|
鹿島神宮は、延喜式の神名帳において“神宮”号を冠された数少ない社です。数少ないどころか、延喜式においてこの号で呼ばれた神社は全国でも実に三社しか存在しません。一社は霞ヶ浦対岸の下総国「香取(かとり)神宮」であり、もう一社はなんと「伊勢神宮」です。この一事だけでも鹿島神宮がただならぬ神社であることは容易に推察できます。 鹿島神宮の「武甕槌(たけみかづち)神」は、香取神宮の「経津主(ふつぬし)神」とワンセットで扱われます。この神々は同一であるという説が有力なようですが、こうやって、あえて違う名前で大々的に祀られているものに対し、それらが「同一である」という発想は、私にはなじめません。私は、それは単純に為政者に片一方を隠したい意図があったからこそ起ったイメージに過ぎないと思うのです。何故そのようなことが起るかというと、実在を抹消したくとも祟りが怖いから抹消も出来ない、という心理が権力者に働いていたからだと思います。 おそらくは、鹿島・香取のいずれかが相手の一方に被ったのでしょう。少なくとも、いずれかは祟り神なのであろう、と想像するのは極めて自然であると思います。 この一対の大社は、東北地方を愛する私にとって、とても複雑な存在です。6〜8世紀に北上するヤマトが、この二神を奉斎して陸奥国に進出してきているからです。 ちなみに9世紀くらいになると、その役割は坂上田村麻呂伝承の十一面観音なり、慈覚大師円仁伝承の天台寺院にとって代わられていったようです。 それはともかく、この鹿島・香取の北上は、ヤマト本体が北上したと言うよりも、古代氏族の個別の北上とみなす方がよっぽど自然で、『蝦夷(吉川弘文館)』の高橋富雄さんの表現を借りれば、いわゆる平和的植民の「文化征服」にあたると思われます。 つまり、さほどに侵略的な匂いは感じません。このとき、その二神を奉斎したのは多氏や物部氏といった古代氏族だったのでしょう。 こういった古代氏族の版図拡大の事績は、記紀編纂のときに、さもヤマト自体の歴史として語られることになったようなので、本質を掴みづらいものがあります。 さて、タケミカヅチ・フツヌシといえば、実は“鹽竈(しおがま)神”でもあるのです。私がこの鹿島や香取を訪れた理由は“「鹽竈神とはなんぞや」という探索”の一環でした。 たびたび語ったとおり、宮城県塩竈市の鹽竈神社は、三本殿二拝殿という全国でも稀な形式の社殿です。三本殿とは左宮・右宮・別宮の三宮なわけですが、この別宮以外の二宮こそが鹿島・香取の神、すなわちタケミカヅチ・フツヌシなのです。 この不思議な形式を決定したのは仙台四代藩主の伊達綱村でありました。その際、綱村はこの鹿島・香取の神を主座に置きました。綱村も決して自らの判断でそうしたわけではなく、様々な識者や古伝などに基づいてそう決定したに過ぎないのです。 しかし、タケ・フツ二神を祀る鹽竈社は、決して鹿島や香取の名を冠してきたわけでもなく、はたまた春日というわけでもなく、あくまで鹽竈社を名乗ってきたわけです。 なにより驚いたのは、鎌倉時代に奈良県の「春日大社」の縁起を記した『春日権現験記絵』における記述でした。それには、鹿島神のタケミカヅチは常陸の鹿島よりも先に“陸奥国鹽竈浦に天降った”と書いてあるのです。 このあたり、既に別稿で触れてきたことなので、ここでこれ以上詳しくは触れませんが、私が興味を持ったきっかけはそのあたりにありました。 いずれ、タケミカヅチは常に異族平定といった任務を背負っており、極めて政治的に利用されてきた神でもあったわけです。タケミカヅチはタケミナカタを封じて出雲を平定し、その後、神武軍が長髄彦にリベンジする際にも「高倉下(たかくらじ)」を通じて天孫族に貢献しております。ヤマトの草創期において、記紀が描いたタケミカヅチは、天孫族の武神として最も優れた優等生的な存在なのです。 さて、鹿島神宮は、大鳥居をくぐると、参道が西から東へと続いております。大社のわりに、わりと早く本殿に到達してしまうところも意外な感じです。 しかし、この参道は比較的歴史が浅いらしく、上古には境内北東側の「御手洗池(みたらいいけ)」で身を清めてから参拝するものであったらしいので、納得しました。 