はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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鹽竈神社と瀬織津姫

 たびたび触れておりますが、瀬織津姫は、男神天照――アマテル――の后神でした。
 男神アマテルの正体が「饒速日(にぎはやひ)」なのか「火明(ほのあかり)」なのか、あるいは『先代旧事本紀』が語るように両者同一の「天照国照彦天火明櫛玉饒速日」なる神なのかについては、当然正確なところがわからないにしても、正直なところ、まだ頭の中での整理も出来ておりません。
 いずれにせよ、その男神アマテルと瀬織津姫の夫婦神を崇敬する一族は、おそらく大化前代には全国各地のかなり広い範囲に広がっていたように思われます。その一族はおそらく物部氏であっただろうと想定しておりますが、時折、もしかしたら尾張氏なのかもしれないと、多少の迷いにはまることもあるのです。ただ、東北地方では尾張氏の痕跡はあまり見受けられません。気づいてないだけかもしれませんが・・・。
 ともかく、何故私が大化前代と考えるかというと、それ以降まで時代が下っては中央集権が強化されていくわけで、当然ながら古代氏族が好き勝手に辺境に勢力を拡大するような行動は出来なくなっていたはずだと思うからです。
 『エミシの国の女神(風琳堂)』の菊池展明さんは、佐久奈度神社の由緒から中臣祓の創作は天智天皇八年(669)であろうとしておりました。前に触れたとおり、その中で瀬織津姫は祓神に矮小化されてしまっておりますから、生き生きとした広がりというものはやはり最低でもそれ以前であろうと考えます。
 大化前代、その某かの有力氏族は、おそらくごく自然に各地の先住民族に溶け込み、先進技術を提供することで信頼を得ていたことでしょう。彼らの崇敬する神もまた、セットで受け入れられたのではないでしょうか。
 これは、東北地方を例にして言うならば、前に触れた高橋富雄さんが定義するところのヤマトの文化征服にあたると言えるでしょう。
 もしかしたらそれ以前にもなんらかの原型――蛇や鳥、あるいは鷹と白鳥など異なるトーテム氏族同士の婚姻メモリアルの一対祭祀――はあったのかもしれませんが、これをとりあえず、あえて神名が命名された以降における瀬織津姫祭祀の第一次の拡張と定義しておきます。
 その後、律令が整備され天皇家中心の政治が徹底され始め、特に天武・持統天皇の御代以降、女神天照大神の創設、すなわち伊勢神宮祭祀の強化により、瀬織津姫という女神はその名を徹底的に消され始めたようです。
 しかし、その一方で“先住王朝(?)の象徴”として忌み恐れられ、後年の八幡神のように夷賊平定の先鋒神として利用されたこともあったようです。
 例えば、宮城県唐桑町にあるその名も「瀬織津姫神社」は、養老二年(718)に、鎮守府将軍大野東人が夷賊平定の守護神としてこの地に同行させたものです。このようなケースを第二次の拡張と定義出来るかと思います。こういったケースは、主に東北地方に多かったのではないでしょうか。
 私は、仮に陸奥國鹽竈神社に瀬織津姫が祀られていたとするならば、その開始時期はおそらくその第二次拡張の時、つまり、朝廷の進出の時だろうと思っております。郡山官衙――多賀城の前身――、あるいは多賀城創建の際、目の前の縄文以来の一大聖地、鹽竈・松島に居座る忌々しき霊威を相対化させるために、朝廷側は“瀬織津姫”の最強の浄化作用を利用したのではないでしょうか。
 私はひと頃、鹽竈神社が謎めく理由とは、ひょっとしたらこの瀬織津姫を祀っていることに因むのではないか、と考えていた時がありました。もちろん“謎めく理由”としては今だに十分な可能性を感じております。
 しかし、それが“別格待遇を受けた理由”にはなり得ないことに気づきました。
 瀬織津姫は、たしかにトップシークレットのタブー性の高い女神ですが、この女神の祭祀だけで言えば鹽竈以上にもっと重要な神社がたくさんあります。鹽竈神社が瀬織津姫祭祀の本拠であるとでも言うのであれば話は別ですが、そもそもそれは次の事情から考えて、あり得ません。
 平安時代、奥州のほぼ全域を支配していた奥州藤原氏の三代秀衡(ひでひら)は、その全盛期の鎮守府将軍時代、この鹽竈神社ではなく、宮城県岩出山の「荒雄川(あらおがわ)神社」を奥州一之宮に決定しております。実は、ここは現在でも瀬織津姫を祀っている、宮城県内としては大変貴重な神社なのです。
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 このことは、同時に“秀衡が瀬織津姫を崇敬していた”ことの傍証にもなるわけですが、同時に、瀬織津姫信奉者が特別視した神社は鹽竈神社ではなかった、という動かぬ証拠でしょう。
 もしかしたら、鹽竈神社をあくまで朝廷の施設と考えてはばかった可能性もありますが、秀衡が奥州一之宮として鹽竈神社を選択しなかったことは事実です。仮に鹽竈神社に瀬織津姫が祀られていたとしても、それは崇敬者からすれば決して別格ではなかった、と判断せざるを得ません。
 鹽竈の瀬織津姫が朝廷の都合で祀られたものであれば、秀衡の決断は至極当然なものかもしれません。 そういう意味では、おそらく荒雄川神社は極めて純粋な崇敬心から祀られた瀬織津姫だったのではないでしょうか。こちらの境内にも縄文遺跡がありますので、相当古い時代からなんらかの聖地であったことは考えられます。
 いずれにせよ、このことから鹽竈神社が異例の別格待遇を受けた理由は“瀬織津姫以外のところにあった”と考えます。

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