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藤原秀衡の瀬織津姫信仰というものは、当代に突然発現したものではないでしょう。当然、その親の代、いやこの系譜に脈々と受け継がれた信仰も一旦疑ってみるべきかと思われます。 ただ、私の持論なのですが、一個の人間の人格や精神性は、それが築かれる幼少時に、最も濃厚に接している人物、特に母親、はたまた乳母あるいは僧など師匠の影響にも少なからず左右されるはずと考えます。もちろん、格式の高い家柄ほど代々受け継がれてきた家訓などが徹底されているでしょうから、さほどにぶれることもないとは思いますが、少なくとも母系の信仰を持ち合わせていることも一応は想定しておくべきでしょう。 したがって、秀衡がそうだからという理由だけでは、必ずしも藤原氏全体がそうであった、とはひとくくりに言いきれないものはあります。 しかし、幸い(?)秀衡の場合、実はどちらに転んでも同じ一族に繋がり、ある意味単純明快なのです。 同じ一族とは、言うまでもなく、安倍氏です。 奥州藤原氏は、一応父系をたどれば摂関家の藤原氏ということにはなります。 とはいうものの、秀衡の祖父にあたる初代清衡の母親は酋長安倍頼時の娘――安倍貞任や宗任の妹(姉?)――で、しかも父親である蝦夷のデビルマン経清は、朝廷から“裏切り者の名を受けて全てを棄てて戦う男”なわけですから、当然帰る場所などありません。そう紹介するとニヒルな感じですが、言い方を変えると、いわゆる安倍家の“マスオさん”だったのです。それを考えると清衡への精神的な影響はやはり安倍氏によるところが大きかったことでしょう。まして、経清は清衡が幼いうちに惨たらしく斬首されてしまい、清衡は母とともに清原家に囚われの身になってしまったのです。この事情を考えると、清衡の“安倍化”は反骨精神に裏付けられて、余計に強化されたものと考えられます。 また、秀衡の母は、安倍宗任の娘であった――時間・空間の両軸に疑問は残りますが・・・――とされております。 何を言いたいかと申しますと、秀衡の精神性には安倍氏のそれがかなり色濃く反映されたはずであり、つまりは、秀衡の信仰から逆算することによって安倍氏自体に瀬織津姫信仰があったことを、十分に疑うことが出来るということです。 これまで私が述べてきたことから考察すると、安倍氏は長髄彦一族の末裔であることを自称する一方、瀬織津姫を信仰していた可能性が高いということになりますが、よく考えてみればこれは実に自然なことと気づきます。 『日本書紀』上、長髄彦の妹登美屋媛(とみやびめ)は饒速日(にぎはやひ)の妻でした。仮に饒速日が男神アマテルであったと考える場合、正直なところ、皇祖神であるアマテルが神武天皇と同時代の長髄彦の義理弟であるという設定にはあまりに無理があり、どこかに確実な嘘を感じざるを得ないのですが、それを気にしなければ、登美屋媛と瀬織津姫には男神アマテルの妻という共通性が浮上します。 つまり、鹽竈神社が仮に長髄彦を祀っていたとするならば、朝廷が持ち込むまでもなく鹽社における瀬織津姫の面影もだいぶ色濃くなってくるわけです。なにより、社家がアベ氏であった以上、必然的にその気配は強まります。 そう言うと、もしかしたら、少し東北地方の歴史に詳しい人は、 「それはアベ違いだ。なんでもかんでも一緒にするな。それはおまえの杓子定規な妄想以外の何物でもない。そもそも長髄彦の兄アビの末裔を自称する安倍氏は、衣川を南に越えてしまったことをきっかけに前九年の役が勃発しているのだから、多賀城よりも南の宮城県南出身と疑われる鹽竈社家の安倍氏を混同するなど、おまえの自説に都合よくするための付会に過ぎず、もってのほかだ」 と辛辣に嘲笑されるかもしれません。 しかし、私はちゃんと理由があって宮城県南の安倍氏と奥六郡の安倍氏は同じ一族であると“確信”しております。 「衣川を越えた?勝手に線をひいておいてなにを言うか」 というのが私の朝廷側の記録に対する抗議です。 次回の稿であらためて審判を投げかけてみたいと思います。 衣川
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2009年08月13日
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