ところでこの御手洗池は「池の深さが、大人が入っても、子供が入っても乳をすぎない」と言われているようで、鹿島の七不思議とされております。実際に現地を見てみると、この池の恐ろしいほどの澄み具合には、なにか引き込まれそうな神秘性を感じました。 話を戻します。 社殿は、参道を西から進むと、向かって右側にありました。つまり、南側にあるということです。そして、それは参道側、すなわち北に向かって正対しております。 お気づきでしょうか。 そうです。タケミナカタが坐す諏訪大社の上社と同様、神様が北を向いているのです。 参道をさらに西に進むと、神聖な“極相林――森が到達する極限状態――”の中を歩くことになります。 さて、その奥にある“奥宮”もはたして北向きでありました。案内図を見て、奥宮は要石(かなめいし)を遥拝する向きに造られているよう思い、私はそこを目指しました。 ほとんど誰もこない平坦な森林公園の遊歩道のような参道でしたが、私が到達すると、既になんらかの信仰集団がおり、テンポよく祝詞を唱えておりました。 終わるまで待つか・・・。 そう思い、遠巻きにその光景を眺めていると、そのリーダ―格の人物が「四拍手!」と号令をかけると、集団が一斉にパパパパンとこれもまたテンポのよい四拍手を展開しておりました。 私は、一瞬鳥肌が立ちました。 そんな私の心の動きなど関係なく祝詞は展開し、その後も何度か合間合間に四拍手が入りました。 私はそれまで、四拍手を打つのは出雲大社と宇佐神宮だけかと思っていただけに、この何気ない一事に思いのほか激しい衝撃を受けました。ご存知の方も多いでしょうが、神社の参拝は通常「二礼・二拍手・一礼」であり、柏手は二回が常識なのです。だからこそ四回も柏手を打つ出雲大社や宇佐神宮が謎めいていたのです。私は、それらは一種の封印だと考えておりました。 もしそうだとするならば、何故征服の使者であるタケミカヅチまでもが封印されなければならないのか・・・・。 もちろん、同じ鹿島神宮でも通常の拝殿で見た限りでは神職も含めて誰も四拍手など打っておりませんでした。とすれば、件の要石自体になんらかの秘密があるのでしょうか・・・。 ところが実は、この鹿島の社殿自体にももっと驚くべき秘密があったのです。 それは決して私が大げさに言っているものではありません。その秘密は鹿島神宮の宮司、東実さんの『鹿島神宮(学生社)』にもはっきり書いてあるのです。 ――引用―― 一社の秘事に属すべき本殿内の作法について、『当社例伝記』に、 開かずの御殿と曰うは、奉拝殿の傍に御座す、是即ち正御殿なり、北向きに御座す、本朝の神社多しといえども、北方を向いて立ち給う社は稀なり、鬼門降伏、東征静謐の鎮守にや、当社御神殿の霊法かくの如く、社は北に向ける、其の御神躰は正しく東に向い安置奉る、内陣の例法なり、(原文は漢文)とあるように、社殿は北向き、神座(御神体)は東向きに坐す、しかも南西のすみにである。 つまり社殿の中で一番重要な御祭神は、ふつう神社のように中央にいて、参拝者に相対するようには置かれていない。横向きに、しかも中央ではなく、田の字形四間に区切って考えると、入って右側の奥の一つに鎮座しておられるのである。 多少、古代史に関心のある人ならば、この社殿の配置図を見て、すぐ、おや?と思われることだろう。その通り、もう多くの読者が気がつかれたように、この配置、内部構造は、あの日本神話で重要な位置を占める出雲の、大国主命をまつった出雲大社の内陣と共通するものがあるのである。 いかがでしょうか。ここもまた出雲の神々同様、神様が参拝者に対し“そっぽ”を向いていたのです。私は、もしかしたらタケミカヅチは出雲神族で、大国主以前のなんらかの征服劇(?)の被征服側の主人公だったのではなかろうか、などとも想像しました。
古来、「夷を以て夷を制す」のは常套手段です。降伏した側は、常に先鋒に立たされるのも世の宿命です。もしかしたら、タケミカヅチもまた、強烈な怨霊候補だったのかもしれません。 |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2009年10月29日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]


