はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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 恥ずかしながら知らなかったのですが、羽黒の古道は、江戸時代初期まで「出羽三山奥参りの表参道」として、年間3万人を超える人たちが全国から訪れ賑わったと「筆濃餘理(ふでのあまり)」にも記されているそうです。
 さて、江戸時代初期ということは、時期的に羽黒修験中興の祖「天宥」登場の頃です。もしかしたらあの過酷な2446段の表参道は、天宥の羽黒派独立工作の産物だというのでしょうか。
 しかし、そうなると表参道にある平安時代――平将門(たいらのまさかど)――建立とされる五重塔は、何故あの場所に?ということになってきます。
 もちろん現在のものは最上義光(もがみよしあき)による再建で、江戸時代初期であれば実に絶妙な時期になります。
 なにしろ、義光の時代ですと、天宥よりも微妙に早い時期ですので悩ましい限りです。天宥の具体的活躍の時期は三代将軍徳川家光の時代にかかります。それに対して義光はどちらかと言うと初代徳川家康と同世代ですので、実にきわどいものがあるのです。
 これは次のように考えておくことも必要なようです。
 つまり、天宥の登場を待たずして、室町の頃には既に羽黒山をめぐる勢力が二派に分かれていたということです。
 どちらが元祖かはわかりませんが、室町と言えば南北朝時代を初めとして、天皇家、将軍家も含め、世の中に“正義が二つ”ありました。おそらくそのあたりに背景があるのでしょう。羽黒派修験道にも正義が二つあったのかもしれません。
 ちなみに私は、鉢子集落側については“南朝側”であったと想像いたします。
 室町時代以降、皇野(すべの)にあった500あまりの伽藍群が忽然と消えたのは、おそらく南朝が滅びたことによるのでしょう。最近までその由緒の古さを名乗り出られなかったのは、案外そのような背景があったからではないでしょうか。

 余談ですが、江戸幕末、将軍警護の大儀を演出しながら、尊皇攘夷(そんのうじょうい)の尖兵たらんとする“浪士組”を結成した「清河八郎(きよかわはちろう)」は、このあたりの生まれです。
 結局浪士組は、芹沢鴨(せりざわかも)や近藤勇(こんどういさみ)、土方歳三(ひじかたとしぞう)らによって――皮肉にも清河八郎の演出どおり――幕府のために活躍する“新撰組”に生まれ変わったことはご存知のとおりです。
 その清河八郎の思想の根底が、もしこの故郷の歴史に根ざしたものであったならば、かなり面白いことになるな、と勝手に想像しております。

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