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母、「光明(こうみょう)皇太后――聖武天皇皇后――」の死によって、「孝謙(こうけん)上皇」は激しい悲嘆の後に何かが吹っ切れたようです。心の奥底に眠っていた煮えたぎるマグマが目覚めたようなのです。孝謙上皇は自らの看病僧「道鏡(どうきょう)」の補佐のもと、かつて藤原仲麻呂――恵美押勝(えみのおしかつ)――がそうしたように、律令にない特別職を新設しました。そこから押勝の傀儡にあまんじている時の天皇「淳仁(じゅんにん)天皇」の上をいく詔勅を発し、押勝ラインを脅かしました。 これにあわてた押勝は、天平宝字八年(764)平城京に挙兵しました。 しかし、孝謙上皇はその程度のことなど想定の範囲内であり、「吉備真備(きびのまきび)」に先制攻撃を加えさせ、遂に押勝は討たれました。 そして、藤原氏――南家――の傀儡であった淳仁天皇から皇位をはく奪し、自らが天皇に返り咲き、「称徳(しょうとく)天皇」になりました。 このことを、称徳女帝がかつての愛人仲麻呂を見限り、新しい愛人の道鏡に溺れ、それに嫉妬した仲麻呂が挙兵して敗れ、その後、称徳女帝の寵愛をいいことに皇位を簒奪しようと企む道鏡の仕業、と捉える向きがかなり強いようです。 しかし、道鏡ははたしてそれほど私利私欲にとりつかれた人物だったのでしょうか。例えば、家永三郎さん編『日本の歴史(ほるぷ出版)』には、次のようにあります。 ――引用――
僧道鏡の政治には、意外なほど、悪僧による自分勝手な専制政治という性質はなく、しいていうと、郡司のような地方豪族の中央政界へのさかんな進出に道をひらいたのがその特徴といえようか。 “悪僧”という固定観念をのぞけば、道鏡は地方に道を開いた人物であるということのようで、専制政治とは正反対の政策を展開しているのです。 もちろん、道鏡は必ずしも地方に道を開こうと思ってやったことではなく、これはおそらく一つの結果に過ぎないのだと思います。 道鏡は何をしようとしてこのような結果を呼び込んだのでしょうか。 それは、一つしかないでしょう。道鏡は朝廷の藤原色を薄めようとしたのでしょう。 とはいえ、これは道鏡の意思ではなかったと考えます。確かにその政策のプロデューサーは道鏡であったのでしょうが、それはあくまでも“称徳女帝の意思”に基づいたプランニングであったと考えるのです。 称徳女帝は幼き頃より、自分にも流れている母の実家、“藤原氏の血の呪縛”に悩まされてきた天皇です。両親がヒステリックに祟りに怯えなければならなかったのも、自分が結婚できなかったのも、全て母の実家の手口に原因があるのです。 それでも大好きな母親の存命中には曲がりなりにも母の実家をなんとか信じようとしていたかもしれません。 しかし、愛する父、聖武上皇がたてた皇太子を排除してまで、またしても懲りずに悲劇の歴史を繰り返そうとしている従兄の横暴には、遂にたまりかねて感情を沸騰させてしまったのでしょう。 そして、ここから称徳天皇は、圧倒的な力を見せ始めます。そしてそのたどりつくところは、自らの血への復讐でした。天皇自らが万世一系であるべき系譜を終結させようとしたのは、おそらく通史でみてもこの称徳天皇のみであったのではないでしょうか。称徳天皇は、最も信頼する道鏡に天皇の地位を譲ろうと考え始めたのです。 |
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2009年09月21日
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