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もし黒川郡大和町宮床(みやとこ)に伝わる淳和天皇伝承が事実であれば、また、信楽寺(しんぎょうじ)の五輪塔付近の発掘成果が、その伝承にリンクするものであれば、最早この地は大伴氏の単なるフランチャイズの域を超えていると言えます。 淳和天皇が、国家反逆罪の汚名でも着せられていたのであれば、遺骨と言えどはるか遠い陸奥国に配流、ということもあろうかと思いますが、少なくとも表向き、そのような顛末は史料から見出せません。 しかし、その皇子、恒貞(つねさだ)親王については「承和の変」でまんまと陥れられたことが明白です。恒貞親王は公式な犯罪者、かつ十分に“怨霊候補”と言えます。 そして、それら一連の変事は、結果的に大伴氏を没落させました。 ひとつの判断基準として、“慈覚大師円仁開基伝承”というものがあります。 東北地方の円仁開基伝承地には、なにかしら隠蔽ないし供養したいと願う中央の意思が反映されている可能性が高いからです。――拙ブログ書庫「慈覚大師円仁の戦後処理」参照―― 黒川郡の今はなき大寺院「信楽寺(しんぎょうじ)」もその例にもれません。このことは逆説的に信楽寺がタタリを為しかねない某かをはらんでいることを想像させます。 さて、怨恨に満ちた主人公の遺品は、どのように供養されるべきでしょうか。やはり、最も安らぐ場所で、親族に供養されることが最良ではないでしょうか。 だとすれば、仮にも上皇なり皇太子なりの遺骨をわざわざ運んできて供養するような陸奥国黒川郡――伝承と発掘成果からの私の想像ですが――とは、一体どのような場所と考えられるでしょうか。淳和天皇親子にとって、そもそも黒川郡が縁の深い地であった、ということでしょう。黒川郡は大伴氏自体にも深い縁がある地であり、特に大伴親王あらため淳和天皇にとってはその傾向が強かったのではないか、と考えるのです。 大胆な妄想を述べるならば、淳和天皇――大伴親王――や多賀城に赴任した大伴氏の多くは、この地の黒川郡靱大伴(ゆげいおおとも)連の血統が輩出した人物だったのではないでしょうか。 宮床七つ森付近の原風景
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2009年05月17日
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もし、上毛野氏の怪異が、蝦夷(えみし)の反乱によるものだとすれば、最も近い黒川勢力が動いた可能性は高いはずで、もしかしたらこの地の蝦夷は上毛野(かみつけの・かみつけぬ)氏にアレルギー反応を起こしたとも考えられます。仮に大郷町の諏訪古墳の主が大伴氏系ではなかったとしても、上毛野氏の系統でもなかったことは確かでしょう。 より積極的な想像を加えれば、朝廷を震撼させるほどの「伊治公砦麻呂(これはるのきみあざまろ)の反乱」の余韻があったにもかかわらず、大伴家持の多賀城在任中は“平穏であった”ということは、蝦夷は家持に対して特にアレルギー反応を起こさなかったとも考えられます。 やはり、この地の蝦夷は大伴氏となんらかのつながりがあったのではないでしょうか。 念のため、「伊治公砦麻呂の乱」とはどういったものであったか、に触れておきます。 簡単に言えば、古代陸奥国版「本能寺の変」です。 元々砦麻呂(あざまろ)は「伊治(いじ・これはる)村――現在の宮城県栗原市・「くりはら」は「これはる」に由来すると言われる。私見は異る――」の蝦夷でしたが、朝廷に帰服して、外従五位下の官位を賜り、蝦夷としては破格の待遇を受けることになっていたようです。 宝亀11年(780)3月、時の陸奥守兼按察使(あぜち)「紀広純(きのひろすみ)」は、伊治城より北の蝦夷の南進が激しくなってきたことに伴い、伊治城の更に北――諸説あり――に「覚鱉(かくべつ)柵」を築き、それを防ぐことにしました。 伊治公砦麻呂は、同じ蝦夷にもかかわらず、砦麻呂以上に朝廷の覚えめでたい牡鹿(おじか)郡の大領「道嶋大楯(みちしまのおおだて)」と伴に、時の陸奥守「紀広純」の下、味方の蝦夷軍を率いて伊治城で待機しておりました。砦麻呂は広純にたいそう気に入られていたようですので、よほど実直に仕えていたのでしょう。 ところが、一方の道嶋大楯は同じ蝦夷でありながらエリート意識が鼻につく人物だったようで、砦麻呂を蝦夷扱いし、嘲っていたようです。 これにアレルギー反応を起こした砦麻呂は、味方の蝦夷軍を動かしてまず大楯を葬り、その勢いで広純をも殺害してしまいました。 この事件は朝廷を震撼させました。 これまでは外敵としての蝦夷をどう攻め、どう懐柔するかばかりを考えていたのに、こともあろうに懐柔したはずの蝦夷が内部から暴発したのです。 伊治城跡推定地付近 このとき、実に妙なことが起きます。 これだけのクーデターにもかかわらず、何故か唯一人陸奥介「大伴真綱(まつな)」だけは生き残ったのです。 決して奇跡ではありません。奇跡どころか、はっきりと積極的に生かされました。砦麻呂勢によってご丁寧に多賀城まで護送されていることが『続日本紀』にも明記されております。 “大伴氏”だけが蝦夷から護衛されて生き残ったのです。 この地の蝦夷にとって、大伴氏とは果たして如何なる存在だったのでしょうか・・・。 ついでまでに、私は砦麻呂の反乱をアレルギー反応による暴発として触れましたが、本音を言えば確信犯であったと想像しております。
これだけ冷静に狙い済ました革命を、続日本紀にあるような発作的な感情だけで実行できるものとは思えません。もしかすると、伊治城北部の蝦夷のくすぶりは元々砦麻呂が仕組んでいたものではないでしょうか・・・。 |
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