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昨日――平成21年9月30日――、『河北新報』の朝刊を見て驚きました。 見出しが『島根・砂原遺跡日本最古の旧石器か 12万年前の地層から20点』というものでした。 その記事内容そのものにも驚いたのですが、私は今回、その記事の展開に注目しました。 記事の冒頭すぐに「旧石器をめぐっては2000年の発掘捏造(ねつぞう)問題で大半の出土例が否定された結果、入口遺跡(長崎平戸市、約9万年前)や金取遺跡(遠野市、9万〜5万年前)が最古の可能性があるとされていた」とあり、続けて「今回の発見は少なくとも3万年さかのぼり、日本列島での人類の起源を見直す手掛かりとなるほか、後退を余儀なくされた旧石器時代の研究にはずみをつけそうだ」と、ありました。 どうしても東北地方を中心に起った捏造事件からの脱却を前提にしなければならないようです。 やむを得ないところではあるのでしょう。 どうしてもこの手のニュースに眉唾物の冷めた反応を余儀なくされた感情の読者に対しては、あえてその嫌な話も触れて一々払拭しなければなりません。 そして今朝の『河北新報』朝刊は、「河北春秋」という一面目にあるコラムで、ご丁寧にも前日の記事の補足をしております。そこには編集部(?)としての本音が添えてありました。 ――引用―― ホントかいな。旧石器の新発見というと、つい疑いの目で見てしまう。島根県出雲市で、日本最古とみられる12万年前の石器が見つかったという。9年前の石器捏造(ねつぞう)騒ぎが、どうしても頭をよぎる▼アマチュア考古学者が長年にわたり、偽の石器を次々に「発掘」した。旧石器時代の10万年前、35万年前…ついに60万年前までさかのぼった。教科書にも載り、「神の手」ともてはやされた▼ちょっと考えれば、おかしな発見もあった。尾花沢市で出土した10万年前の石器と、30キロも離れた宮城県色麻町で見つかった石器の断面が、ぴったり合わさった。新聞は大見出しで「10万年ぶり 奇跡の再会」と報じたものだ▼苦い思い出がある。仙台市の山田上ノ台遺跡で1980年、5万年前の石器が発見された。当時、同時代の発掘例は珍しく、興奮しながら取材した。後にこれも「神の手」の仕業と分かり、結果的に自分も捏造に加担してしまった▼今回の石器はどうだろう。素人目には、ただの石ころの写真にも、加工品のようにも見える。捏造騒ぎの教訓から「石器の可能性は半々」と慎重な意見もある▼「加害者」の一人として、ぜひ本物であってほしいと願うばかりだ。騒ぎ以来、旧石器時代の研究は大きく後退し、教科書からも消えた。「神の手」の罪は深い。 この筆者を尊敬するのは、自分をあえて「加害者」としているところです。なかなか書けるものではありません。
そもそも『河北新報』という新聞社自体、東北地方が明治維新以来「白河以北一山百文」と軽視されてきたことに対して立ちあがったという背景もあり、結果的に件の捏造をあおってしまったという後ろめたさはあるのかもしれませんが、その過去を素直に認めているところは素晴らしと思いました。何事もなかったかのように反省の一言もなく過去と正反対の姿勢で社説を挙げている某一流新聞社に比べればはるかに崇高です。 ただ、今回の記事には敬意を表するものの、河北新報社も決して悲観的になりすぎないことを祈ります。東北地方の新聞社として、決して自虐的にならず、堂々と発信していっていただきたいものです。 |
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2009年10月01日
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冬のある日、奥州藤原氏の系図を見ておりましたら、どうにも気になることが出てきました。以前から気にはなっていたものの、それまでとくに深く考えてみたことはありませんでした。 もろもろの史料によれば、三代秀衡の母親――二代基衡の妻――は「安倍宗任の女(むすめ)」ということになっております。 しかし、よく考えると、そのつじつまを合わせることにはとても苦労するのです。安倍宗任は、秀衡の曾祖父――基衡の祖父――経清と同時代に活躍していた人物であり、その娘ということであれば、代としては秀衡の祖母にあたるわけです。 さしあたり、秀衡の没年と年齢はわりとつかみやすいので、そこから追ってみました。秀衡が生まれた年は推定ですが西暦1121年頃と思われます。宗任が源頼義・義家親子に投降したのが1062年ですから、秀衡はその59年後に生まれたということになります。 はたして、秀衡の母は宗任が投降した時点では生まれていたのでしょうか。 生まれていれば、秀衡を59歳以上の年齢で生んだことになります。 しかし、なにしろ人間50年時代の59歳です。このセンはなかったと考えたほうが賢明でしょう。ということは、彼女は宗任が流罪にされてから生まれた娘だったということになります。 ところで、宗任自身は投降時点で何歳だったのでしょう。 「鳥海の柵」を任せられていたくらいですから、おそらく前九年の役(実際は12年)の開戦時には出陣していたことでしょう。仮に戦の始まりの際に15歳くらいで初陣だったとしても、終戦時には27歳くらいになっていたということになります。 それにしても59年とはずいぶん長い時間です。仮に宗任の娘が秀衡を30歳で生んでいたとすると、彼女は宗任が(59年-30年+27歳=)56歳のときに生まれたということになります。しつこいようですが、男とはいえ、人間50年時代の56歳です。当時としてはかなり高齢です。しかも、宗任は罪人としてとうの昔に奥州から離れており、自由に往来できる身ではなかったのです。私の頭が混乱する理由をおわかりいただけますでしょうか。 おそらくどこかに嘘があるのでしょう。「安倍宗任の娘」ということ自体が嘘なのでしょうか。 しかし、奥州藤原氏にとって、秀衡が罪人である安倍宗任の娘の子であることを主張しても、なんの得もありません。だからこそ、私はそこにはなにかしらの真実があるように思えるのです。 現地に行けばなにかわかるかもしれない。そんな思いで私は平泉に向かいました。平泉は仙台から100キロもありませんので、このような思いつきでよく出向いてしまう場所のひとつです。 しかし、何度も訪れているわりに、意外にも秀衡の母が建立した「観自在王院」跡には一度も足を踏み入れたことはありませんでした。 このとき初めて知ったのですが、ここにはささやかながら、彼女の墓標がありました。碑には、仁平二年四月二十日付で「前鎮守府将軍基衡室安倍宗任女墓」と書いてあり、なにやら感慨深いものがあります。 結局は現地を訪れようとも何もわかりませんでした。しかし、この墓標にあえて強調されている「安部宗任女」の文字には信念すら感じます。先に私は罪人宗任の娘の子を主張することについてなんの得もないとは書きましたが、別な見方をするならば、この奥州の地においては、もしかしたら“藤原”という雅やかな姓よりも、“安部一族”を主張することの方がずっと強い求心力があったのかもしれないともよぎりました。 さて、私はその足で観自在王院の夫寺でもある基衡建立の有名な「毛越寺(もうつうじ)」にも立ち寄りました。そこでオフィシャル(?)ガイドブックを買い求め、パラパラと目を通してみると驚くべき記事に一瞬思考が止まりました。 恥ずかしながら知らなかったのですが、鎌倉側の記録である「吾妻鏡」には、「基衡夭折」という記載があるというのです。 それでは中尊寺に供養されている推定年齢50〜60歳代のミイラは一体誰なのでしょうか・・・・。 全く関係ありませんが、平泉にも京都よろしくお盆には大文字がありますが、この日ふと見上げると偶然「雪の大文字」が浮かび上がっておりました。
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