままその命脈を保ちました。もちろん、これはすぐに発火することになります。 それはともかく、北朝方、南朝方に分かれて争った奥州武士達も、今度は尊氏方、直義方に分かれて争うことになるのでした。 多賀国府の府中争奪はこのあとも激しく展開し、主人公もめまぐるしく交代していきます。そんな時代が100年も続けば奥州武士の間にもやがて嫌気がさしてきます。いつしか、あたかも談合のような状態が定着してきて、探題もいるにはいるのですが、諸家にお伺いを立てなければ何も決定できないような、いわば民主主義的な状態が生まれてきます。そのため、奥州には妙な勢力関係図が出来上がってくるのですが、それらもやがて、異端児“独眼竜伊達政宗”の登場により強引にまとめあげられることになります。 しかしそれは尊氏・直義の兄弟ゲンカが終わってからみても200年以上も先の話です。いずれ、伊達家及び独眼竜政宗がどのようにしてこの地をまとめあげていったのかにも触れたいので、そのためにも府中奪回戦の続きはあらためておいおい語っていきたいと思います。 とりあえず、ここまでの流れで南朝とこの地の強い結びつきについて若干なりとも伝えることができたのではないかと思います。とにかく、この時代の奥州は「唯一“官軍”だった時代」ということであり、キーワードとしては「密教」があります。そもそも慈覚大師円仁による「天台密教の教化」の下地に、強烈な個性を持つ後醍醐天皇の密教信仰が強い影響力をもって上塗りされたのだろうと考えられます。そのあたりの風景を無視して奥州人の信仰というものを覗き見ることはやや片手落ちなのかなあ、と思い、展開しておきました。
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2009年02月23日
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