|
『河北新報』平成21年12月27日の記事によれば、宮城県栗原市築館(つきだて)の国史跡「伊治(いじ・これはり・これはる)城」の政庁南門が、宝亀11年(780) 「伊治公砦麻呂(あざまろ)の乱」の焼失後に再建されたことが発掘成果によってあきらかになったようです。 この事件は、ヤマト対エミシの“20年戦争”の始まりでした。私は今あえて戦争という言葉を使いましたが、この長きに渡る動乱は、蝦夷(えみし)の反乱と呼ぶにはあまりにも大がかりで、何よりも、全期間にわたってほぼヤマト側が劣勢で終始したものであるだけに、私は国家間の戦争とよぶにふさわしいものであったと考えているのです。 砦麻呂の反乱以降、蝦夷サイドの首領はアテルイという人物でした。 このアテルイという日本語らしからぬ名前は、一見アイヌ系の発音か、とも思われるのですが、どうも照井一族の第一人者、すなわち「阿・照井」であるという伝承(千城央さんの仮説?)が興味深く、例えば宮城県登米市迫町佐沼の佐沼城にある照日権現が照井氏の守護神である事実と重ね合わせると、何か捨ておけないものがあります。 このアテルイ及びモレの最強タッグを降伏させた大和朝廷側の英雄は、征夷大将軍「坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)」でした。 しかし、この田村麻呂は決して軍事力で圧倒して降伏させたわけではありません。結果から言えば“騙して”降伏させたということになります。もちろん田村麻呂自身にそのつもりはなく、おそらく最も心を痛めることになった人物のはずで、考えようによってはある種の被害者であったかもしれません。 いずれ、20年も戦争が続けばさすがに双方疲弊するのは当然のことで、要は“落とし所”という妥協点をお互いに模索していた部分はあったと思われます。 ただ、その和睦の交渉について誰が最初に切り出せるか、というところはネックであったでしょう。 少なくとも被侵略側のエミシにはその交渉を選択する余地などあるはずもなく、ただひたすら自衛するのみです。和睦交渉のカードを切りだせるのはあくまで侵略している側のはずですが、現場の人間からするとそれは自分達の不甲斐なさを認めるものでしょうから到底中枢部に進言出来るわけがありません。まさに塩漬け状態です。 なにしろ、戦に直接参加していない政権中枢部は極めて無責任なもので、ただ単に現場を責め続けるのみなのです。 例えば、『続日本紀』の延暦8年6月の征東将軍紀古佐美の奏上に対する桓武天皇の言葉に次のようなものがあります。 ――宇治谷孟さん全現代語訳『続日本紀 (講談社)』より引用―― いま先の奏上を見ていると、「賊は河の東に集まり、官軍に抵抗して進入を防いでいます。それでまずこの地を征伐してから後に賊地に深く入ろうと計画しています」といっている。そうかと思うと、深く進入するのは有利ではなく、まさに軍を解散すべきであると言ってくる。それならば、その事情を詳しく奏上すべきである。許可がおりてその後に、軍を解散し賊の地を出てもけっして遅くはない。ところが、少しも賊地に進入せず、にわかに戦を止めてしまうという、将軍たちの策の道理はどこにあるのか。将軍らは凶悪な賊を恐れて留まっているためであるということが、今朕にはっきりと分かった。将軍らはうわべだけを飾った言葉で、罪や過失を巧みに逃れようとしているのである。臣の道にそむくことこれ以上のものはない。 実に厳しい言葉ですが、このようなやりとりは他にもたくさん記録されております。多賀城の朝廷軍はよほどアテルイに翻弄されていたのでしょう。 多賀城サイドの報告、そしてそれに対して「言い訳するな」と激昂する桓武天皇のやりとりは、一見桓武天皇に正論があるようにしか見えません。 しかし、私は必ずしもそうではなかったであろうと推測します。おそらくは、もっと悲惨な現状を報告出来ず、嘘に嘘が上塗りされ、報告に矛盾が生じていたのではないでしょうか。現代社会でも――特に営業職の方であれば――上層部とのやりとりで似たような経験をされた方も多いのではないでしょうか。織田裕二さんではありませんが「事件は現場で起きている」のです。 それはともかく、そのようなジレンマを打開したのは田村麻呂でした。田村麻呂は当然戦にも長けていたのでしょうが、おそらくはかなりのリアリストであったのではないかと思われます。これ以上戦争を続けていても「朝廷に利無し」と考えたのでしょう。有利な状態のうちに和睦を持ちかければ現状を打開出来ると考えたようです。田村麻呂は、エミシ側の強さの源、精神的主柱であったアテルイやモレの助命を約束することでエミシ側に降伏を勧めました。とっくに長すぎる混乱にうんざりしていた世論は比較的楽に受け入れたのではないでしょうか。おそらく、いくらカリスマ将軍の田村麻呂でも、それが10年も昔であればさほど他の将軍と結果が変わらなかったのではないかと思います。 結局、アテルイとモレは許されませんでした。『日本後記』には次のようにあります。 ――森田悌さん全現代語訳『日本後記(講談社)』より引用―― 両人を斬刑に処する時、将軍坂上田村麻呂らが「今回は阿弖利為・母礼の希望を認めて郷里へ戻し、帰属しない蝦夷を招き懐かせようと思います」と申し出たが、公卿らは自分たちの見解に固執して「夷らは性格が野蛮で、約束を守ることがない。たまたま朝廷の威厳により捕えた賊の長を、もし願いどおり陸奥国の奥地へ帰せば、いわゆる虎を生かして災いをあとに残すのと同じである」と言い、ついに両人を引きだし、河内国の植山で斬った。 どの口が「野蛮で約束を守らない」などと言っていたのかはもはや笑い話としか思えませんが、田村麻呂は結果的に騙し討ちをしてしまいました。この後、彼はどのような気持ちだったのでしょう。陸奥国各地に残る田村麻呂縁の観音信仰は、案外アテルイやモレに対する罪悪感にさいなまれたやりきれない本音の投影かもしない、などと思うこともあります。
砦麻呂の反乱から22年後の延暦21年(802)、桓武天皇は田村麻呂に胆沢城の築城を命じました。 しかし、その城が完成する前にアテルイとモレは斬刑に処されることになったわけです。最強の敵を失った胆沢城は、その後特に大きく表舞台に現れることはありませんでした。 |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2009年12月29日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]




