はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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 かつて東北新幹線が開通する前、東北人が特急電車で東京に行く場合の終着駅は上野駅でした。東北新幹線も開業当初の数年は大宮、そして上野が終着駅でした。
 不思議なもので、上野に到着したときには「東京だ!」と大都会の興奮を覚えるのですが、東北に帰るときに上野駅に辿り着くともう東北に帰ってきたような気持ちにさせられたものです。 
 ♪うえ〜のはぁ〜 おい〜らのぉ〜 こぉころぉ〜のぉえきぃ〜だ〜♪というように上野駅には東北人の郷愁が漂っておりました。
 ちなみに、かつて私の部下であったO君は、仙台市地下鉄南北線を北に向かう場合、黒松駅・八乙女駅の後は終点の泉中央駅なわけですが、その英語案内を聞いていつも悩んでいたようです。

「ク・ロ・マ・ツ〜、ヤ・オ・ト・メ〜、イズミチュウオウ〜 チョミナ〜 って言ってますけど、最後のチョミナ〜ってなんですかね?」
「・・・・・」

O君、それはチョミナ〜ではなくターミナルと言っているのですよ・・・。
 それはともかく、東北から東京に向かう場合にいよいよ首都圏に入ったなあと感じさせられたのが埼玉県の大宮駅でした。言うまでもなく、ここはかつての大宮市近郊の一つのチョミナ〜、いえ、ターミナルであり、埼玉県の交通拠点でした。大宮に近づくと、いわゆる“国電”と呼ばれた都市型の無味乾燥な電車がやたらと目につき始め、その光景を見ると首都圏を感じたものでした。いつも不思議であったのは、特急電車は大宮にのみ停車し、浦和はことごとく通過することでした。東北地方では原則県庁所在地が最大の都市であるためか、県庁所在地を特急電車がことごとく通過するというダイヤには違和感を抱いておりました。しいてあげれば、唯一福島県だけはいわき市や郡山市といった県庁所在地の福島市よりも人口の多い都市が存在しておりましたが、それでもほとんどの特急電車は福島市を無視することはありません。
 さて、現在となってはその大宮と浦和は周辺市町をも巻き込んで合併し、人口100万を超えるさいたま市という名実を備えた県庁所在都市が生まれております。私の記憶に間違いがなければ浦和・大宮の元々の人口は各々40万人程度で、ライバル同士のような同規模都市の合併ということもあり、市名の決定には相当紆余曲折があったことでしょう。なるほど両都市いずれにも偏らないように県名を冠するというのは無難な選択であったのかもしれません。
 しかし、果たして本当にそれでよかったのでしょうか。何故なら、“さいたま”の県名は、この忽然と生まれた大都市“さいたま市”とは全く無縁の地において発祥したものと思われ、さいたま市を代表する浦和や大宮はかつての埼玉郡にすら含まれていなかったと思われるからです。
 埼玉県名は県内の埼玉郡に由来しており、それは更に正倉院文書神亀三年(726)の山城国戸籍帳にみられる「武蔵国前玉(さきたま)郡」に由来しているようです。そしてそれは延喜式神名帳に記載された「前玉(さきたま)神社二座」と無縁ではないでしょう。
 埼玉県行田市にある「埼玉県名発祥之碑」には次のように書いてあります。

――引用――
埼玉県名の由来
 明治四年十一月十四日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設置するとの太政宣布告が出された。これが埼玉県の誕生である。以後、幾度かの変遷を経て命じ九年八月に現在の埼玉県の区域が定まった。「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の管轄区域の中で、最も広いのが埼玉郡であったことによる。
 埼玉郡は律令による国郡制度が発足した当初から設置された郡と見られ、当初は前玉(さきたま)郡という表示も行われ、正倉院文書神亀三年(726)の山城(やましろ)国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記が見える。また、延喜式神名帳にも埼玉郡の項に「前玉神社二座」とある。
 ここ行田市埼玉(さきたま)の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所でもある。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て、県名発祥の記念とする。
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 たまに、邪馬台国関東説なども見受けます。その場合、この地の古墳群がその夢を掻きたてているのは間違いありません。
 当地の稲荷山古墳から発掘されたという金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)――稲荷山古墳出土鉄剣銘――などは、115文字という同時代の大陸と比較しても多い字数を有しており、日本古代史編年の明確な基準として確立することとなりました。
 また、この鉄剣は5世紀後半という時期にこの地がヤマトに仕えていたことを証明する銘が刻まれていたとしても有名になりました。
 具体的には、代々杖刀人(じょうとうじん)の首長を務めるヲワケなる人物が“獲加多支鹵大王”の治天の補佐を記念としたもののようなので、獲加多支鹵大王という文字を通説どおりワカタケル大王と読むならば、すなわち21代雄略天皇――雄略大王――のこととなりますから、雄略天皇の支配は畿内や九州にとどまらず、この地にまで確実に及んでいたことを証明することになるのです。
 この雄略天皇はかなりの“剛腕”であったようで、絶対的な力で一気に中央集権を推し進めたようです。中国側の史料――『宋書』――に「倭国王武」と記されたのもこの雄略であったと見られ、このことからもこの天皇――大王――の活躍した時代が5世紀後半であると考えられております。
 雄略天皇は、丹波国の豊受大神を伊勢に遷し、天照大神の食物神として祀りました。すなわち“外宮”を創設したのもこの雄略天皇なのです。
 剛腕雄略天皇は、その絶対的王権の充実のため“血の独占”をはかったフシもあり、私が思うにはそのツケが4代後の武烈天皇で弊害が出たものと考えております。武烈天皇の代でこの直系の血は途絶えることとなりました。
 ところで、この稲荷山古墳を含めた埼玉古墳群の前方後円墳を見ていて、ふと思ったことがあります。
 結論からいうと、当地の文化は私の地元宮城県内に巨大古墳を築いた文化とは異なる、ということです。
 前方後円墳の場合、円墳部に遺体が埋葬され、方部において参列者がなんらかの儀式を執り行っていたのかと想像されるわけで、したがって東北最大級の雷神山古墳や遠見塚古墳は、その祀る側と祀られる側の格差を明確にしているかのごとく、円墳部の高さが圧倒的に方部の高さを上回ります。方部の祭祀者側からは円墳を見上げるような形になるのが普通なのです。

名取市雷神山古墳
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 しかし、埼玉古墳群の前方後円墳は円墳部と方部がほぼ同じ高さなのです。

行田市稲荷山古墳
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 これを、被葬者を敬っているいないの問題とは言いませんが、少なくともその儀式の在り方については紛れもなく異なるものと思われます。
 もちろん、宮城県内のそれらは5世紀前半のものと考えられますので、埼玉県より更に奥地にあるにもかかわらず約半世紀も時代が遡るわけですから、その時間・空間の差であるとは言えるのかもしれませんが・・・。

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