はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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秦氏と美少年

 秦(はた)氏は、謎の多い古代氏族の中でも、特に謎めいた氏族の一つだろうと思います。
 一般的に、正体が謎めく理由として考えられるのは、歴史として全く取るに足らない存在であったか、あるいはかなり重要でありすぎたが故に隠蔽されてしまったか、のいずれかだと思います。秦氏について前者はあり得ないことでしょう。
 余談ですが、私はもともと歴史には興味がありましたが、とは言え、それは生まれ故郷の英雄伊達政宗や奥州藤原氏が関連する時代の範囲に過ぎませんでした。通史、とりわけ古代史の分野については、あるとき、ふと鹽竈神社の参拝順序に素朴な疑問を感じたところから始まりました。そうなると、当然民俗学や宗教学的なものにも興味が派生してくるわけですが、調べていくと、どうも被差別民と古代の為政者は、極めて紙一重のところにある気がしてしょうがなくなっていくのを感じました。秦氏や物部氏などには、そういった好奇心を刺激するに十分な魅力が潜在していると思われます。
 ところで、私は周囲から“寺社めぐりの好きな中年”だと思われているようです。
 決してはずれてはいないのですが、厳密に言うと――少々バチあたりな言い方をすれば――寺社めぐりは手段であって目的ではないのです。例えば、神社は「生きた古墳(?)」などとも言われているようですが、神社やお寺の由緒・縁起には、いわゆる“史料”にはないヒントがたくさん詰まっております。それが信じるに足るものかどうかは別として、少なくともそれを守る人達が必死で後世に伝えようとしている“何か”が潜んでおります。
 本題に戻ります。
 秦氏については、「秦(しん)の始皇帝の末裔である」とか、「キリスト教信仰の集団である」はたまた「ユダヤ人である」などなど、様々な仮説が飛び交っているようですが、共通して言える情報としては、「朝鮮からやってきた(経由してきた?)帰化人(渡来人)である」ということでしょう。朝鮮と言っても様々ですが、『日本にあった朝鮮王国(白水社)』によると、著者の大和岩雄(おおわいわお)さんは、「伽耶(かや)」を中心にした「新羅(しらぎ)」に及ぶエリアから、時期としては5世紀前後から百年ほどの間に断続的に渡来して来た、と考えているようです。それを信じるならば、つまり、傾向として日本と友好的な「百済(くだら)」からの渡来ではなさそうです。
 ところで、秦氏は製鉄技術や医学に長けていたようです。公共事業においても大活躍しており、先進的ゼネコン集団(?)の一面を覗かせております。
 それどころか、実にオールマイティな先進技術集団であったようで、一方で養蚕技術においても際立っており「ハタ」はそのまま「機織物(はたおりもの)」の“ハタ”と無関係ではなさそうです。そもそも秦氏の神事にノボリ旗と舞踊が欠かせなかったようなので、そのノボリ旗から「ハタ」と名付けられたことも考えられそうです。その血筋に染み付いた舞踊の伝統が、後世「観阿弥」そしてその子「世阿弥(ぜあみ)」などの末裔に「能」という芸をもたらしたのでしょう。
 そして彼らは、おそらく美少年でした。
 観阿弥は、日本の南北朝時代に終止符を打った時の将軍「足利義満(よしみつ)」に、その才を認められ庇護されましたが、認められたのは能の才能だけではなかったのではないでしょうか。
 6世紀半ばまで遡りますが、新羅では「花郎(ふぁらん)制度」というものが生まれております。花郎とは美少年のことです。
 元々は第24代新羅王「真興王」が自分の側に「源花」と呼ばれる美しい娘二人を置き、その下に更に数百名の娘を集めたのですが、女性の集まり故か弊害があったようで、その後あらためて美少年を選び「花郎」と呼んだようです。
 谷川健一さんの『四天王寺の鷹(河出書房新社)』によれば、『三国遺事』に、「真興王」の次の「真智王」の代、「真慈」という僧が興輪寺の弥勒像の前に立って願をかけ「どうか、花郎に化身して、この世に現れて下さい」と祈ったところ、夢に僧が現れて「熊川(今の公州)の水源寺に行けば、弥勒仙花を見ることが出来るだろう」と言われ、そのとおりに弥勒仙花たる少年が現れた、という話があるようです。
 同じく『四天王寺の鷹』に引用された『朝鮮三国の仏教』の著者、鎌田茂雄さんによれば、花郎団の修養の指導原理は「仏教」、特に「弥勒信仰」だったというのです。花郎は弥勒の化身なわけで、花郎の構成員は「弥勒に守られている」と確信していたようです。興味深いのは、その弥勒信仰には呪術による怨敵退散の思想など、道教的な要素が混入していたというところです。
 大和さんの前述著書によれば、三品彰英さんの論考から、この花郎制度は「薩摩の兵児二才制度」に似ているということでしたが、花郎を中心とした集団も、単に歌楽をもって戯れるだけではなく、有事の際に先陣に赴く青年戦士団でもあったようです。
 そして、私が注目するのは、この新羅の花郎は年齢が14歳から18歳であったことです。
 ここで、『日本書紀』にある、蘇我馬子と物部守屋が戦ったときの状況を思い出してみたいと思います。蘇我軍は、守屋軍を攻めたものの、三度退くほどの苦戦状態であったようです。その苦戦を打破したのが厩戸皇子――聖徳太子――であったようです。『日本書紀(岩波文庫)』によれば

――引用――
是の時に、厩戸皇子、束髪於額(ひさごはな)して、――古の俗、年少児の年、十五六の間は、束髪於額す。十七八の間は、分けて角子(あげまき)にす。今亦然り。――軍の後に随へり。自ら忖度(はか)りて曰はく、「将敗らるること無からむや。願に非ずは成し難けむ」とのたまふ。乃ち白膠木(ぬりで)を斮(き)り取りて、疾く四天王寺の像に作りて、頂髪に置きて、誓を発てて言はく、――白膠木、此をば農利泥(ぬりで)といふ。――「今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王(ごせしわう)の奉為(みため)に、寺塔を起立てむ」とのたまふ。
〜中略〜
大連を枝の下に射堕して、大連併(あわせ)て其の子等を誅す。是に由りて、大連の軍、忽然に自づから敗れぬ。

となります。
 要するに、なかなか勝てない守屋に対し、15、6歳の太子が勝利の願掛けをしたというのです。太子は、願いが叶うなら白膠木(ぬりで)で四天王の仏像を作り、四天王寺を建立しますと誓いました。結局、この願掛けが叶い、たちまち形勢が逆転し、大連すなわち物部守屋とその子等を殺すことが出来たというのです。
 現実的に考えて、そんなわけはないでしょう。しかし、ここで注目すべきは、太子が15、6歳の少年であるということが強調されていることです。おそらくここにおける聖徳太子は、どうしても少年でなければならなかったのだと思います。ここで示唆しているのは、聖徳太子に投影された“花郎”すなわち“弥勒の化身”ということではないでしょうか。

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