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福島県耶麻郡磐梯町発行の『慧日寺と山岳信仰』に付録されている山口弥一郎さんの『磐梯山信仰と会津慧日寺』には、“大伴家の由緒”が随所に引用されております。その由緒を踏まえて山口さんは次のように語ります。 ――引用―― 大伴家には事件があった時々に書き上げた由緒書が幾通りかあるが、いずれも大体は類似して、修験として白鳳年間役行者を祖師として発達したことになっている。 〜中略〜 この辺からやや信憑性のあるものとして取り扱ってみると、山麓の本寺に磐梯山信仰の基地を置き、大伴家が修験として居を構えたことになる。天平は七二九年から七四八年まであるから、恵日寺開基といわれる大同二年の八〇七年より、少なくても五十九年はさかのぼり、修験の祖役小角の時代より三十年は後れている。山の神信仰は役小角に始まるとみるのはもちろん無理があり、民間の固有信仰としてすでに古く発祥していることと思うが、修験の普及が交通に不便な当時、この程度の年数で果たして東北に普及してきたかにも一応疑問がある。しかし山岳信仰はすでに古く起り、磐梯明神が修験大伴家の統制下にはいったことは、この時代にさかのぼるかも知れぬと想定してみる。 基本的には興味がある想定で、それを前提にしながら私も考えていきたいのですが、ただひとつだけここに意見を入れておきます。 山口さんは、“交通が不便な当時”に“この程度の年数”で修験の普及が進むものだろうか、という迷いを投げかけておりますが、私は、そのような迷いは一切要らないと考えるのです。もっと言えば、30年もあればむしろ十分過ぎるくらいではないでしょうか。修験の徒は超人的な距離を移動します。役小角(えんのおづの)の神出鬼没な行動範囲は、伝説のような物理的に不可能なほどではないにせよ、まんざらの創作でもないと思います。例えば、最近の考古学的成果で、少なくとも縄文人はかなり広範囲に交易を展開していたことがわかっております。仮に修験者にその名残があったとするならば、弥生期以降農業によって土地に縛られた日本人の感覚からはとても考えられないないような距離の移動を繰り返していたと考えられます。彼らに超人的な噂が立った理由の一つには、そんなところもあったのではないでしょうか。 かつての考古学者は、畿内の古墳文化が東北に到達するまでには相当な時間がかかっていたはずとして、同じ形状の古墳であっても東北地方のそれは数100年遅れているという考え方が主流を占めておりました。ここには一種の差別的偏見があることは間違いないと思いますが、それをおいたにしても、これは日本人が土地に縛られた以降の歴史に基づく発想かと思います。山口さんが前述の論稿を書いているのは昭和二十七年ですから、おそらく彼の迷いは当時主流のこの考え方を元にして生まれたものでしょう。 もちろん、古墳自体が既に土地に縛られていたからこその産物でしょうから、半ば間違いではないのでしょうが、現在では、東北地方と近畿地方の時代的なギャップはそれほどでもない、という考えが主流のようです。それこそ、同じ福島県会津の「大塚山古墳」の昭和三十九年からの発掘調査の成果がそれをほぼ証明してしまったのです。この古墳からは「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」が出土しました。これは初期の大和政権が同盟を結んだ勢力に配っていたと考えられているものです。また、被葬者の埋葬パターンなど諸々の状態から勘案すると、これはもはや同時期の畿内と濃厚な接触があったと考えた方が自然なのです。 会津大塚山古墳 古墳の時代でさえそうなのであれば、奈良時代の天平期、しかも行動範囲が超人的な修験の分野において、この地に畿内や九州と同一のものが伝播することなど、はっきり言って30年もあれば十分すぎる時間であろう、と私は考えるのです。 とはいえ、この地の山岳信仰を役小角に由来するとみることには私も強くブレーキをかけざるを得ませんが、ここで自分の記憶の中に摂取しておきたい風景としては、天平期という古い時代区分――平安期以前――と、はるか遠い九州の豊前英彦山との不思議な因果、そして“大伴”姓というものがあります。 話を戻して、山口さんは、山岳信仰に基づく磐梯明神が修験大伴家の統制下にはいった時代を、迷いはあるものの、天平年間ではないか、と一応の想定をしているわけですが、これに対して、その論稿を付録している磐梯町発行の前述書では、さしあたり次のように冷静さを維持しようとしております。 ――引用―― ただ、その場合でも、「会津慧日寺の発達と、その影の形に添う如くつきまとっていた」という大伴家自体が、謎に包まれていることは否定出来ません。大伴家の由緒書上では「修験之僧豊州彦山之法流を伝う」と書かれていますが、彦山派が修験集団として確立されたのは、せいぜい鎌倉時代の末頃とみられており、それほど古くはないからです。 〜中略〜 いかに役小角の弟子の寿元(じゅげん)が、天平六年(七三四)に熊野権現を勧請したという言い伝えがあっても、彦山派そのものが確固としていなかったわけですから、磐梯山における大伴修験の役割を強調すればするほど、そこがネックになります。 基本的に官庁発行の書籍ですから、このような態度は適切かつ穏当かと思います。したがって、その続きは私のような妄想癖がある読者が勝手に想像してみる分野と心得ます。これを受けて私はこう考えます。
ずばり、単純に天平期のそれは、後世にいうところの彦山派の修験では“なかった”のでしょう。 しかし、豊州彦山(ひこさん)――英彦山――との関係は真実であると思われ、そして、その地の修験――そういう概念であったかどうかは別として――をこの地に運んできたのは“大伴”なのでしょう。 後世に本場彦山の修験道が、彦山派と呼ばれるものにとって代わられたので、その流れを受けてこの会津でも同様にそう呼ばれ、大伴家による中興とされたのでしょう。 ここで“中興”と書いたのは、それをほのめかす内容が大伴家の由緒にあったからです。それをもって前述書では一旦なんらかの断絶があったか、としておりますが、おそらくそのとおりで、いずれ私が注目するのは、中興という言葉です。中興なる言葉を使うということは、引き続き従前の本質を継承している意識の表れと考えます。つまりは、従前にも大伴家の思想に縁あるものであったと考えられ、もしこれが金村や家持の大伴と同一の血族であるならば、この時代には大伴氏もこの地に根付いていたということになります。 一般的に大伴氏の東北進出は物部氏ら他の大氏族に遅れているとされているわけですが、この想像が真実であれば、必ずしもさほどに遅くはなかったということになります。 しかし、果たしてどうなのでしょうか。 |
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